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もう躊躇している時間はなかった。これなら最初から衛兵たちに取り押さえさせておけばよかったと後悔さえする。
「マリー、とにかく人を。見回りの衛兵でもいれば、捕まえて連れてきて」
「わかりました」
彼女もそう答えると即座に駆け出した。悲鳴が途切れたあとは、中から何も聞こえない。
「何があったの。大丈夫?」わたしはなおも倉庫の中に呼びかける。「無事なら答えて!」
それでももう、何ひとつ反応は返ってこなかった。仕方なく、裏通りから表に出て倉庫の正面へと回っていく。そちらには荷車が通れるほどの大きな搬入口があるが、今はぶ厚い扉が閉まっている。おそらく内側から閂がかかっていることだろう。その脇の小さな通用口にも鎧戸が下りていて、当然ながら施錠されていた。ならば。
「灰は灰に。塵は塵に。そも容とは万物、仮初めの姿に過ぎず……」
たぶんマリーが衛兵を呼んでくるのを待つべきなのだろう。けれど今は非常時だ。もしかしたら、一分一秒を争うかもしれない。
「仮初めの姿を与え給え。顕現魔術:バールのようなもの!」
そうして光とともに、例のアレが現れた。黒く塗られた鍵形の金属棒。握り込めば手にずしりと重く、強度も問題はないだろう。
その先端を鎧戸の隙間にねじ込んで、体重をかける。鉄製の鎧戸は元の世界のシャッターよりもずっと頑丈で、わたし程度の体重ではびくともしなかった。
「くっそ……壊れろ〜〜」
めげずに体重をかけ続け、何度か勢いをつけて身を揺すると、わずかに鎧戸が軋むのがわかった。この調子で続ければ、そのうちどうにか。
「あと少し。壊れろ……壊れろ〜〜!」
ほとんど唸り声のようにそう繰り返して。しかし扉を壊すのに夢中で、周囲にはまったく注意を払っていなかった。だから「そこのお前!」と怒鳴り声を聞いても、しばらくわたしに対してのものとは思わなかった。
「そこで何をしている。動くな!」
再びその声を聞いて、ようやく我に返った。振り返ると、帯剣した男たち十数人がわたしを取り囲んでいた。中には、すでに抜刀している者もいる。
そうしてようやく気付いた。今のわたしは、第三者が見れば完全に不審者だと。
「グレインディール騎士団だ。大人しく得物を捨てて両手を壁につけろ。逆らえば容赦なく斬るぞ!」
仕方なく魔術を解除し、バールのようなものを黒い霧にして消し去ると、言われた通りに彼らに背を向けて壁に手をついた。抵抗する理由もない。むしろ彼らが来てくれたのは好都合だ。
「オッケー捜査には協力する。抵抗もしない。ただその前にこの扉を開けて中を確かめて。さっきこの中から悲鳴が聞こえたの!」
「見え透いた嘘を吐くな。何が悲鳴だ!」
「嘘じゃない。今すぐ確かめて。怪我をしていたら手遅れになるかもしれないよ!」
「いいから黙れ。それ以上何か言えば本当に斬るぞ!」
どうも騎士団とやらも相当に頭の固い連中らしかった。まあ日頃犯罪者ばっかり相手にしていれば、そうなるのも無理はない。
いよいよとなったら身分を明かして従わせるか。ここが公爵領だというなら、わたしは領主の娘であって、彼らも無碍にはできないだろう。権力を振りかざすのはみっともないが、今は緊急時だ。
そう意を決したところへ、取り囲んだ輪の中からひとりの男が進み出てきた。歳は四十前後といったところ、ひとりだけ他の騎士たちのような軽装鎧も身に着けておらず、騎士団の制服らしい詰め襟の上着を羽織っているだけだった。その上着もだいぶ年季が入ってくたびれている。元の世界の所轄によくいた、いかにも現場ひと筋のノンキャリ叩き上げ刑事といった雰囲気を感じた。
男はわたしの隣に立つと、ひび割れた声で尋ねてきた。
