第13話 記録庫の影
Ⅰ 朝の出立
王都の空は薄青い。露店の布が持ち上げられ、最初の湯気が通りへ溶け出していく。
アレンは胸の奥に畳んだ灯を確かめ、短く息を吸った。夜の残響――「来ないで」という小さな声は、まだ輪郭だけを残している。
「顔色、戻ったな」
ブレイが横目で見る。
「はい。……“閉じ詞”、効きました」
リュミエルは書簡筒を抱え直し、学院の封蝋に指先で触れた。
「記録庫で“留声陣”に関する術式の履歴を探します。そこから鍵が拾えるはず」
三人は大路を外れ、塔の陰を縫うように学院へ向かった。
Ⅱ 学院門と灰札
学院の門前は、刻印の照合列ができていた。
兵と書記が二人一組でスキルの申告を捌いている。
「剣気操作、等級三。――通行印、青」
「空間静化、等級二。学位保持、免除」
「……無刻印者か。滞在印、灰。七日限り」
アレンの手のひらに、冷たい札が載せられる。
リュミエルが一歩踏み出した。「彼は評議の依頼協力者です。私の監督下に置きます」
書記は躊躇したが、宮廷紋章を見て札を返した。「……では同行印に切り替えます」
灰が青へと差し替わる。
ブレイが小さく笑う。「世の中、札ひとつで風向きが変わる」
アレンは首を振った。「でも、風そのものは、変わっていません」
Ⅲ 書の匂い、術の痕
学院記録庫は、石と紙の匂いがする。高窓から落ちる光が棚の埃を金粉のように舞わせ、静寂にインクの微かな甘さが混ざる。
案内してくれたのは、司書長マレーネ。灰髪を布にまとめ、手首に“目録共鳴”の紋が淡く刻まれている。
「留声陣……古い術ね。ここ数十年はほとんど参照がないわ」
彼女は背表紙に触れ、棚を軽く叩く。反響の揺れで位置を測るような動作。
「下層術式・音律編・七巻。……それから、工房印鑑目録の付録」
彼女の指先が止まるたび、該当の背がすっと前に滑り出てくる。スキルが棚を覚えているのだ。
閲覧卓に積まれた古書は、羊皮紙のざらりとした手触りを残していた。
リュミエルが頁を繰り、眼差しで文脈をすくう。
「見て。留声陣は本来『声の痕跡を短く留め、診断に用いる』補助術。塞ぐ用途には設計されていない」
アレンは頷き、鍵耳の石片を布の上に並べた。
リュミエルは拡大鏡をかざし、線刻の角度を測る。
「刃角三十度。打ち込みの癖は右下がり。――これ、同じ手が彫ってる」
マレーネが工房印鑑目録を引き寄せた。「刃角三十度は符工ギルド第三系統。“槌目三つ・花弁四枚”の工印……どれ、該当は……あった。印工房《雁の歯》」
ブレイが短く息を吐く。「場所は?」
「第二区、洗濯工房街の下。染め場の裏口を下りたところに支庫があるはずよ」
――洗濯工房街。昨夜、地図の交点で浮かび上がった地名と重なる。
リュミエルはもう一冊を開いた。
「貸出記録……『留声陣・亜種模写のための版下』。最終貸出者は……神殿監察局」。
封耳官の名が、淡い墨字で残っていた。
マレーネの眉がわずかに動く。「返却印が、ない」
空気が少し冷えた。
「監察は“規則の外側”にいる。返却の帳は別にあるのか、そもそも返す気がないのか」
ブレイの声が低くなる。
アレンは石片の“耳”を見つめた。
(塞ぐために、模倣された。――その版下が戻っていない)
Ⅳ 影、棚の間
紙の擦れる音が、頁の上以外からした。
ブレイが視線だけで棚の影を捕まえる。
「誰か、いる」
彼が半歩前へ出るのと同時に、棚の間から黒い外套がすっと引いた。
仮面はない。だが、足取りは“訓練された消え方”をしている。
「待って」リュミエルが掌を横に払った。「結界を張ると騒ぎになる。――私が行く」
彼女は影の走る方向へ回り込み、角でふっと対面した。
現れたのは、学院の若い書記官だった。
指先に“筆致照合”の紋。
「閲覧室は静粛が原則です、宮廷魔導師殿」
「なら、静かに教えて。監察局の返却印が……?」
若い書記官は一瞬だけ視線を落とした。「――ここではない帳面に、押されます」
「どこに」
「……神殿の奥」
「あなたは、見たのね」
書記官の喉が動く。
「見た者の印は、削がれます。どうか、ここで終えてください」
ブレイが一歩踏み出しかけ、アレンが肩に触れて止めた。
(“来ないで”――昨夜の声が、ふと重なる)
守るために遠ざける声がある。
アレンは小さく頭を下げた。「ありがとう。教えてくれて」
若い書記官は一瞬驚いた顔をし、すぐに棚の影へ消えた。
マレーネが机に両手を置き、低く言う。
「……記録庫は“覚えておくための場所”。けれど、覚えてはいけないことも増えた。気をつけて」
Ⅴ 写し版と工印
昼の鐘が二つ、重なって鳴る。
リュミエルが素描した鍵耳の角度と、目録の工印を重ね合わせる。
「“雁の歯”の符工は、版下の写しを作る。弟子筋に流れたなら、同じ癖が出る」
ブレイが腰の剣を整える。「洗濯工房街の下は狭い。剣は振れねぇ。糸を切るだけにする」
「お願いします」
アレンは羅針盤を握った。糸はまだ静かだ。
(夜明けまで待つ。焦らない)
記録庫を辞す前、マレーネが小瓶を差し出した。
「紙を湿りから守る“樹脂水”。地下は湿るわ。――それと、これ」
アンチモンの細筆。
「線をなぞると、術の“方向”が浮かぶ。あなたの灯に負担をかけずに済むかもしれない」
「ありがとうございます」
Ⅵ 午後の路地、小さな呼び声
学院を出ると、陽は高く、風は布をはためかせていた。
洗濯工房街へ向かう途中、路地の曲がり角で子どもがぶつかり、アレンの腰の布包みが落ちた。
「ごめんなさい!」
「大丈夫。気をつけて」
拾い上げた鍵耳の一枚が、ひやりと冷える。
――「来ないで」
また、同じ声。
アレンは思わず立ち止まった。
(警告……それとも、誰かが“言わされている”?)
