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一にも二にも、まずは体力だった。いくらなんでもこのお嬢さまの肉体は貧弱すぎる。なので、一から鍛え直すことにした。
最初はオーソドックスに走り込みからだ。マリーにメイドが庭仕事のときに使う作業着を用意してもらって、警備の目につかないよう未明のうちに離れを出る。まずは屋敷の構造や警備状況を確かめがてら、中庭をゆっくり回ってみることから始めた。
そして身体が運動に慣れてくるにつれて、段階的に距離を伸ばしていく。最初は中庭一周、距離にして二、三百メートルほどで息を切らしていた身体も、三週間も続けると数周程度には耐えられるようになった。観察の結果警備のローテーションもだいたい把握できたし、そろそろ屋敷を抜けて街に出てみる頃合いだった。
ちなみにこの世界でも、暦は元の世界と同じだった。一年は三百六十五日、それを十二か月で区切り、ひと月は三十日か三十一日。七日で一週間。一日の長さも体感的には変わりない。ここが元いた世界とは違う異世界であるということを考えると、ありえないほどの偶然と言えた。太陽の明るさも同じで、夜になれば見慣れた月が空に浮かぶ。
それを見ると、もしかしたらここは元いた世界と同じ、地球のどこかなのではないかという考えさえよぎる。単にわたしが知らなかっただけで、世界にはこんな魔術なんてものが存在していたのかも、と。もちろんありえないことではあるが、ついついそんなことまで考えてしまうほど、こことかつていた世界の間には共通点が多かった。おそらくそのことも、元の世界へ帰るための手掛かりになるのだろう。
体力作りと並行して、魔術についての調査も進めていた。教師からの指導の他にも自分で書庫に足を運び、古い文献を片っ端からあたっている。この身体の持ち主であるヴァイオレット嬢はなかなかの勉強家であったようで、この世界の古い言語についても知識が深く、読み解くのもさほど苦ではなかった。
確かにヴィシニウスが言っていた通り、顕現魔術についての記録はひどく少ない。そしてかろうじて残っていたものも記述がそれぞれ食い違っており、どれが正確なものかもわからなかった。もしかして先の使い手だったヴィルヘルム公とやらは、意図してこの魔術についての記録を残さないようにしていたかにも思える。危険と思ったのか、あるいは別の理由でか。
ただ概論として、魔術そのものについてはある程度理解できてきた。詠唱とは何なのか。そしてなぜ詠唱が必要なのかも。
ヴィシニウスの言っていた「魔力とは生命力そのもの」という言葉が正しければ、魔術とはまさに己の命を削って起こす奇跡に他ならない。ならばそんな危険な行為には、人体の側にも何らかの防護がかかっているのが当たり前だ。人間が己の身を守るために、無意識に施している安全装置。それを解除するための儀式めいた自己暗示こそが、呪文の詠唱という行為なのだ。
つまりその安全装置を解除することさえできるなら、詠唱が正確である必要はない。最悪、詠唱などなくても魔術の発動は可能なのだ。しかもわたしは一度、無我夢中のうちにそれを行ってしまっていた。ならば身体がもう、魔術とは無詠唱でも行使できるものだということを知っている。
ただこれは裏を返せば、人にあらかじめ備わっているはずの安全装置がすでに外れっぱなしになってしまっているという意味でもある。調子に乗って野放図に魔力を使い過ぎれば、また昏倒して何日も寝込むことにもなりかねない。なので実践あたっては、細心の注意が必要だった。
「と言っても、この魔術で何ができるのかは知っておかないとね」
今のわたしの唯一の武器。その武器の性能を知らずして、使いこなすことなど不可能だ。
「天には星。地には岩。海は水を湛え、風は木々を揺らす……」
念のため、詠唱もわかる範囲で正確に。
「在るべきものは在るように。容は容のままに。されど容は常ならず……」
そして不明な部分はどうするか。適当に誤魔化すか。不正確な呪文を全部くっつけるか。しばし悩んだ挙句、余計なことはするべきじゃないと判断する。つまり、わからない部分は全部端折る。それが一番安全だ。
「灰は灰に。塵は塵に。そも容とは万物、仮初めの姿に過ぎず。ならば在らざるもの、在りうべからざるものにも容を与え給え。仮初めの姿を与え給え。顕現魔術:スマホ!」
