第8章
夜中、ほとんど聞こえないような物音に反応して陽音は目を覚ました。それだけ神経が立っていたと言うことだろうか。ただ、この空気の音が聞こえてきそうな静けさと、そして張りつめた空気は何かを予感させる。耳鳴りのような空気の音が聞こえ始めるとそれは耳の中で重なり合い、不協和音から次第に神秘的な響きにまでなっていく。
首を振ってその音を振り払うようにしながら陽音は下をのぞいた。予感……いや、確信があった。空海はそこにいない。
足音を忍ばせて階段を下りていく。リビングの大きな窓の側に華奢な人影があった。そこから見える海をじっと見つめている。真っ黒な海と、月の光を照り返して白く泡立つ波と、星をちりばめた空と、そして月。
「空海」
振り返らない、反応もしない空海の隣まで行き、陽音も同じように外を見つめた。ここで待ち続ける空海。一緒にいて空海を守り続けるハル。
「さっきね」
「…………」
続く言葉を待つように、陽音は空海を見下ろした。斜め上から見下ろす空海の顔は淡く、そして少し明るさの足りない外の薄ぼんやりとした暗さとも明るさともつかないものの中でまるでそこに溶け込んでいってしまいそうに見える。
「沖の方に潮が上がったの」
「見えた?」
「呼んでるみたいだった」
微かに顔をしかめる陽音を、今度は空海は見上げて笑う。その顎の下に自分の頭をすっぽりはめるように、空海は額を陽音の鎖骨に当てた。
その頭の上に顎を乗せ、そのまま陽音は口を開く。耳に響く音の震動と、それを直に感じる頭の震動に空海は目を閉じた。
「オレは、待たないから」
「うん」
「お前だっておとなしく待っているような性格じゃないだろ」
「……星海さんがね」
微かに顔をしかめた気配を感じながら空海は続ける。
「野生児って言ったの」
「……否定できないな、それは」
陽音の苦笑いの気配を感じながら空海は顔を上げて軽く睨んだ。その目は自然と、そのまま外に向けられる。
まるでそうして外を見ている双子の想いを読んだかのように、背後から声がかかった。
「くじらが唄いそうな夜だな」
* *
夜が明ける気配もない深夜。起き出した双子の背中に声をかけ、リビングの入り口の柱に寄りかかったハルは振り返った二人ににやり、と笑みを向けた。一緒に過ごした時間の方が短いはずのこの双子は、呆れるほどによく似ている。そしてひどく仲がいい。表面の陽音の素っ気なさに騙されてはいけない。
「今夜あたり、シークレットライブでもやっていそうだな」
「……ハルくん」
起き出していることに気づいていても、こうして出てくることなどなかった。そうすれば空海が行こうと言い出すのが目に見えているから。からかうように笑っているハルの顔を見上げ、思わずぽかんとした顔になってしまう。
「当たるかはずれるか、賭けるか?」
「賭けないよ」
言いながら空海はようやく我に返ったように明るい表情になる。目が生き生きとしてきたのを見ながらハルは顎で外をしゃくった。
「行ってやる。陽音、どうする」
「…………」
「人がお前を病弱だのいってるのは気にするな。お前の身体だ、自分で分かるだろ。問題なければ、それで行きたければ連れてってやる」
既にハルの方へ行きかけながら、ちょうど中間点あたりで足を止めた空海が陽音を振り返る。こんな風に陽音に選択肢が与えられることなど、ないことだった。そうして陽音が何かハルをまっすぐに見ている時に、空海はふと思い出したように口を開く。
「星海さん……」
「……いいよ。呼んでこい。面倒見てやる」
偉そうなハルの言葉に反撥するでもなく、空海はただ頷いた。ハルの横をすり抜けて星海が寝ているはずの部屋に向かう。その足音はほとんどしなかった。
* *
文字通り空海にたたき起こされ、眠い目をこすりながら時計を手にとった星海はがっくりと肩を落とした。この時間に起こされるとはさすがに思っていなかった。夜更かしをしている時なら、場合によってはまだ寝る前のような時間だ。
「空海ちゃん……今日はどうしたの」
まだ寝ぼけているような少し舌の回らないような声で言われ、空海は腰に手を当てる。そうして星海の腕を引っ張り起き上がらせた。
「しゃきっとして、星海さん。ハルくんがせっかく海に連れて行ってくれるって言うんだから」
「海?」
この時間に、と思わず聞き返してしまう。ナイトダイビングは普通に潜るよりもさらに技術を必要とするのだと言うことはまさにこの目の前にいる空海から聞いて教わったことだ。それを初心者……しかもライセンスも持っていない人間を連れて行くというのか。確かに突飛なことをしてくれる人たちだけれど、さすがに驚いた。それほど見せたいものがあるということなのかとも思うが、それだけであのハルが自分の同行を許してくれるようにも思えなかったが。
「シークレットライブよ」
「……???」
思い切り首を傾げている星海を、空海はそれ以上何の説明もなしに引っ張ってハルと陽音のいるリビングへ戻る。その頃にはさすがに陽音の結論も出ているだろう、と。きっともう出ているのに、それを口にしなかっただけだろうけれど。
案の定、一緒に行くという陽音を含め四人で浜に出ていく。きちんと装備を身につけたところで、ハルはおもむろに取り出した長いロープを自分の腰に巻き、もう片方を星海にまいた。
「これは?」
「命綱」
いいながらハルはしっかりと結べているかを調べる。動きにくくないか、苦しくないかも調べてからハルは苦笑いをした。経験の浅い星海を連れて行くための苦肉の策だ。
「自分の足にロープ絡めておぼれないようにな。沖に行けば流れが速い。流されないようにつないどくんだ」
