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翌日目を覚ますと、まず足の調子を確かめた。ふくらはぎにわずかに張りがあるが、気にするほどではない。昨日は一気に距離を伸ばしただけに、多少は影響が出るかと思ったが杞憂だった。
どうやらこの一ヶ月で、ずいぶんと体力もついてきたみたいだ。これなら今日はもう少し遠出してもよいかもしれない。そう思っていつもの作業着に身を包み、三つ編みにした髪を帽子で隠す。ところが準備万端部屋を出ると、ドアの前にマリーが待っていた。
見ると、わたしと同じ作業着姿だ。もちろんこれはそもそも彼女のものなのだし、同じものを持っていても何の不思議もないのだが。もっとも裾を幾重も捲り上げているわたしと違い、背の高い彼女が着ると少しつんつるてん気味だ。
「おはようございます、お嬢さま」
「マリー……その格好は何?」
彼女は屋敷の中では、いつでもメイド服姿だった。この作業着を身に着けるのは庭の手入れの時だけで、せいぜい月に数度と聞いていた。もしかしてそれが今朝で、仕事を終えてすぐにやって来たということか。しかしそれも違うようだった。
「もちろん、お嬢さまにお供するためです。今日はマリーも一緒に走りたいと思います」
困る、という感情が顔に出るのを必死で抑えた。彼女はあくまでも、わたしのために同行を志願してくれているのだ。とはいえ、これでは昨日のように屋敷を抜け出すことはできそうにない。
「えっと……仕事のほうはいいの。朝は色々準備があるんじゃない?」
「大丈夫です。そのために今日は二時間早く起きて、すべて済ませてまいりましたので。お嬢さま、今日までお供できずに申し訳ありませんでした」
「そ、そう……あまり無理はしないでね」
「いえ……マリーは嬉しいのでございます。魔術に覚醒されてからというもの、お嬢さまはすっかり活発になられて。本当に良かった……」
そうやって涙まで浮かべられては、その気持ちを無碍にすることはできなかった。仕方なく、ふたりで屋敷の敷地内を走ることにする。あるいは先に彼女をリタイヤさせてしまえば、あとは自由に行動できるのではないかとも目論んだが甘かった。
いつもよりペースを上げて中庭を三周、およそ一キロちょっとを過ぎても、マリーは涼しい顔で並びかけてくる。このままではわたしの方が先に息が切れるだろう。メイドの体力侮れじ。考えてみれば彼女たちは毎日、一日中立ち仕事力仕事をこなしているのだ。
「お嬢さま、お身体は大丈夫ですか?」
その上、わたしのことを気遣ってさえいる。そこまで余裕を見せられてしまうと、ついつい負けず嫌いが顔を出す。
「全然。もう少しペースを上げるよ、マリー。ついて来れる?」
「はい。ついてまいります、お嬢さま」
そこからさらに中庭を三周。都合三キロ弱を走り切ったところで、案の定わたしのほうが音を上げた。膝が笑って歩くのもやっとになって、近くにあった四阿の中にへたり込む。まあ、それでも昨日よりは距離を稼いだ。日々進歩はしている。
「お疲れさまです、お嬢さま。今、水をお持ちしますね」
まったく息を荒らげる様子もなく、マリーは近くにある井戸へと走って行った。そうして戻ってきた彼女から水を受け取ると、喉を鳴らして一気に飲み干す。
「それにしても、マリーは全然平気そう。体力あるのね」
「私は……ええ、田舎育ちですから」
わずかに言葉を濁しながら、彼女はそう頷いた。何やらそれだけではない様子だが、あまり詮索はしないほうがよさそうだ。それだけここのメイドの仕事がきつい、という理由かもしれないし。
わたしは息を整えながら、屋敷の中庭を見渡した。そうして先ほどから気になっていたことを尋ねる。
「ところで、何だか今日は警備の衛兵が多いわね。何かあったのかしら?」
いつもは正門周辺と数人の巡回しかいない衛兵の数が、今日はやけに多かった。いつもはいない例の抜け道にも見張りが立っていて、これではマリーがいなくとも外へ抜け出すのは無理だったかもしれない。
「はい、何でも昨夜、モルガン商会の倉庫に賊が押し入ったとのことで」
「モルガン商会って……中心街の近くにある大店の?」
「はい」
昨日、あの少年たちが下見していた場所だった。どうやら彼らは忠告を聞かず、計画を実行したようだった。
