第7話 導きの羅針盤
王都の尖塔が霞む丘の手前に、宿場町エルミナがある。
昼下がり、露店の並ぶ大通りは、焼き串と甘い蜜菓子の香りで満ちていた。
アレンは財布の紐をきゅっと結び直すと、屋台の老婆に頭を下げる。
「二つください。ひとつは少し焦げてるほうを」
「珍しいねぇ。焦げ好きかい?」
「がんばった串の味がするから、です」
横でブレイが吹き出した。「お前はほんと、わけのわからん誉め方をする」
並んで串を齧りながら、石畳の端を歩く。
アレンはふいに立ち止まった。
胸に下げた白い護符――老神官から託された“心の羅針盤”が、微かに脈打ったのだ。
風向きが変わる。
音のない方向指示のように、糸の先がわずかに南路地を向く。
「ブレイさん」
「……来たか」
二人は屋台の喧騒を抜け、路地へ滑り込む。洗濯物のしたたる水滴と、日陰の涼しさ。
その奥、石壁にもたれた少女が膝を抱えていた。十歳ほど。
彼女は耳に両手を当て、怯えた小動物のように体を縮めている。
アレンは距離を取り、膝を折る。
「こんにちは。ここ、風が気持ちいいね」
少女の視線が揺れた。「……聞こえるの。助けてって。ずっと、ずっと。うるさくて、こわい」
ブレイが周囲を警戒しつつ低く尋ねる。「誰の声だ?」
少女は首を振った。「知らないひと。井戸の底から、誰かが呼んでるみたい」
アレンは羅針盤をそっと握る。
掌に、ぬるい湖の表面みたいな震えが広がった。
(呼んでいる──確かに、誰かが)
「案内してくれる?」
少女は逡巡したが、アレンの目を見て小さく頷いた。
◆
路地を三つ折れ、古い共同井戸へ出る。
石組みの縁には、誰かが爪で引っ掻いたような傷跡が刻まれている。
“耳”に見える、曲がった線。
ブレイが眉間を押さえた。「王都周辺で出ている印……話と合うな」
アレンは井戸の縁に手を置く。
ひんやりした石の温度に胸の熱が触れ、微弱な光がにじむ。
(もしここに、あなたがいるなら──)
アレンは、老神官に教わった短い詞を胸の内で唱えた。
《痛みは形になり、名は波。 声よ、ほどけて、灯に触れよ》
暗い底から、かすかな“残響”が立ちのぼる。言葉にならない焦りと、浅い呼吸の擦れ。
「……生きてる」
アレンは身を乗り出した。「人がいます。縄を」
ブレイは即座に動く。滑車に縄を回し、自分の腰に結ぶと、アレンを制した。
「降りるのは俺だ。お前は繋いでろ。離すな」
「気をつけて」
「おう」
ブレイの影が井戸の闇に溶けていく。
しばしの沈黙の後、低い叫びが響いた。「見つけた! 足をやってる、上げるぞ!」
縄が重くなる。アレンは体重をかけて引き、少女も必死に手伝う。
やがて、泥と水でずぶ濡れの青年が縁に現れた。
目はうつろで、唇は紫色。だが息はある。
「大丈夫。もう、怖くないよ」
アレンが手を握ると、青年の呼吸がわずかに落ち着いた。
ほどなくして周囲が騒がしくなり、近隣の人々が駆けつける。
押し寄せる視線とざわめき。その中に、黒い外套の青年が混じっていた。
無表情のまま、井戸縁の“耳の印”を短く一瞥し、静かに踵を返す。
(黒衣──)
アレンは羅針盤の糸が、彼の去った方向を一瞬だけ追ったのを見逃さなかった。
◆
夕暮れ、宿場の安宿。
少女は母と再会し、泣きながら礼を言って去っていった。
アレンは帳場で湯を分けてもらい、救い上げた青年の足に布を当てる。
「倉庫係で……荷を運ぶ途中、声が聞こえて、足を滑らせて……」
青年は断片的に語った。
「声は、なんて?」
「助けて。寒い。暗い。……それだけ、何度も」
アレンはしばし考え、微笑んだ。
「今は、暖かいですね」
青年は不思議そうに頷く。「ああ、暖かい」
「じゃあそれを、よく覚えてください。次に暗い場所に一人で降りるとき、さっきの暖かさも一緒に持っていくんです。声がしても、あなたは“ひとりじゃない”って思い出せますから」
青年は少し間を置き、ふっと笑った。「……そうしてみるよ。ありがとう」
部屋に戻ると、ブレイが剣帯を外していた。
「お前の羅針盤、使えるな」
「羅針盤が導いてくれただけです」
「いや、導いたのはお前だ」
ブレイは窓の外の灯を見やった。「それとな、黒衣を見た。井戸の群衆の中だ。消えるのが早かった」
「ええ、ぼくも」
「王都の“失踪”と繋がってる。……明日、門をくぐる」
灯を落とす。
闇が降りてきても、アレンの胸のあたりはほんのりと温かかった。
耳を澄ませる。
遠い塔の鐘が、風に乗って微かに鳴った気がした。
(聞こえる。──まだ、誰かが)
彼はそっと羅針盤を握り、目を閉じた。
《痛みは形になり、名は波。 声よ、ほどけて、灯に触れよ》
言葉は音にならず、しかし確かに、胸の内側で柔らかくひかりを増す。
やさしさは、いつだって静かに灯る。
それが今日、誰かの命をひとつ、確かに繋いだ。