「坊主。悲鳴が聞こえたってのは本当か?」
坊主じゃないんだけどなとは思ったが、今それを訂正する必要はなかった。
「本当だよ。そんな嘘を言うような人間に見える?」
「見えるね。必要ならどんな嘘でも平気で並べ立てる人間の顔だ。こまっしゃくれた目ぇしやがって」
男はそう答えて、無精髭の浮いた顎を撫でた。しかしその目は、わたしを頭から疑っているようにも見えない。
「そうだね。でもその場しのぎの言い訳はしない。嘘をつくときはもっと準備して、あなたたち全員を騙くらかしてやる」
男はしばしじっとわたしの目を覗き込み、それから「……なるほど」と頷いた。それから背後の男たちを振り返って言う。
「この倉庫はルヴァン商会のものだったな。鍵を持って来させろ。それから治療師も連れて来い」
「しかし隊長、いいんですか?」
「構わん。嘘だったらこの坊主をそのまましょっ引きゃいいだけの話だ」
どうやらひとまず、わたしの話の確認だけはしてくれるみたいだった。そして数分と経たぬうちに、商会の関係者らしき年配の男がやって来て、言われるままに通用口の鍵を開けてくれた。騎士団の名はやはり強いのだろう。
「このまま中まで同行しても?」
隊長と呼ばれていた男は少し思案して、やがてにやりと笑った。
「いいだろう。むしろ俺から離れるな。嘘だったときは、すぐに拳骨を喰らわせられるよう……」
しかし男の言葉は途中で途切れた。鎧戸が引き上げられると同時に、倉庫の中から異様な臭気が漂ってきたからだ。それはさっきよりも強い、はるかに濃密な血の臭いだった。
男の顔がきっと引き締まった。そして背後の部下たちにハンドサインを送ると、抜刀した隊員がひとり前に進み出てきた。その男を先頭に、鎧戸を潜り倉庫の中へと入る。そうして小声で何か詠唱すると、剣の先に光の玉が現れて周囲を照らし出した。おそらく彼はこの魔術を使えるので、先頭に立つよう指示されたのだろう。
倉庫の中には木箱がいっぱいに積まれ、中を見通すことはできなかった。その木箱の間を、一列になって奥へと進んでゆく。
「離れるな」
隊長と呼ばれた男が低い声で言った。有無を言わさぬ語調に、思わず素直に「……はい」と答える。
そうしてなおも進んで行くと、倉庫の最奥に少し開けたスペースがあった。おそらく梱包作業などを行うためのスペースなのだろう。ここまで来れば奥の小窓から差し込む朝日のおかげで、魔術の光がなくとも様子がよく見て取れた。
そのスペースの隅に、腰を抜かしたように座り込んでいる少年の姿が見えた。まだわたしたちにも気付いていないが、腕の怪我以外に何か傷を負ったようにも見えない。どうやら無事だったらしいと安堵する。
しかし彼が見つめている先に目を向けると、思わず息を飲んだ。強烈な血の臭いの元がそこにあった。壁一面に飛び散った赤、赤、赤。その中心には、仰向けに倒れている大柄な男。その首から胸、そして腹のあたりまでがやっぱり赤黒く染まり、もはや息をしていないのは明らかだった。
隊長と呼ばれていた男が、慌てて気付いたようにわたしの視界を掌で隠した。この惨状を見せまいとしたのだろう。わたしはその手をそっと押しのけて、前に進み出る。
まずは少年に歩み寄り、その肩に手を置いた。それでようやく彼もわたしたちに気付いたようで、血の気の引いた顔をこちらに向ける。
「あ……あ、ああ……」
「何も言わなくていいよ。無事でよかった」
そう言ってあげると少しは緊張が解けたのか、がっくりと肩を落として俯いた。ようやく我に返ったか、騎士団の男たちがひとりふたりとこちらに駆け寄ってくる。
「乱暴にはしないであげて。怪我をしてるの」
彼らは戸惑ったように『隊長』を振り返った。彼は小さく頷き、「治療師のところへ連れて行ってやれ」とだけ命令する。少年も、もう逃げようとはしなかった。もしかしたら腰が抜けて逃げようにも逃げられなかったのかもしれない。
