第5話 光の残響
子どもを抱え、二人は小さな集落へ戻った。
昼の光はやわらぎ、広場に長い影を落としている。閉ざされていた戸が少しずつ開き、顔をのぞかせた人々が安堵と驚きの声を漏らした。
「リク!」「無事だったのか!」
駆け寄った母親が子を抱きしめる。子はしゃくりあげながら、アレンの袖をつかんだ。
「お兄ちゃんが、手を握ってくれたら、怖くなくなったんだ」
アレンは首を横に振る。
「君が偉いよ。ちゃんと、こっちを見てくれたから」
そのとき、広場の奥から、白い法衣をまとった老人が現れた。
深い皺の間でやわらぐ眼差し。村の老神官だという。
「助けてくれたそうだな。礼を言おう、旅の方々」
ブレイが軽く頭を下げる。
「たいしたことはしてねぇ。だが、魔獣の再生は厄介だった」
老神官は頷き、ふとアレンの手元に目を止めた。
「……今、光ったかの」
アレンははっとして自分の掌を見る。薄く、ほんの瞬きほどの時間、温かな光がしずんだ跡があった気がした。
「気のせいかもしれません」
「気のせいで終わらせるには、懐かしすぎる色じゃ。――“心灯”の色じゃ」
ブレイが眉をひそめる。
「心灯?」
老神官は、井戸の縁に腰を下ろし、静かに語り出した。
「昔話だ。まだ“スキル”という言葉が世に降る前、人は互いの気配に耳を澄まし、手を取り合う灯で生きておった。嘆きにそっと寄り添えば、灯は揺れて、痛みのかたちを映す。憎しみに背を向ければ、灯は消える。――人の心を照らす、小さな灯。それを“心灯”と呼んだ」
アレンは息を呑んだ。胸の奥が、またほんのりと熱を帯びる。
「だがあるとき、“選別の神”が降りた。力を数え、才を段に分け、世は早く、分かりやすく動くようになった。灯は、数に押し流された。やがて、灯を見る者は“無能”と呼ばれるようになった」
老神官は悲しげに笑い、アレンの目をまっすぐ見た。
「さっきの光は、忘れられた灯に、よく似ておる」
ブレイがアレンを見る。
「お前……何か、心当たりが?」
アレンは首を振った。
「いいえ。ただ、ときどき――誰かの痛みが、形になって見える気がするんです。泣き声の輪郭というか……。それに触ると、少しだけ、軽くなる」
老神官は目を細める。
「“残響”じゃな。心灯は、言葉を受けると響いて広がる。響きの残り香を、昔の言葉で“残響”といった。人の胸の内に残る、やさしい余波じゃ」
アレンはおそるおそる掌を握ったり開いたりした。熱はすでに収まり、ただ脈の鼓動だけが静かに伝わる。
「……僕に、できることはありますか」
老神官は微笑んだ。
「できることを、もうしておる。聞き、待ち、手を添える。それで十分じゃ。だが――一つ、気をつけなされ」
「何に?」ブレイが問う。
老人の声は低くなる。
「灯が戻れば、影もまた濃くなる。“選別の神”の庭を守る者たちがいる。灯を見つけ、消しに来るやもしれん」
その言葉は、森の冷気よりも冷たかった。
アレンの胸に、昨夜の黒衣の影がよぎる。
――見つけた。
耳の奥に、かすれた声の残響が蘇る。
そこへ、村の見張りが駆け込んだ。
「王都からの騎士だ! 使いが来ている!」
広場がざわめく。甲冑の擦れる音、馬のいななき。
銀の紋章を掲げた若い騎士が、二人の前に進み出た。
「剣士ブレイ殿か。王都ギルド評議より急使。――王都で連続発生している“失踪事件”の調査依頼だ。評議は、貴殿の再招集を望んでいる」
ブレイは短く息を呑む。
「失踪……?」
騎士は続ける。
「行方不明の者の部屋には、決まって奇妙な痕が残る。“耳”を描いたような紋。――王都の神殿も手詰まりだ」
“耳”。
アレンは無意識に、掌を胸に当てていた。
聞くこと、残響、灯。すべてが一本の見えない糸で、どこかに結びついていく感覚。
ブレイがアレンを振り返る。
「来るか?」
アレンは小さく息を吸い、頷いた。
「はい。僕にも、聞けるものがある気がします」
老神官がそっと近づき、アレンの掌に薄い羊皮紙を一枚押し当てた。
「古い祈りの詞じゃ。心灯が揺らぐとき、これを胸の内で唱えなされ。灯に形を与える術が、いくらか残っておる」
羊皮紙には、短い旋律のような詩が記されていた。声に出さずとも、韻が胸に降りてくる。
旅立ちの支度を整え、村人に見送られる。
去り際、助けた少年リクが走り寄り、アレンの手を握った。
「また、来てね」
その目には、もう昨夜の怯えはない。
アレンは微笑んだ。
「うん。君の声、ちゃんと覚えておくよ」
街道に出る。風が草原を撫で、遠く王都の塔が光っていた。
背後の森の縁で、黒衣の影が一瞬だけ揺らめき、やがて空気に溶ける。
――灯が戻れば、影もまた濃くなる。
老神官の言葉が、胸の底で静かに反響した。
アレンは掌を握り、開いた。
目には見えない、微かな光が、確かにそこに在る気がした。
「行こう、アレン」
「はい」
二人は歩き出す。
王都の鐘は、まだ遠い。だが、心のどこかで、たしかに鳴っていた。




