第10話 評議の影
王都の中心にそびえる評議会庁は、塔の影が地面に格子を落としていた。
玄関広場には請願者の列が蛇のように延び、鎧の軋みと羽根ペンの擦れる音が、朝の冷気に薄く混じる。
「列に並ぶのも戦のうちだな」
ブレイが肩を鳴らす。
アレンは胸元の羅針盤を握った。糸は震えない。だが、庁舎の壁面に目を凝らすと――石灰で塗り潰された“耳”の印が、層の下からいくつも浮かび上がっている。
(消して、重ねて、また消して……ここでも、声は塞がれてきたんだ)
先日の急使の文書を示すと、二人は列から抜かれて内側の回廊へ通された。
音が、急に沈む。厚い絨毯と高い天井が、人の声の角を鈍く呑み込んでいた。
広間の奥、黒い長卓の向こうに、灰色の外套をまとった中年の男が座っていた。
「評議会書記長、エルド」と名乗る。血の通わない目をしている。
「剣士ブレイ殿、そして……無能力者のアレンとか。失踪事案の聞き取りに協力願いたい」
“無能力者”。
言葉は冷えた針のように、空気へ軽く突き刺さった。
アレンは小さく頭を下げる。
「できる範囲で、お手伝いします」
書記長は手元の帳面を指で叩いた。
「王都内で確認された“耳の印”は二十六。うち十八件において家主が失踪。戻った者はゼロ。印は、削っても、上塗りしても、痕跡が残る」
ブレイが身を乗り出す。「黒衣を見た。井戸の群衆の中だ」
「“封耳官”だろう」
エルドの視線が微かに動いた。「神殿付の監察役。声を管理する。……彼らは評議の指示の外で動く」
(声を、管理……)
アレンの胸で、何かがきしんだ。
そのとき、側扉が静かに開いた。
緋色の縁取りを施した上衣に、銀の紋章。貴族特有のなめらかな笑み。
「評議員カリスだ」書記長が低く告げる。
男――カリスは視線でブレイを測り、次いでアレンに滑らせた。
「剣の腕は評判だ。……それと、君は噂の“聞く者”か」
アレンは一瞬、呼吸が浅くなるのを自覚した。
「噂、ですか」
「門前で“覚えていて”と呟いたそうだ。門兵の報告書はよくできていてね。私は紙が好きだ、紙はよく覚えていてくれる」
皮肉とも冗談ともつかない口調。
ブレイの手が無意識に柄へ寄った。
カリスはたちまち掌を上げる。「安心したまえ。こちらは敵ではない――少なくとも今は」
エルドが咳払いをした。「証物庫へ降ろす。現物を見たほうが話が早い」
*
地下への階段は、ひんやりと湿っていた。
等間隔に吊るされたランプの火が、壁の溝に細い影を作る。
証物庫――厚い扉をくぐると、棚に木箱が並び、その蓋に小さな札が打ち付けられている。
『第七街区・二階・寝台下』『第三街区・洗面台裏』……
エルドが一つの箱を引き出し、蓋を外した。
中には薄い石片。片面に、爪でえぐったような“耳”の印が刻まれている。
アレンが近づくと、箱の中の空気がひんやりと変わった。
(……冷たい。ここにも、閉じ込められた声がいる)
彼は老神官にもらった短い詞を、胸の内に静かに落とす。
《痛みは形になり、名は波。 声よ、ほどけて、灯に触れよ》
微かな、波。
かすれた呼吸。浅い眠りの縁にいるような怯え。
「――だれか」
囁きが、アレンの耳ではなく、胸の奥で震えた。
胸骨の裏がじん、と熱い。
石片が、かすかな燐光を帯びる。
途端に、部屋全体の空気がざわついた。
天井角に埋め込まれた符が、囁きのような高い音を発して、結界が降りる。
エルドが顔色を変えた。「静音結界が反応した……誰が触れた!」
ブレイがアレンの肩を庇うように立ち、半身に構えた。
