第6章
「陽音、朝何食べたい?」
星海がリビングに入ろうとすると中から空海の声が聞こえてくる。思わずそっとのぞき込むと、キッチンの側で椅子に逆向きに跨るように座っている陽音の背中と、既に何か朝の仕度を始めている空海の背中が見えた。そうしている姿はあまりにも自然で、最初に陽音を見た瞬間に感じた違和感など欠片もない。
「焼き魚、みそ汁、白飯……じゃない、ひじきご飯」
「……和食ね。てか……面倒なこと言ってくれるなぁ」
それなら昨夜のうちに言ってくれればいいのに、と呟きながらも手早く空海は仕度をしていく。その手元を眺めながら陽音はのんびりとすっかり落ち着いていた。
「後で洗濯はしてやるよ」
「してやる、じゃないでしょ。洗濯機、一回目はもう回してるから終わったら干してきて」
「オレに外に出ろと?」
「少しは日に当たらないと腐るよ」
「うるせぇよ」
言い返しながらも陽音は楽しそうだ、と星海の目には映る。空海と双子だということに何の違和感もない、屈託のない少年がそこにはいた。都会から来た無愛想でつかみ所のない少年などどこにもいない。
「空海」
「ん?」
「あの人」
「星海さん?」
「本当は何しに来たのか、オレが聞いてやろうか?」
「いいよ」
「いいって……」
「いいの。わたしが信用した。それにわたしが引き止めた。文句ある?」
「兄貴が妹の心配するのに文句あるか?」
「ないよ。だから、信用しろって我が侭いう妹の言い分にも文句つけないで」
「めちゃくちゃだな」
陽音の苦笑いで終わった会話に、星海はそっと深く息を吐き出す。何も疑問を抱かない方がおかしい。おかしいと思われて当たり前なのだ。あんな理由をそのまま納得するはずもない。例え事実だったとしても自分だってありえないと思う。
今ここに来たと知らせるつもりで、星海はすぐ脇の柱を軽くノックするように叩いた。振り返った空海が笑顔を見せるのと同じように、陽音の顔から表情がさっと消えていく。その対照的な様子に苦笑いを禁じ得なかった。
「手伝う?」
「じゃあ、掃除してください。適当に」
「へいへい」
* *
「陽音、あんた……空海、陽音に何をさせているの。寝込んだらどうするの」
ヒステリックな声に思わず星海は声の方をのぞき込んだ。声を無視して洗濯物を干している陽音と、声に振り返った空海が見える。声の主は二人の母親だ。
「そんなに簡単に寝込まないよ。ねぇ、陽音」
空海は言いながら陽音を振り返る。肩をすくめる様子を見てからその目を再び母に戻した。
「陽音だって全然外に出ないわけじゃないでしょ。少しくらい日に当たるのは必要じゃないの? 日に当たらない方が不健康だよ。人間だって、動物なんだから」
「な……」
「深海魚だって、海面からくる僅かな日の光をそれでも浴びているんだっていう話もあるでしょ」
「陽音と深海魚を一緒にしないで。……第一、ここは陽射しの強さが違うわ」
一瞬絶句しながらも言葉を継いだ母に空海は困った顔をする。
「陽音をコントロールしようとしないで。陽音を縛らないで」
「何を……分かったような口を利くの、あなたは」
「確かに母さんと陽音は親子だよ。でも別の人間なんだよ。母さんに陽音が何をするのか決めることはできない」
「陽音が自分で自分のためになることが何か分からなければそれは必要なことです。保護者の義務です」
「陽音はそんなに、子供じゃないよ」
淡々と応じ、空海は陽音と一緒に干していた洗濯物に手を伸ばす。陽音の方は会話に加わる様子もなく、ただ黙々と洗濯物干しを続けていた。その様子が星海には何とも言い難いものに映る。その視点から見ても胸が締め付けられるような気がする。あの母親は、世間的にみてそれほど変わったことを言っているわけではない。少子化が進む中、子供に必要以上に干渉し「管理」とも言えるような接し方をする親も珍しくはない。ただそこに自由奔放なもう一人の子供が加われば不意にその姿は異様なものとして浮き上がらされてしまうのだ。
「星海さん、聞いてたでしょ」
屋上から降りてきた空海が悪戯っぽい目を星海に向ける。気まずく逸らしかけた目を戻して、星海は頷くしかなかった。空海は笑ってただその答えに頷く。
「陽音君は本当に身体が弱いの? それとも」
「弱いのは本当。でもあれは……弱いとはわたしは思わないけど。陽音は普通だよ」
「わざとそう見せてるとか?」
