第11話 静寂の輪
王都南部、染物工房街のさらに下。
風の通らぬ石段を降りるたび、湿った土と古い染料の匂いが濃くなる。
先導するのは、市の水路番ヒース。短い髭に褪せた外套、腰には鉄鉤。
「足元、滑るぞ。ここいらは雨上がりに“底鳴り”がする。流れが変わる合図だ」
言いながら、彼は掌を水面近くに翳した。皮膚が粟立つように微かに震え、目を細める。
「……西側、微逆流。間違いねぇ。“水脈識別”はまだ鈍っちゃいねぇな」
生活系のスキルだ。王都は、こうして見えない才能に支えられている。
アレンは胸の羅針盤に触れる。糸は弱く、だが確かに震えていた。
(呼ばれてる。――でも、昨日の礼拝堂みたいな痛い呼び方じゃない)
背後で衣擦れ。リュミエルが灯を一つ浮かべる。掌の上に淡い光輪が咲き、湿気を嫌うように周囲の空気を乾かした。
「“空間静化”を軽く。聴こえを乱す滴り音を眠らせます」
声に合わせて、遠く響いていた滴の連打がすっと薄れた。音の縁が丸くなる。
ブレイが肩を回して、剣帯を整えた。
「助かる。昨日の評議じゃ息が詰まったが、ここは別の意味で詰まるな」
低い天井、絡み合うアーチ、壁面に走る古い水刻み。
やがて三叉の空間に出た。中央に丸い基礎柱、周囲の壁には――爪でえぐった“耳”の印が、放射状に刻まれている。
ふつうの印と違った。
ひとつひとつがかすかに“向き”を持ち、全体で輪を成している。
ヒースが息を呑む。「こいつは……」
リュミエルが歩み出て、指先で空の皺を撫でた。
「“留声陣”。声を留める陣形の亜種。――でもこれは、留めるどころか、塞ぐための模倣。精度は高いけど、用途が歪んでいる」
アレンは柱に手を置いた。冷たさの向こうで、輪郭を失いかけた気配が触れる。
(だれか。――だれか)
胸の奥が、きゅっと熱くなる。
彼は老神官の詞を心に落とした。
《痛みは形になり、名は波。 声よ、ほどけて、灯に触れよ》
次の瞬間。
輪の内側で、細い風が巻いた。見えない糸が据え付けの金具から跳ね起き、アレンの胸骨の奥を締め付ける。
「っ……!」
リュミエルが瞬時に手をかざし、銀の紋を咲かせる。
「“静域”――!」
空気が柔らかな膜になって波を鈍らせる。が、逆に“塞ぐ術”の輪郭がくっきり見えた。
ブレイが半歩前へ。右足、石目に掛け、剣をわずかに引く。
「――通れ」
彼の剣が言葉のように鳴った。
“剣王”の紋が手首に淡く浮かび、刃の先から細い気が伸びて、目に見えない糸を二、三本、音も無く断った。
胸を締める圧が、ふっと緩む。
ヒースが青ざめて首を振る。「こんなもん、誰が……」
リュミエルは静域を保ったまま、輪の“接点”を数えた。
「十二の耳。三つずつ、四方向に“鍵耳”があるはず。――解除には鍵が必要。力ずくでは、捻り返して被害が出ます」
アレンは羅針盤を握る。糸が、柱の下部――泥の詰まった隙間を指した。
(そこに、ある)
膝をつく。爪で泥を掻くと、薄い石片が現れた。
人差し指の先ほどの“耳”。微細な線刻が、他の印と違う方向を向いている。
「これが……鍵?」
「ええ」リュミエルが頷く。「でも、まだ三つ足りない」
そのとき、風向きが変わった。
静域の外、通路の闇がふっと濃くなり、黒い影が三つ、足音もなく現れる。
仮面。外套。
封耳官。
先頭の一人が、指を胸に当てる印を作った。
「ここは監察の管理下にある。立ち去れ」
ブレイが半身に剣を立て、即座に応じる。「こっちには評議の依頼状がある。王都の失踪者に用がある」
仮面は、少しだけ首を傾けた。
「失踪者の“声”は、ここにはいない。あるのは“騒音”だ」
リュミエルの瞳がわずかに細くなる。
「あなた方の術式は、声を『留める』ではなく『塞ぐ』方向に偏っている。――誰の命令?」
答えの代わりに、封耳官の指先から細い黒糸が走った。
床と壁の間へ、音もなく、影のように。
ヒースが叫ぶ。「引け!」
黒糸が輪の基点にかかり、静域の膜を圧し、アレンの喉元へ伸びる。
