第12話 夜の残響
地上に戻ると、日は西に傾き、塔の影が路地を真っ黒に染めていた。
リュミエルは学院別棟の小さな閲覧室を押さえ、内鍵を落とすと、窓と扉の境目へ指先で細い線を縫い込んだ。
「“空間静化”の薄い膜を張りました。外の物音は通すけれど、中の“話”は眠らせておく」
光がひと呼吸ぶんだけ揺れ、部屋は柔らかな静けさに満たされた。
ブレイは椅子に腰かけ、頬のかすり傷を酒で拭う。
「ヒースは?」
「水路番は家に戻りました。上流の流れを夜のあいだ見張るそうです」
アレンは頷き、布に包んだ四枚の小石――“鍵耳”を机に並べた。
薄い石片に刻まれた耳は、それぞれ微妙に向きが違う。
リュミエルが身をかがめ、紙の上に素描していく。
「北西、北東、南東、南西……。輪をほどく“方角”だったのね」
アレンは羅針盤を握った。糸は静かだ。
(さっきの輪はほどけた。けれど――)
胸の奥に、微かな痺れの名残がまだ残っている。
声が触れてきた場所の熱。届かないまま崩れていった切なさ。
「アレン」
リュミエルが顔を上げる。「胸が痛いでしょう」
「……はい」
「聞いてしまった声は、あなたの中にも片鱗を残す。閉じ方を覚えて」
彼女は掌を重ねる仕草を見せた。
「吸って、灯を胸の奥に小さく畳む。――“閉じ詞”。
《灯は宿り、夜は器。今宵は、ここに置こう》」
言葉に合わせ、空気の縁が一段深く静まる。
アレンが同じように息を吸い、胸の灯をゆっくりと包んだ。
熱が、少しずつ丸くなる。
「……楽になりました」
「それでいいの。灯は消すものじゃない、休ませるもの」
ブレイが横から「なるほどな」と鼻を鳴らし、切ったパンを三つに割って無造作に差し出した。
「腹が減ると剣も頭も鈍る。医者いらずの理屈だ」
「ありがとうございます」
パンの端は少し焦げていた。噛むほどに甘い。
アレンがほっと吐息を落とすと、ブレイはちらりと見るだけで何も言わない。その沈黙は、叱責ではなく、休めという合図だった。
小一時間、紙の上で線が交差し、簡素な地図ができあがる。
「見て」リュミエルが四つの“鍵耳”の向きを重ね、糸で結んだ。
斜めの線が王都の四隅へ伸び、交点がひとつ、洗濯工房街のさらに下――。
「第二区の下水交差……やっぱり、ここが“輪の中心”だった」
「じゃあ、他にも似た輪が?」
「ええ。術式の“癖”は職人の筆跡みたいなもの。一人か、同じ教本で学んだ何人か。……工房か学院筋」
リュミエルの声がわずかに硬くなる。「記録庫を洗う必要があるわ」
アレンが頷こうとしたとき、机の端に置いた鍵耳のひとつがかすかに震えた。
――ひゅ、と細い風が指の隙間を抜けるみたいな気配。
(……呼んでる?)
彼は反射的に胸を開こうとして、リュミエルに肩を押さえられる。
「待って。今は“閉じたまま”感じて」
「はい」
灯を畳んだまま、そっと耳を澄ます。
遠い、遠い水の底で、誰かが短く息を吸う音だけがした。言葉にはならない。
(生きてる)
アレンの喉が鳴る。
ブレイが短く目配せした。「行くのは、夜明けだ。今降りたら、相手の思うつぼだぞ」
「……はい」
封耳官の冷たい眼差しが脳裏を掠める。“灯は集まる前に消す”。
焦らせるための糸だ。わかっているのに、胸は急ぐ。
沈黙を破ったのは、窓の外から聞こえた、遅い鐘の音だった。
塔が九つ刻む。遅い夜。
リュミエルは筆を置き、窓辺に寄る。
「昔、学院の寮で夜更かししてね。鐘が九つ鳴るたびに、自分に言い聞かせたの。
“今夜、救えない声があっても、明日のために目を閉じなさい”」
彼女の横顔は、灯りに照らされてきれいに疲れていた。
「救えなかった人が、いたんですね」
「ええ」
彼女は迷わず答える。「私が結界を張る前に、崩れた天井がひとりの少年を飲み込んだ。
訓練では間に合っていたのに。――数字で測れば“許容範囲の損失”。でも、私は今も、その子の呼吸の音を覚えている」
アレンは胸が熱くなるのを感じた。
「僕も、今日の“覚えていて”を忘れません」
「忘れないことは、弱さにも強さにもなる。……あなたは、どちらにする?」
「強さに、したいです」
答えると、彼女は満足げに笑うでもなく、ただ小さく頷いた。
ブレイが立ち上がり、窓枠にもたれた。
「俺は剣でしか返せねぇ。だから斬るべき糸を斬る。
けど、お前らがいなきゃ、どれが“斬るべき糸”かも分からなかったろうな」
彼は頬の傷に指を当て、ふっと笑う。「……剣が震えなかったのは、久しぶりだ」
アレンはその背中を見つめ、静かに言った。
「僕は、ブレイさんの剣が怖くないです」
「へぇ、そりゃ光栄だ」
「守るための音がしますから」
短い沈黙ののち、ブレイはわずかに肩をすくめた。「なら、明日もその音を出せるように、寝るぞ」
寝台は二つしかない。ブレイが床に毛布を敷くと、リュミエルが無言で結界を二重に重ねた。
「誰かが窓枠に触れたら、灯りが一つ落ちます。気づけるように」
「ありがとう」
灯を落とす前、アレンは鍵耳の包みを枕元に置き、胸に手を当てた。
“閉じ詞”をもう一度。
《灯は宿り、夜は器。今宵は、ここに置こう》
灯は従順に小さくなり、胸骨の裏で丸くなる。
眠りに沈みかけたころ――
水面の下から、ひどく小さな声が、ひとかけらだけ浮かんだ。
――「来ないで」
アレンはぱちりと目を開けた。
息を殺し、胸の灯を解かないまま、耳だけで夜を聞く。
足音はない。窓の灯も落ちていない。
けれど、確かに聞こえた。“助けて”ではない。“来ないで”。
(罠……それとも、誰かが脅されている?)
しばらくして、声は波の底へ戻った。残ったのは、鼓動の音と、結界の縁で眠る微かな風の吐息だけ。
翌朝へ向けて、瞼を閉じる。
“届かない声”の形はひとつじゃない。
遠ざけることで守ろうとする声もある。
アレンは、そっとその考えを胸に置いた。
――忘れない。けれど、焦らない。
灯は消さずに、温度だけ落とす。
夜の残響は、やがて新しい朝へと繋がっていく。
窓の外、王都の塔が、まだ見えない夜明けの方角を指していた。