「そうじゃなくて。あれが陽音の普通。わたしの普通はわたしの普通。それに陽音は、嫌だと思ったらわたしがなんて言ったって聞かないから。だから、ああやって外に出てるのは自分がやりたいから。やらせればいいんだよ。いつまでも病弱な子供じゃない」
少し挑むような目をする空海に星海は戸惑うしかない。どうしてこうも強い目を持つことができるのだろう。まっすぐに見つめる目を。まるでその目の力に呑み込まれそうになってしまう。
「何?」
きょとんとした顔で首を傾げる空海に苦笑いを向け、星海は肩をすくめた。それから所在なさげにしている空海の母親がいるはずの方を僅かに振り返る。
「いいの? 放っておいて。久々なんだろう?」
「大丈夫。放っておいても話すとなれば自分で話す人だから」
厭うているのかと思えばそういうわけでもなさそうな顔を空海はする。そんな母親をそれはそれでまたそのままに受け容れているような。避けているのは母親ではなく、今この時、母親がここへ持ち込もうとしている話題なのかもしれない。
* *
ジーンズに長袖のパーカーを着た細身の後ろ姿が桟橋の突端に見える。家の中からそれに気づいた星海はそちらを見つめた。それから、すぐ側にあの双子の母親が座っていることを思い出す。気まずく身じろぎしかけると、彼女の方がため息をついて星海を振り仰いだ。
「とんだ母親よね」
「は……」
唐突な言葉に返す言葉が分からない。戸惑っている星海を見上げ、彼女は皮肉げに笑った。けれどそれは自分に向けた表情のようで、そしてとにかく笑顔と呼べるものを浮かべた彼女は、一気に表情が軟らかくなりかわいらしいとさえ言えるようなものに変わる。
「このままじゃ決心が鈍る一方だわ」
「決心?」
「早く話さないと。それなのに、それが分かってるからあの子は話が始まらないようにしてる。本気でハルが帰ってくるのを待つ気だわ」
「……何の話なのか分かりませんが。でも、そんな風に決心しなければできないような話で、それを空海ちゃんが嫌がっているのなら今は見送ればいいんじゃないですか?」
星海の単純な返答に彼女は肩をすくめる。今を逃せばずるずるといってしまうのだ。ここを逃したらもう機会はないような気がした。
「まあいいのよ。ハルが来れば、やり合わないといけないから決心も何もなく、言うつもりできたことを言えるわ」
それで、と彼女は星海の方を改めて向いた。
「あなたは何者? 何で今ここにいるの?」
「それは……」
「お客様だって言ったでしょ、母さん」
通りかかったように、不意に空海の声が割って入った。振り返ると複雑な顔で空海は母を見つめている。表面に見えているだけではないつながりがこの親子の間にもあったのだと、ようやく星海にも分かってきた。島の人たちにはきっと分かっていただろう。あの人たちの口の悪さは差し引いて考えなければいけないのかもしれない。
「空海、話を……」
「後で。泳いでくる」
くるりと身を翻した空海は、すぐに桟橋の突端に陽音が見えるあの窓からの風景の中に現れ、軽い足取りで陽音の方にかけていく。星海もそちらに足を向けたかったが、この、何を話せばいいのかも分からないような空気に金縛りにあったように、動けなかった。
* *
空海が一潜りしている間、陽音はずっと桟橋にいた。守るように犬たちがその側にじっとしている。イルカも一頭、その浅瀬にとどまっているようだった。ああやって潜ってきた空海は、自分が目にした世界を生き生きと語って聞かせるのだろうか。
ようやく顔を揃えて腰を落ち着けたのは、昼食の後だった。ことん、とカップを置く音が合図のように、空海は諦めた顔で母親を見た。
「ハルを待つのはやめたの?」
「帰ってくる。でも、聞くのはわたしだけでもできる。でも、答えを出せるのはハル君だよ」
「頑固者ね」
きっと何の話が始まるのか分かっているはずの陽音は、どちらに加勢しようと口を開くでもなく、ただ黙ってその間にいる。部外者であるはずの星海はその中に放り込まれ、居心地の悪さをどうしようもないものにしながらただ成り行きを見守るしかない。
「この家とこの島……今後のことよ」
「今後、ね」
分からないフリはもうやめたというように、空海はまっすぐに母を見つめる。その目にたじろぐことなく、その人は頷いた。