その瞬間、ブレイの剣がはじいた。
短い金属音。火花は散らない。ただ糸だけが、すうっと消えた。
「残りは任せろ」
彼の声は、もう震えていなかった。
剣の間合いの中で、恐怖は形を失う。
アレンはその背中を見つめ、胸の奥に、応えるような灯を感じた。
封耳官は退かない。
「灯は、集まる前に消す。それが秩序だ」
静かな声音。仮面の下の眼差しは揺れない。
リュミエルが一歩、輪の外へ踏み出した。
「“空間静化・織”」
彼女の指が空気に縫い取りをするみたいに走り、石壁の目地ひとつひとつに静音の糸が通る。
音は眠り、影の輪郭が滑る。
アレンはその“静けさ”に身を委ね、心の奥の詞をもう一度、ゆっくりとほどいた。
《痛みは形になり、名は波。 声よ、ほどけて、灯に触れよ》
輪の内から、短い“息”が返る。
(ここ。――ここにいる)
羅針盤の糸が、二つ目、三つ目の方向を示す。
ヒースが身を伏せ、鉄鉤で排水溝の石を外した。「こっちにも耳だ!」
ブレイは封耳官の間合いを切りながら、彼を守る位置へ滑る。
刃は最短だけを選ぶ。無駄な力は一滴もない。
「悪いが、どけねぇ」
封耳官の黒糸が再び伸び、ブレイの頬を浅くなぞった。血が一筋。
しかし彼は瞬きもせず、逆の手で柄を支えて返す。
「……剣が、戻ってる」
アレンは息を呑んだ。悔恨で凍っていた手が、いまは誰かを守るためだけに動いている。
最後の鍵耳が、排水枠の裏から外れた。
リュミエルが輪の中央へ手を差し入れ、四つの鍵石を等間隔に置く。
「同期――」
柔らかな銀の糸が四点を結ぶ。
塞いでいた黒い術式が、糸口を失って解けていく。
押し殺されていた“声”が、薄い風になって基礎柱の空洞から溢れた。
《……覚えていて》
アレンの胸中で、言葉が涙みたいにひとしずく落ちた。
(覚えてる。忘れない)
羅針盤が、静かに脈打つ。
封耳官のひとりが、仮面の奥で目を細めた。
「“灯”は、やはり危うい」
先頭が短く指笛を鳴らす。影が揺れて、三人は石柱の裏に溶け、下流の闇へ退いた。
追うか、とブレイが問う目をする。
リュミエルは首を横に振った。「今は、ここを閉じましょう。まだ他にも輪がある。――急がないと、誰かが次を迎える」
ヒースが額の汗を拭い、苦笑した。
「おっかねぇ仕事だ。だが、あんたらがいるなら、もう少し潜れる」
彼はアレンをちらと見た。「お前さん、その顔だ。声のほうを見てる顔だ」
アレンは小さく笑った。「……見えた気がしました。ほんの少しだけ」
「それで十分だ。水は、少しの傾きで流れを変える」
静域を解くと、世界が一度に音を取り戻した。
遠い滴り、下流のうなり、壁の向こうの商人の掛け声でさえ、鈍い体温を持って耳へ入ってくる。
アレンの膝がわずかに笑う。力が抜けたのだ。
リュミエルがすぐ横に来て、水筒を差し出す。
「飲んで。無理はしないで」
「ありがとうございます」
彼女は淡く微笑んだが、その指先は少し震えていた。
「“静域・織”は消耗が激しいの。……でも、必要だったから」
ブレイが二人を見て、肩をすくめる。
「無茶はお互い様ってやつだ。――で、次は?」
ヒースが棚のような石段に腰を落とし、掌をまた水面へ。
「上流に同じ匂いがある。封じの糸の匂いだ。三叉の先、洗濯工房の下」
リュミエルが頷く。「学院の記録庫にも寄りたい。鍵耳の線刻、由来が必要」
アレンは拾い上げた四枚の小さな石を布に包む。
触れた瞬間、掌がほのあたたかくなった。
(ここから、また誰かの声へ届く道が延びる)
石段を戻る途中、アレンは一度だけ振り返った。
輪が解けた柱の下、しずかな水面が、小さく震えた気がした。
――覚えていて。
声はもう聞こえない。だが、胸の灯は確かに強くなっていた。
地上へ出ると、夕方の光が傾いていた。
王都の塔の影が、長く路地へ伸びる。
評議の影は濃い。
けれど、影が濃ければ濃いほど、灯はよく見える。
アレンは羅針盤を握り、仲間たちと歩き出した。
次の輪へ。まだ届いていない声の方角へ。




