第8話 灯を探す街角で
夜明けの王都門前は、巡礼と商人、兵士たちの声で騒がしかった。
荷馬車の車輪が石を弾き、朝霧を割るように列が伸びている。
アレンはその中に立ち、胸元の羅針盤を押さえた。
糸が、かすかに震えている。
(また呼ばれてる……でも、さっきまでと違う。これは、“悲しみ”じゃない)
隣でブレイが肩を回した。
「王都の空気ってやつは、胃に来るな。油の匂いと焦げたパンの煙で胸が重ぇ」
「でも、この匂いもきっと、誰かの暮らしの音ですよ」
アレンが微笑むと、ブレイは苦笑した。
「お前はほんと、何でもいいほうに言うな」
列が進み、門兵の槍が陽を反射する。
門の石壁には、耳の印がいくつも刻まれていた。
削られた跡。上から石灰で薄く塗り潰されている。
「見ろ。消しても残るもんだな」
ブレイが低く呟く。
アレンは手を伸ばしかけて止めた。
(泣いてる……声が、いっぱい重なってる)
胸の奥で光が疼いた。
「ブレイさん、聞こえませんか」
「何が」
「“助けて”じゃない、“覚えてて”って」
風が通り、石壁に刻まれた印が一瞬だけ淡く光った。
門兵が気づかず通り過ぎる。
アレンは静かに拳を握った。
(……ここにも、誰かの心が埋まってる)
◆
王都に入ると、途端に人の波と喧噪が押し寄せた。
市場の路地ではパン職人の掛け声、吟遊詩人の竪琴。
アレンはあまりの音に目を瞬かせた。
「まるで、声が溢れてるみたいですね」
「スキルを持つやつらの商いは元気だ。数字になるものは、いつも強い」
ブレイの視線の先、通りの端に一軒の小食堂があった。
看板には「旅人亭」と掠れた文字。
店主らしき中年の男が、膝を押さえて座り込んでいる。
「……どうしましたか?」
アレンが駆け寄ると、男は顔を上げた。
「すまねぇな。朝から腰をやっちまって……客を出迎えられねぇんだ」
「大丈夫ですか? 手伝えます」
「いいって、知らねぇ人に任せたら店が潰れる」
アレンは首を横に振った。
「“潰れる”って、誰かの声が聞こえたからですか?」
男がぽかんとする。
「え?」
「大事なものを守りたいとき、人は“壊れる”ことを怖がります。
でも、守るために誰かの手を借りるのは、壊すことじゃありません」
男は目を瞬いたあと、ふっと笑った。
「変なこと言う子だな……。じゃあ、頼むよ」
アレンとブレイはカウンターの奥に入って、
焼き残されたパンを切り分け、湯を沸かした。
やがて、通りの旅人たちが足を止める。
「久しぶりに温かい匂いがする」
「ここ、閉まったと思ってたのに」
ブレイが湯気を見ながら呟く。
「こうしてると、戦場の飯番を思い出すな」
アレンは笑った。「誰かのために作るのは、悪くないですよね」
――そのとき、羅針盤が淡く光った。
カウンターの上に吊るされた木札に、光が跳ねる。
アレンは見上げた。
そこには古びた文字が刻まれていた。
『朝に祈りを、夜に感謝を。声を聞く者へ、また巡り逢えますように。』
「これ、昔の祈りの言葉……?」
ブレイが目を細めた。
アレンはそっと木札を撫でる。
(誰かがここに、願いを置いていったんだ)
その光は一瞬で消えた。
だがアレンには分かった。
“誰かのやさしさ”が、ここにも残っている。
◆
夕暮れ、店主が腰をさすりながら笑った。
「助かったよ。客が戻ってきたのも久しぶりだ。
お礼に、これを持ってけ」
手渡されたのは、小さな包み。
中には、焦げたパンの端。
「うちじゃ売り物にならねぇけど、焼きたてがいちばんうまい」
アレンは微笑んだ。
「がんばった味、ですね」
ブレイが苦笑する。「またその言い方か」
◆
夜。宿の部屋で。
アレンは包みを開き、焦げた端を少し齧る。
どこか懐かしい香りがした。
(“朝に祈りを、夜に感謝を”……)
手元の羅針盤が、かすかに脈打つ。
(祈り……声を聞く者……)
それは、確かに“誰か”の残した小さな願いだった。
アレンは目を閉じる。
今日聞いた声が、やさしく胸に残響する。
やがて眠りに落ちると、夢の中であの木札がまた光った。
“声を聞く者へ、また巡り逢えますように”
彼はまだ知らない。
その祈りの言葉が、後の大きな真実へと繋がっていくことを――。