「賊の大半は待ち構えていた騎士団に取り押さえられたとのことですが、一網打尽とはいかなかったようで……取り逃がした残党が、まだ街に潜伏しているそうです」
「そう……騎士団の人たちも、警備のみんなも大変ね」
どうやらその『騎士団』とやらが、この世界では警察の役目を担っているようだった。しかしそれよりも、今は昨日の少年がどうなったのかが気になっていた。やはり犯行に加わっていて、取り押さえられたのか。あるいは今も街のどこかに隠れているのか。
もちろん、彼のことなどわたしが気にする義理もない。忠告はしたのだ。それでも犯行に走ったのは、彼らの浅慮でしかない。その結果彼らがどうなろうと自業自得。むしろ犯罪者はしかるべき罰を受けるべきであろう。けれど。
「でもご安心ください。万一にもこのお屋敷の中まで賊が侵入することはないでしょう。警備を強化しているのも、あくまで念のためです」
そうでしょうね、とわたしは頷いておいた。けれど、気になっていたことがもうひとつあった。以前から嗅覚には自信があったが、この身体を得てからそれはいっそう鋭敏になっている。その鼻が、ここまで走ってくる途中で嗅ぎ取ったかすかな臭い。
あれはこの世界に来る以前、よく嗅いだものだった。けれど決して好きにはなれない臭い。そう、血の臭いだ。
「さて……部屋に帰りましょう、マリー」
「もう少し休んでいかれては?」
「ゆっくり歩いて、クールダウンしながら帰るから大丈夫よ。あなたは仕事に戻らなくていいの?」
「はい、お嬢さまをお部屋までお送りしてから戻ります。メイド長にもそう申し伝えてありますので」
「そう……じゃあ、お願いね」
わたしは再び帽子の中に三つ編みの髪を押し込むと、ゆっくりと立ち上がった。荒事にならないといいけれど、もしそうなった場合でも彼女のことはきちんと守るつもりだった。いつでも無詠唱で顕現させられるよう、機動隊のポリカーボネート製防護盾をイメージしておく。
そうして、中庭の外周に沿って来た道を戻って行く。やがて例の抜け道近く、白い薔薇が咲き並ぶ生垣の前へと差し掛かった。かすかだった血の臭いが、今でははっきりとわかるほどに強くなる。やはり、とわたしは足を止めた。
「……お嬢さま?」
マリーが訝しげに声を掛けるが、それに構わず生垣の間に入って行く。そしてその奥にある潅木の繁みに向かって、声を落として呼びかけた。
「そこにいるのでしょう。出てきなさい」
返事はない。しかし、確かに気配はあった。それに何より、もはや疑いようもないほど濃密な血の臭い。おそらくマリーももう気付いているだろう。
「怪我をしているのでしょう。今すぐに手当が必要なはずよ」
続けながら、潅木の方へと歩を進めた。マリーが制止するように「いけません、お嬢さま」と声をかけてきたが、無理に引き止めようともしてこなかった。
そうして、潅木の隙間に身を隠している小さな姿を見つけた。膝を抱えるように身体を丸め、それでも憎しみに満ちたような目でこちらを睨み上げてくる。脱いだ上着を左腕に巻いて怪我を隠そうとしていたが、そこにもじくじくと血が染み出してきていた。おそらくガラスか何かで腕を切ったのだろうが、相当な出血と言えた。
「お前は、昨日の……」
と、侵入者はようやく口を開いた。その顔には確かに覚えがあった。昨日中心街の近くで忠告をした少年だった。
「だから言ったじゃないの……馬鹿ね」
「うるさい、何なんだよお前。お前がどうしてこんなところにいるんだよ!」
「そんなことはいいから、とにかく傷を見せなさい。早く手当てしないと手遅れになるかもしれないわよ」
そう言って、わたしはもう一歩彼に歩み寄った。できるだけ優しく声をかけたつもりだったが、それでも彼はびくりと震えて身体を起こす。
「お嬢さま、危険です。それ以上近付いては……」
「大丈夫よ、マリー。まだ子供だし、怪我もしてるわ」
言ってから、今のわたしもまだ子供だったことを思い出した。まあいい。危険があるようには思えないのは同じだ。
彼のほうも、腰を上げた姿勢のまま後ずさろうともしなかった。敵意はないことをわかってくれたのだろうか。こちらはただ、怪我人を放っておけないだけだ。もちろん騎士団とやらから匿ってあげることもできないが、まだほんの子供であればそう重い罰が下ることもないだろう。
