第1話:その感覚、神の如し
龍界の山深い頂きに位置するトオヤ家――。
そこは七界の経絡が交差する要衝であり
代々「調律者」を輩出してきた名門の聖域である。
静寂が支配するはずの広大な回廊に
一人の神官の当惑した声が響いていた。
「……アシュラ様。今は休み時間ではございません。
結界術の基礎、詠唱の練習をする時間です」
教育係のヴィクトルは、震える声で訴える。
だが、対峙する少女はきっぱりと首を振った。
「私が遊んでいるとまでも?
いいえ、ヴィクトル。私は至って真剣よ」
アシュラ・セセリ・トオヤ。
セセリはトオヤ家の継承者に与えられる名だ。
若干五歳にして「最も繊細な調律器」と謳われる少女は
古の結界石の前で指先を優雅に躍らせていた。
その様は、音もなく奏でられる舞のようでもあり
あるいは熟練の料理人が
極上のスパイスを振りかける手つきのようでもあった。
アシュラにとって、世界は目や耳で捉えるものではない。
それはもっと根源的な、脳に直接届く**「情報の風味」**だった。
「ヴィクトル。あなたのその呪文、構成に無駄が多すぎるわ。
例えるなら……水が足りなくて焦げ付いた煮込み料理のように
喉越しが悪いの」
「な……!
これは天界から授かりし聖なる詠唱でございますぞ!」
「たとえ聖なるものであっても、今の龍界の気脈には合っていないわ。
昨日の地震の影響で、地脈には微かな『渋み』が混ざっているの。
そこに高周波の呪文を重ねたら、結界は逆に暴発するわ。……見ていて」
アシュラはすっと瞳を閉じた。
彼女の脳裏には、空間を流れる気の成分が
まるで栄養分析表のように詳細にレンダリングされている。
彼女が求めているのは、派手な魔力投下ではない。
ただ、ほんの一匙の「味の調整」だ。
指先に微かな熱を込め、流れる気を数ミリだけ偏向させる。
たったそれだけで、石から溢れていたざらついた火花が消え
空間を包んでいた重圧が、霧が晴れるようにふっと消え去った。
「……っ!? 詠唱なしで、結界の不協和音を鎮めた……だと?」
「整ったわ。今なら、とてもまろやかな風が吹いているでしょう?」
言われて初めて気づく、澄んだ空気の喉越し。
ヴィクトルは言葉を失った。
五歳の少女が、数百年の修行を積んだ者でさえ至れぬ領域に
呼吸をするように到達している。
夕刻。
執事のショータローが差し出したスープを
一口すすったアシュラは、ぴたりと匙を止めた。
「ショータロー。この水……どこから引いたの?」
「北の渓谷の最深部でございますが……何か?」
「微かに『澱』が混ざっているわ。
味の奥に、魂を冷やすような不純物……これは**“ミスト”の予兆**ね。
すぐに北の結界石を確認させて。
人体に入る前に、界の経絡そのものを調べるべきだわ」
アシュラの確信に満ちた声に
ショータローは迷いなく背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
アシュラ・セセリ・トオヤ。
彼女にとっての「食事」とは
世界の異常を感知する最も鋭利な検知器であり
彼女にとっての「料理」とは
歪んだ世界を再構成するための、精密な演算そのものであった。
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