カリスは目を細め、面白がるように囁く。「――やはり、君か」
その時、結界の縁が柔らかに揺らぎ、すっと静まった。
扉口に、薄い外套を羽織った人物が立っている。
フードの下、淡い金の髪。
「ここで騒ぐのは賢くありませんわ」
よく通るが、どこか疲れを含んだ声。
エルドが慌てて頭を垂れた。「宮廷魔導師殿……!」
リュミエル。
名を告げられた彼女は、指先で空の目に見えない皺をなぞるように動かすと、結界の音を完全に消した。
そしてまっすぐ、アレンを見た。
「今の光――あなたのもの?」
問いは柔らかかったが、逃げ道を与えない。
アレンは頷いた。「……はい。僕は、ただ、呼ばれた気がして」
カリスが口角を上げる。「“呼ばれた”。良い言葉だ。評議は、呼ばれない者だけで構成される組織だからね」
リュミエルは石片に目を落とした。
「この“耳”。古い祈りの断片だわ。声を留める文字が、間違った形で模倣されている。留めるはずが、塞いでしまっているの」
エルドが険しい顔をする。「つまり、誰かが意図的に?」
「模倣の精度は高い。工房か学院の出身でしょうね。……そして、この部屋にいる誰よりも、声に敏感な人が一人」
彼女の視線が、またアレンに戻る。
「あなた、胸が痛むでしょう」
「……はい」
「痛むのは、誰かが“届かない”と知っているから。――無理をしないで。溺れるわ」
その言葉は、慰めではなく、警告だった。
アレンは無意識に羅針盤を握りしめた。糸が、彼女の手先の動きに微かに共鳴している。
(この人も、どこかで“聞いて”いる)
カリスが場を仕切るように両手を広げた。
「方針を決めよう。評議は剣を、神殿は印を、学院は理屈を持っている。……そして、君は“灯”だ」
「灯?」
「心灯。忘れられた昔話。私は紙でしか知らないが――」
彼はアレンの胸元に視線を落とし、わずかに愉快そうに細めた。「紙にされていない灯のほうが、どうやら強い」
エルドが渋々頷いた。「王都南部の下水路で新たな印が見つかった。案内役をつける。ブレイ殿、現地の警備権限は付与する。……アレン君、君は触りすぎるな。ここで倒れられては困る」
リュミエルが続ける。「私も行きます。結界が必要になるでしょうから」
カリスが肩をすくめる。「王女殿下みずから? ――勇ましい」
彼女は一瞬だけ冷えた目をした。「必要ですもの」
ブレイが目で問い、アレンは小さく頷いた。
(進むしかない。届かない声が、そこにあるなら)
*
階段を上がり、地上の光へ戻る。
回廊の窓の外に広がる王都は、夕方の煤けた金色を身にまとっていた。
庁舎を出ると、広場の喧騒がまた押し寄せる。
アレンはふと振り返る。
高い壁の石灰の下、かすかに光る“耳”の痕跡。
(消しても、残る。――消した誰かも、残した誰かも、ここにいる)
「おい」
ブレイが低く呼ぶ。
視線の先、屋根の縁に黒い影が立っていた。
風に外套が揺れ、仮面の下から、眼だけがこちらを測る。
封耳官。
「見つけた」
声音は、あの夜と同じだった。
次の瞬間、影は屋根の向こうへ消えた。
ブレイが舌打ちする。「追うか?」
アレンは首を振った。「下水路へ。呼んでる」
胸の内側で、羅針盤ではない別のものが、きゅっと灯を強くする。
“灯を探す街角で”始まった一日が、夜の底へ向かってしずかに傾きだす。
その傾きの先で、何人の声が待っているのか。
アレンには、まだ分からない。
けれど――
(“覚えていて”)
門の石壁で聞いた囁きが、風の色を変えた。
彼は歩き出す。
評議の影が長く伸びる王都の路地を、声のほうへ。