「いらっしゃい。屋敷まで戻れば、ちゃんと手当てをしてあげられるわ」
重ねてそう呼びかけると、少年の険しい表情が少しだけ緩んだ。煤と土で汚れた額には脂汗が伝っている。怒りと緊張でどうにか耐えているのだろうが、そろそろ意識も朦朧としてきているのではなかろうか。
「お……俺、俺は……」
と、彼が何かを言いかけた。しかしそのとき、鉄靴を鳴らしながら走る足音が近付いて来た。
「おい、そこに誰かいるのか。何者だ!」
次いで、警備の衛兵たちの怒声が聞こえた。それを聞いて少年はまた表情を強張らせ、眉尻を釣り上げ歯を剥いた。
「待って。大丈夫、みんなにはわたしから……!」
「うるせぇっ!」
彼はそう吐き捨てると、脱兎のように駆け出した。あれだけ苦しげだったのに、どこにそんな力が残っていたのか。そう驚くほどの勢いで、身を隠していた潅木を飛び越え、屋敷と街を隔てる石積みの塀へとまっすぐに向かって行く。
「お待ちください、お嬢さま。それ以上は……」
なおもそう制止しようとするマリーに「大丈夫!」とだけ答え、わたしもあとを追って走り出した。息も十分落ち着いていて、まだあと少しなら全力で追いかけられそうだ。
「どこに行くの、そっちは……」
逃げ場なんてない。そう思ったが、彼は止まろうともしなかった。そして驚いたことに塀の手前で地を蹴ると、そのまま垂直の壁面を駆け上がり、四メートルほどを軽々と越えて姿を消した。いったいどういう身軽さか、あるいは何かの魔術なのか。
とはいえ、ここで諦めるという選択肢はなかった。何しろあの怪我だ。このまま彼を見失ってしまって、後日どこかで彼の亡骸が発見されでもしたらどうする。もちろんわたしだって、誰も彼も助けたいと思うほどの博愛主義者じゃない。でも手が届いたかもしれない誰かを、助けられたかもしれない誰かを見殺しにしたなんてことになれば、さすがに心が痛む。それだけだ。
即座に無詠唱で脚立を顕現させ、一気に上った。そうして石塀の向こう側へ飛び降り、魔術を解除する。マリーには悪いと思ったが、もう衛兵たちに邪魔されたくはなかった。
そう思っていると、わたしの隣にマリーが降り立った。いったいどうやって。彼女もまた、あの少年と同じように垂直の壁を駆け上がりでもしたのか。信じられない思いでその顔をまじまじと見つめると、マリーは少し恥ずかしげに「田舎育ちですから」とだけ言った。この世界の田舎はいったいどんな魔境なのか。
それともこの世界の人間はそれが普通なのか。とは思ったが、さっきの衛兵たちが塀を越えてくる様子はなかった。
「おやめくださいとマリーが言っても、お嬢さまは止まってくださらないのでしょう。でしたら、お供いたいます」
「そ……そう、ありがとう」
このメイドが何者かも気になるところだったが、今はそれどころじゃなかった。わたしは目を周囲に巡らせ、さっきの少年を探す。しかし見渡せる限りに人の姿はない。
このあたりは商家が並ぶ通りから奥まった裏道で、それぞれの店の倉庫が軒を連ねている。使われていない荷車も並べて置かれていて、身を隠す場所にはこと欠かなかった。あの小柄な身体ならなおさらだ。
これは彼を探すにも骨が折れそうだ、と思ったがそうでもなかった。ふと見上げた一軒の倉庫。その壁に設けられていた換気用の小窓。その窓枠に、まだ真新しい血の痕があった。
「お嬢さま、あれを」
ほぼ同時に、マリーもそれを見付けたようだった。わたしは「……うん」と頷くと、その小窓の下に駆け寄ってゆく。しかし小窓の高さはゆうに三メートルほどはあり、しかも小さかった。半開きになっている跳ね上げ戸も、今以上は開かない構造になっているようだ。
あれではよほど小柄で、また身体の柔らかい人間でなければくぐり抜けることはできないだろう。今の身体のわたしでも難しそうだ。
「そこにいるのね。聞こえる?」
わたしは小窓の向こうへと呼びかけた。あたりはまだ早い時間とあって静かで、きっと声は届くはずだ。
「とにかく、今は早く手当てを受けなさい。大丈夫、重い罪にならないよう、騎士団にはわたしからも口添えしてあげるから!」
そう続けると、しばらく耳をすませて返事を待つ。どうやら頑なにさせてしまったか。そう落胆しかけたそのときだった。倉庫の中から、少年のものらしい悲鳴が響いてきた。
「あ、うああぁ……うわあああああああああっ!」