少年が運ばれていくのを見送ると、わたしは死体に向き直った。被害者は三十前後の男性。長身で、身長は百八十センチ台半ばといったところか。痩せ型ではあるが、筋肉はそこそこついているようだ。
死因は刺殺であることは間違いない。しかし出血は酷いものの、見たところ傷はひとつ。首から肩口にかけて、ざっくりとした深い傷が見える。おそらくはそれで頸動脈を断たれて血が噴き出したのだろう。壁一面に血が飛び散っているのは、傷を受けてから激しくのたうち回ったためか。
しかし凶器と思われる刃物は見当たらなかった。犯人が持ち去ったのか。傷口から類推するに、凶器は短刀、ナイフの類だろう。衛兵たちが提げているような剣による傷には見えなかった。
「おい、坊主……」
『隊長』が何かを言いかけたのを手で制した。
「わかってるよ。何も触らない、見るだけ」
現場保存は大事。それはよくわかってる。別に、彼らの仕事を邪魔したいわけじゃない。
「いや、それならいいが……魔術も無しだぞ。お前、使えるんだろう?」
少し驚いて、彼を振り返った。会ったばかりでそんなこともわかるのか。
「どうして……?」
「さっき表で、持っていた黒い棒みたいなもんを消しただろう。あれは魔術じゃなかったのか?」
「ああ、なるほど……」
うまくごまかせたと思ったのだが、しっかり見られていたのか。なかなか目ざとい男だった。
「わかった、使わない。それでいい?」
「ああ。それが一番大事なことだ」
彼はほっとしたように息をつくと、背後の部下たちに指示を送りはじめた。おそらくこの倉庫は封鎖され、現場検証が行われるのだろう。その様子もつぶさに見物したいところだったが、部外者であるわたしには難しいか。
しかし何だろう、この凄惨な光景には、奇妙な既視感を覚える。わたしはどこかでこれと似たものを目にしたことがあるような。しかしその記憶はぼんやりとしていて、はっきりと思い出せなかった。まるで自分の頭の中に靄のかかった一角があるみたいな感覚に苛々する。
この感覚は何だ。この記憶は何だ。わたしはこれと似たような現場を見たことがあったのか。だとしたら、いつだ。
「このありさまを見て顔色ひとつ変えねぇか。ずいぶんと肝の据わったガキだな」
そんな『隊長』の言葉に、わたしはようやく我に返った。振り返ると、彼の背後の部下たちの数が減っていた。おそらくこの現場を直視できずに外へ出て行ったのだろう。残った者たちも、みな青い顔で俯いている。
「すみません、遅くなりました」
「なんだユリアンか。いったい何をしていた!」
「本当に申し訳ありません、遅刻しまして。屯所に行ったら、この隊に合流しろと……」
かと思うと、遅刻して今頃やってきた間抜けもいるようだった。いかにも新米然とした若者だ。けれどその殊勝な顔も、現場のありさまを目にすると一瞬で凍りつき、血の気を失ってゆく。
まあそれも無理はない。わたしだって刑事課に配属されたばかりの頃は、凄惨な現場を見て吐いたこともあった。それでも四年も続けていればそれなりに慣れたが。
「坊主……お前、何者だ?」
「そうだね。じゃあとりあえず……」わたしはそう言って帽子を脱ぎ、中に押し込んでいた三つ編みの髪を下ろした。「『坊主』ではないので、よろしく」
『隊長』はますます困惑した顔で目を瞬き、やがて大きなため息をついた。
「こいつは悪かった。で、お嬢さん?」
「……なあに?」
「すまないが、屯所で少し話を聞かせてもらえないか」
とりあえず、この現場で今見ておくべきものは見た。ならばもうここに用はない。それに屯所とは、彼ら騎士団の詰所、つまりはこの世界の警察署だろう。どんなところか興味がある。
「喜んで」
と、わたしは微笑んで答えた。