ブレイが手を挙げる。「今は歩け。ここは人目が多い」
リュミエルも頷く。「声は罠にもなる。灯は畳んだまま、目で追って」
アレンは頷き、胸の灯を小さく保った。
Ⅶ 支庫の扉
洗濯工房街。白布が並ぶ裏通りは、石鹸の匂いと湿り気で満ちている。
マレーネが教えた地図の印――染め場の裏階段を降りると、鉄の扉が一枚、斜めに沈んでいた。
扉の隙間から、冷たい気流。
リュミエルが細筆で扉の縁をなぞる。
薄い光が浮かび、矢印のように“内側へ向かう”線がいくつも重なった。
「塞ぐ術式の“向き”……ここから入れている」
ブレイが扉の蝶番を見て、短く頷く。「音を立てずに開ける」
彼は剣を鞘ごと当て、すこしだけ角度を変える。金属の鳴きが眠り、扉は息を吹くみたいに開いた。
薄暗い支庫。
棚に石版が立てられ、片隅に細い彫り台。
壁際、布で覆われた大きな箱。
リュミエルが布をめくる。
中には、耳の写し版が並んでいた。粗いものから精密なものまで。
そして隅に、小さく打たれた工印――“槌目三つ・花弁四枚”。
「雁の歯……やっぱり、ここだ」
ブレイが棚の裏を覗く。「誰か、さっきまでいた気配だな」
足跡が、扉の反対側へ向かっている。
リュミエルが唇を結ぶ。「封耳官に回収される前に、証を押さえる」
アレンは彫り台の上に置かれた、未完成の“耳”に視線を落とした。
線が途中で止まっている。刃先が迷った跡。
(作っているのは、熟練の手――だけど、最後の“向き”が揺れてる)
アレンは彫り台の下をのぞき込んだ。
そこに、小さな木札。
《来ないで》
子どもの字で、震えた線だった。
胸の灯がわずかにほどけそうになる。
アレンは“閉じ詞”を口の中で小さく繰り、そっと木札を包んだ。
(呼び声の主は、ここにいる――いや、“使われている”)
その時、支庫の外で小さく石の欠ける音。
ブレイが剣に手をかけ、リュミエルが光を絞る。
扉の影に、あの黒い外套が動いた。
「……見つけた」
低い声。
封耳官のひとりが、面を持たない顔でこちらを見た。
眼差しは、恐ろしいほど静かだったが――その底に、一瞬だけ揺れが走った。
アレンが、木札を抱く手に力を込める。
(見つけたのは、あなたじゃない。――僕らだ)
仮面のない封耳官は、小さく首を振った。
「その札を捨てろ。次は“耳”ではなく“口”が塞がる」
脅しの言葉にしては、震えがあった。
ブレイが半歩、前へ。「どけ」
「命じられている」
「誰に」
沈黙。
リュミエルが一歩、アレンと封耳官の間に割って入る。指先に銀の紋。
「ここで刃は交えない。記録庫の閲覧印も、工房印も、全部ここに残した。――あなたにとっても、都合がいいはず」
封耳官は一瞬だけ視線を棚に走らせ、わずかに息を吐いた。
「夜までに、ここは空になる」
外套の裾が揺れ、影は路地へ溶けた。
静寂。
ブレイが剣を下ろす。「追うか?」
リュミエルは首を振る。「追わせるための影。――夜に、下へ降りる。中心は“交差”」
アレンは木札を見つめ、静かに言った。
「『来ないで』は、僕たちに向けた罠か、誰かの最後の防波堤か。……確かめたい」
「行こう」ブレイが短く言った。「確かめて、斬るべき糸だけ斬る」
支庫を出ると、白布のあいだから陽が傾き始めていた。
王都の風は湿りを含み、遠く下水のうなりがかすかに聞こえる。
アレンは羅針盤を握り、胸の灯を小さく畳み直した。
(焦らない。忘れない。――夜明けか、夜か。どちらにせよ、次は“声の交差点”だ)
塔の影が長く伸びる。
記録庫で拾った影は、地下の闇へと一本の線で繋がっていた。
その線の向こうに、守るために遠ざける声が、きっと在る。
アレンは歩を進めた。
夜は、もうすぐだった。