「未成年が管理して一人でいることがそもそもおかしいのよ。あの段階で、本当ならわたしのところに来るべきだった。もう十分でしょ」
「母さん、勘違いしてるよ」
「勘違いしているのはあなたよ」
どうやっても意見の一致するところが見えない。話が完全に見えているわけではない星海にはなおさら分からない話だった。ただ、何となくその内容は予想できてはいるのだけれど。だからこそ、星海はここにいる。
「空海、そろそろ話せ」
陽音に言葉少なに言われ、驚いた顔をしたのは母親の方だ。普段、母と暮らす陽音はここで見せるのとは違う顔をしているのかもしれない。
「どういうこと。陽音、何か知ってるの」
「母さんが無関心なんだよ。空海はそこまでバカじゃない。バカだけど」
「どっちよ」
ふくれながら空海は陽音を睨み、その目をまた母に戻した。空海が口を開くのを待ちきれなかった彼女が、先に口を開く。
「留守番だ、待っていると言ったって、帰ってくるわけないのよ。もう、十分でしょう。届けを出してから十分時間も経った。お葬式を出して、ここは処分して財産は分ける。わたしのところに来てもいいし、その後は好きにしてかまわないわ。とにかく、ここはもう、あなたの場所じゃないのよ」
「母さん……それがだから、間違ってるんだ」
空海より先に陽音が口を開く。その少し怒ったような声に、それまで母親の口にした台詞に思わず目を見開いてそちらを凝視していた星海ははっとしたように振り返った。空海を庇うように陽音が少し、身を乗り出している。
「母さんはもう、父さんの財産を受け取る立場じゃない。オレもいらない。でもそんなこと関係ないだろ。待ってるのも、留守を守ってるのも空海だ。ここをどうするか決められるのも空海と、後見人のハルさんだ。それに何より……」
「届けなんて、出してないよ」
後を受けるように空海が口を開く。目を見開いた母親は口をぱくぱくと開きながら言葉にならない。
「だって……」
「母さんが出したのは、すぐに取り下げた」
「何を勝手な」
「わたしはここにいる。ここがわたしの家だよ。母さん……わたしの前からいなくなって、陽音を連れて行って、その上家までとらないで」
それまで毅然としていた空海の語尾が不意に震える。それは、母への甘えの言葉でもあった。あのようなことを言う母親の気持ちの中に、ここに社会から離れて暮らす娘への心配も確かに含まれていることをしっかりと感じ取っている。そしてまた、この母と娘は彼女たちなりの形で想い合ってもいるのだろう。
震える語尾を隠すように立ち上がった空海が背を向ける。反射的に立ち上がった陽音が手を伸ばすが、それが分かっていたように空海は身を避けて部屋を出て行ってしまう。
「空海! 天気!」
陽音の声で初めて、スコールが来そうな外の様子に気づく。陽音につられるように立ち上がった星海は、陽音と、そして双子の母親を見比べ、空海を追って外に走り出た。
* *
「空海ちゃん!」
後ろから声をかけても、走っていく空海は振り返らない。桟橋もそのまま走り抜け、突端から海に飛び込んでしまう。波が高くなっている海の中に消えた人影に、一瞬絶望的な思いが湧き上がり、星海は慌てて首を振り、それを振り払おうとする。
「バカみたいな話」
目をつぶった星海の耳に、空海の声が届く。桟橋から離れた場所で顔だけを出し、星海に顔を向けていた。
「父さんは出かけたんじゃないの。行方不明なの。でも、わたしは待ってるって言った。ハル君も、あの人のことだから行方不明なんてタカをくくっていてひょっこり帰ってこられるのも癪だって言った」
そうしてまた潜った空海は、桟橋の側まで泳いできてまた顔だけを出す。しゃがみ込んだ星海は、腹の底からため息をついた。
「バカなんかじゃないよ。事情を知らないオレが判断できることじゃないけど……。空海ちゃん、上がっておいで。危ないから」
「……危ないなんて言われずに、自由に海を泳げればいいのに」
遠く、遙か水平線の方へ顔を向けて呟く空海を引き上げながら、星海はそう呟いた空海の言いたい、本当の意味までは察することができない。ただ、すっかり濡れた空海の頭をぐしゃぐしゃと水を弾くようにかき回して撫でながら、ため息を一つつく。
「十分でしょ、それだけ泳げれば。……オレ、ハルさんにしめられるのだけはごめん被りたいからね」
「……ちょっと電話で話しただけなのに、よく分かってるね」
「まじかよ」