空海と陽音も結んでいるのかと思えばそう言うこともない。その視線の意味を読み取ってハルは笑う。
「その二人は心配ない。どちらかが流されるならもう片方だってどうせ持ちこたえられない」
きっぱりとそんなことまで言い切りながら三人にナイフを渡す。
「オレがもし流されて星海を巻き込みそうだったら、星海、ロープを切れ。無理に助けようとするな。オレも、無理だと思ったら切る。空海と陽音は、オレ達が躊躇してたら切れ」
三人三様にナイフを見つめ、複雑な顔でハルを見上げた。それにしっかりと笑みを返しながら、先頭切って海に入っていった。
* *
真っ暗な海の中を泳いでいく。真っ暗な海は何となく、タールのような印象を星海は勝手に抱いていたことに実際に入ってみてから気づく。身体にまとわりついてくるような、水がどろっとして重いような、そんな印象を勝手に抱いていた。けれど海は変わらない。昼間と同じように、本来は透明な水。だからこそ、空の色を反射させて空と同じように色を変えるのだ。
その真っ暗な中に頭に巻き付けたライトが直線で先を照らす。四本の光が交差したり離れたりしながら夜の海の中にスポットライトを当てるようにピンポイントで照らし出していく。
あの海溝を目前にして一度進みが止まった。ハルが流れを読むようにしてじっとその海溝を見据えている。ホワイトボードを出したハルは何かを書いてそれを星海に示した。
『海溝の上は他の場所と流れの向きも強さも違う。先に渡って向こう側でロープを持っているから、その流れの違いを頭に入れて渡ってこい』
まずはハルが先に渡っていく。何の苦もなく泳いでいく様子は他の場所とそこが何の違いもないような錯覚を起こしそうになる。続いてそのロープに縋るようにしながら星海が行き、そして空海と陽音が泳ぎだした。身体の下にぽっかりと、どこまでも落ち込んでいく底の見えない空間がある。地上で言うのなら高層ビルの屋上から隣の高層ビルの屋上に生身の身体で飛び移ろうとしているようなものだ。まず引力に勝てずに下に引きずり落とされる。その感覚で身構えそうになるが、そんなことはない。むしろ身構えた方がその可能性が出てくる。力を入れることで「重さ」が増し、沈みやすくなるのだから。
全員が渡り終えるとハルはそのまま先に泳ぎ始める。難関を過ぎれば後はまた普通の海が続く。それでもやはり流れはラグーンの中とは全く違うし空間的な感覚までが違ってくる。戸惑いながらも星海は周囲を見回した。きょろきょろしている間に離れてしまったのか、ロープにくん、と引っ張られた。
慌ててそちらに向かいながら一緒に泳いでいる三人の横顔を見つめる。一様に緊張した面持ちがそこにはあった。
そして不意に空海が泳ぎをやめる。水中に立つような姿勢できょろきょろと周囲を見回した。耳をすますように、両の耳に手を当てて目を閉じているのが分かる。星海がその空海を見ている間に、陽音とハルも同じようにして止まっていた。真似るようにして耳をすましてみる。張りつめた空気の音は、潜った時に水中独特の耳鳴りを伴う拡散していくような音の世界に変わり、そして今、また別の音が聞こえる。それは拡散していく音の波の中で収束しようとし、そして旋律さえ持っているように聞こえた。
音の主を捜す星海の仕種に顔を上げ、空海が首を振る。姿など見えなくていいのだ。これはくじらの唄。群で唄っているのかもしれない。遠くの群と呼び交わすように唄い交わしているのかもしれない。それをそっと聞かせてもらうのはいいけれど、その姿を探してはいけない。ここは彼らの場所なのだから。
音に包まれるようにして、ハルの合図で浜に戻る。エアの残量はぎりぎりだった。
* *
浜に上がると、砂浜に直に座っている人影があった。ぼんやりと白んだ空の下、自分の膝に頬杖をつくようにしているのは空海と陽音の母だった。
「珍しい、起きたの?」
陽音の声に彼女は顔をしかめる。星海にも少しずつ、分かってきた。決してこの中であの人が異質なわけではないのだと。あの人もまた、どちらかといえばこちら側に近い場所にいる人なのだ。それでもあのような話を持ってきたのは、待ち続ける空海を心配したためなのだろうと今は思える。最初は強欲で世間知らずなお嬢さんなのかと、そんな風に思ってしまっていたけれど。そうでなければこの双子やハル、そして少なくともここまで連れてきた島の人たちの態度の説明がつかない。
「あの月だもの」
「寝てられない?」
「じっとしてるとは思えなかったのよ」
言いながら咎めるように陽音を見上げる。きつい眼差しはまっすぐに陽音の目をとらえていた。
「何ともない?」
「そんなヤワじゃない」
「……つまらないなぁ、ホント。どんどん手を離れていくんだもの」
ぼやくように言う彼女の手を不意打ちのように空海が引っ張った。そうして立たせながら空海は笑ってハルを振り返る。
「大人って素直じゃないわね」
「お前が単純なんだ」
苦笑いで答えながらハルは手際よく使っていたダイビングの装備を片づけていく。横で手伝いながら星海はハルの横顔をうかがった。複雑な大人の視線で見るから、単純な子供の行動まで理解不能の複雑なものになってしまうのだろうか。
「さっきのが……」
「くじらが唄ってるんだと、兄貴は言ってたけどな」
「特別な月夜にくじらが唄う……?」
「そう。……空海に聞いたか?」
頷く星海を見ながらハルは笑った。自分たちはこうしてくじらの唄を聴いて無事に帰ってきた。聞こうとして聞けるものでもない。聞けないことの方が当たり前なのだ。そんなに簡単に聞けるものではない。だからこそ、兄のような人間は追いかけてしまうのだろうとは思うけれど。