それでもどうにか、魔術は発動したようだ。部屋に光が満ちて、目を眩ませる。光はやがて無数の粒子となり、渦を巻き、虚空に掲げた掌に集まってくる。
そうして光が収まり薄闇が戻ってくると、手の中には慣れ親しんだ掌サイズの機械があった。わたしが使っていた機種とデザインはまったく同じ。
ただし画面は暗いままだ。当然のことながらこの世界には5Gの電波などなく、充電もしようがない。つまりはこんなものを顕現させても使いようがないということだ。それは最初からわかっている。
問題は、これがどこまで本物のスマホを再現しているかということだった。それを確かめようと、側面にあるボタンを押してみる。しかしそのボタンは、いくら力を込めても押し込むことができなかった。
「……てことは、まさか?」
思いついて、スマホの形をしたそれをテープルの角に叩きつけてみる。さして力は入れずとも、それはぱりんという軽い音とともに割れた。そして断面を見てみれば、中には基盤も電子部品も見えない。つまり。
「これはスマホの形をした、ただの小さな板ってことか」
おそらく機械や道具は、その内部構造や部品、さらには素材の性質まで正確にイメージできなければ、使用できる状態で顕現させることはできないのだろう。そんなの、技術者でもないわたしには不可能なことだった。
そうため息をつくと、スマホっぽい何かだったものは手の中で砂のように崩れ、消えていった。どうやらあまり長持ちもしないらしい。それも、術者であるわたしのイメージの強さ次第なのだろうか。
ならばもっとシンプルなものならどうか。とりあえず今必要なものといえば、武器だった。すっかり非力な身体になってしまったからには、それを補うものがなければ。
思い浮かべたのは、警備の衛兵たちが提げている長剣だった。欲を言うなら拳銃が欲しいところだが、機械と同じく完全な再現は難しいだろう。一応警察学校時代にニューナンブの分解・清掃の経験はあるが、構造を細部まで完全にイメージできるかは自信がない。
「在らざるもの、在りうべからざるものにも容を与え給え。仮初めの姿を与え給え……」
衛兵たちの剣を頭の中に思い浮かべる。堅い樫に牛革を巻いた柄。細かな装飾が彫り込まれた金属製の鍔。公爵家の紋章と思われる鷲の翼が描かれた鞘。
「顕現魔術:ロングソード!」
再びあたりは光に包まれ、手の中に鞘に収まった長剣が現れた。しかし今度は少し大きなものだったので、そのまま掴むことができずに足元に落ちる。
「……さて」
問題はこれが、ちゃんと鞘から抜ける代物かどうかだった。また鞘まで一体化した金属っぽい塊にすぎなかったら泣く。
「ちゃんと、剣を抜くイメージもしたはずだしね……」
祈る思いで、柄を握って力を込める。果たして、剣はするりと鞘から抜けた。しかし今度は、その刀身がいただけない。鍔から先はぼんやりと透けていて、指で触れるとそのまますり抜けてしまう。そういえば、肝心の刀身を強くイメージするのを忘れていた。と言っても、衛兵たちの剣が抜かれたところはまだ見ていない。見ていないものを、想像だけで強くイメージするのは難しかった。
なら次はどうしよう。そう思案しようとしたら、足元がふらついた。どうやらふたつ顕現させただけで、ずいぶんと魔力を消耗したらしかった。
わたしはよろめくままにベッドへ仰向けに倒れこんだ。気分は悪くない。息も上がってないし痛むところもない。ただ、ひどく疲れていた。手足に力が入らない。
「こんな程度で打ち止めって……」
現在のところの正直な感想を言えば、「顕現魔術、使えねぇ!」ってところだった。少なくともドラえもんの四次元ポケットみたいな、何でも好きなものを出現させられる夢のような魔術ではない。使いかた、使いどころをよく考えて、有効に活用しなければ意味がないものだ。
それと、もっと体力が必要だ。魔力が生命力そのものであるならば、体力さえつければもっと大きなものも顕現できるし、回数も持続時間も伸びるのだろう。まずはそこからだ。
「気長に、一歩一歩やっていかないとね」
元より、長丁場になることはわかっていた。ならば焦っても仕方がない。できることを一歩ずつ。そうやって、気長に積み上げていくしかない。
それにしても疲れた。
「……ビールが飲みたい」
この身体ではそれも望めなかった。もしかしたら、いちばん辛いのはそれかもしれない。