目を開けると、またわたしはベッドに横たわっていた。
前と同じ部屋だ。天蓋付きのベッド。窓枠も調度品も中世風の過剰な装飾。相変わらず落ち着かないが、これにも少しずつ慣れていかなければ。
目を巡らせると、メイドの彼女は部屋の壁際でスツールに腰掛けてうつらうつらと舟を漕いでいた。窓から差し込む光は、前よりだいぶ赤らんでいる。どうやら時刻は夕刻近いようだった。
上掛けの下から手を出して、目の前に指を広げてみた。見慣れた自分のものよりも、やはりずいぶんと小さい。掌の肉は柔らかくすべすべとしていて、あらためて別人の身体なのだと納得する。わかっていたことではあるが。
「……お嬢さま?」
気配で目を覚ましたのか、メイドの彼女が声を漏らした。そうして弾けたように立ち上がり、ベッドに駆け寄ってくる。そうしてわたしの手を握り、目に涙を浮かべた。
「目を覚まされたのですね、お嬢さま。良かった……本当に良かった」
ちょっと寝ていたくらいで大袈裟なとは思ったが、あんなことがあった後では無理もない。
「わたし、どれくらい寝てた?」
「ほんの五日ほどです。いえ、でも目覚められたならそれで、もう……」
「五日ぁ⁉︎」
思わず素っ頓狂な声をあげて上体を起こそうとした。とはいえそれだけで背中に痛みが走り、すぐに断念する。
「ご無理をなさらないでください。どうぞ、そのまま横に」
「いや、何だってそんなに……たいした怪我はしてなかったと思うんだけど」
「治癒師の先生は、魔力切れだとおっしゃっていました。初めてであんな大規模な魔術を行使すればそれも仕方ないかと。しかも、無詠唱でしたし……」
「魔術……詠唱」
そういえばそうだった。ここは、そんな奇妙なものが存在する世界だった。塔から落ちたときに現れた、あるはずのなかった巨木。あれはいったいどういう魔術だったのだろう。
「あなたは……怪我はなかった?」
「はい。お嬢さまのおかげです!」
その言葉は本当のようで、見たところどこにも傷を負っている様子はなかった。巻き込んでしまった手前、それについては心底安心した。
そしてわたし自身にも、大きな怪我はないようだ。さっき起き上がろうとして傷んだのも、五日も寝ていて筋肉が硬直していたせいだろう。骨や関節の痛みではなかった。
「ところで……」と、わたしは彼女に呼びかける。そこで、わたしはまだ彼女の名前も知らないことに気が付いた。しかし本来ならお付きのメイドの名を知らないはずもなく、どうやって尋ねたものかと悩む。
そこでタイミング良くドアが開いて、前にも現れた初老の男性が入ってきた。今回は従者らしい若い男をふたり伴っている。いずれも教会の修道士のような衣服を身につけていた。
「ヴィシニウス先生。お嬢さまが目を覚まされました!」
「そのようだな。ご気分はいかがですかな、ヴァイオレットお嬢さま」
こう問われて、本当の『お嬢さま』ならどう接するのだろうと思案する。しかしそんな貴族っぽい言葉遣いなどわからなかったので、曖昧に「ええ、まあ……特に悪くは」とだけ答えた。
「それは何よりです。吐き気もないのであれば、魔力も順調に回復なされているのでしょう」
そうして傍に座っていたメイドの彼女が、場所を空けるために立ち上がった。しかしヴィシニウスと呼ばれた初老の男は、それを手で制す。
「そのままでいい、マリー。お嬢さまも心細かろう。そのまま、手を握っていて差し上げなさい」
「はい。ありがとうございます、先生」
マリーと呼ばれた彼女は、そう頷いて座り直した。そうしてわたしの手を、なおも強く握ってくる。これで彼女の名前もわかった。この世界を知る、まずは第一歩だ。
「とはいえ、今後は魔力切れには重々ご注意くださいますよう。魔力とは生命の力そのものでございます。こたびは事なきを得ましたが、場合によってはお生命にかかわることもありますゆえ」
男は半ば脅すように、声に力を込めて言った。確かに程度が軽くても五日も寝込むのであれば、重症であればどんなことになるか。あまり想像もしたくなかった。
「さて、それでは……目を覚まされて早々にすみませぬが、いくつかお尋ねしてもよろしいですかな、お嬢さま」
「はい。と言っても、わたしはわたしが何をしたのか、自分でもよくわかってないのですけど」
「まあ、それもご無理はありませんな。もちろん、わかる範囲で結構です。それにお知りになりたいことがあれば、こちらからもお答えします」
たぶんそちらのほうが多くなりそうだった。いい機会だ、この何やら偉そうな先生に、訊けることは訊いておこう。
「それではまず、お嬢さまが発動させた魔術が何であったのか、ご自身では理解されていますか?」
「正直、わかっていません。あの時はとにかく無我夢中で……」
「なるほど……」
と、ヴィシニウスはちらりとマリーを見やって頷いた。
「マリーの説明が確かならば、お嬢さまが発動させたのは顕現魔術で間違いありませんな。放出した魔力を物質化し、頭に思い浮かべた物を実体化させる魔術です。しかもそれもわからなかったということは、詠唱もせずに行使したということになりまする」
これは凄いことですぞ、お嬢さま。ヴィシニウスはそう言って、うむむと唸った。
「もちろん熟練の魔導師には無詠唱で魔術を行使できる者もおりますが、覚醒してすぐにというのは聞いてこともございません。さすがは、グレインディールのお血筋と言うほかありますまい。しかも顕現魔術とは……」
初老の男はそこでまたううむと考え込んでしまった。何かまずいことでもあったのかと、わたしはマリーに目を向けて尋ねる。
「えっと……その顕現魔術って何かヤバいものなの?」
「そんなことはありませんよ。ただ、使い手が非常に少ない魔術ではあります」
つまりわたしはガチャ一発目でスーパーレアを引いてしまったということか。しかしそれなら喜ばれそうなものだが。
「それこそ記録に残っているのは、お嬢さまのひい、ひい、ひいお祖父様にあたるヴィルヘルム公で最後かもしれません」
誰だそれは、と言いそうになって口を噤んだ。このお嬢さまのご先祖であるなら、知らないと言ったら変に思われるかもしれない。
「左様、『城塞公』の名をほしいままにした大魔導師、ヴィルヘルム公以来でございます。公はかの二百年戦争の折、巨大な城壁と櫓を顕現させ、マールデンブルグの猛攻からグレインディール領を守りきったと伝えられております」
「素晴らしいです、お嬢さま!」と、マリーがあとを受ける。「もしかしたらお嬢さまは、かのヴィルヘルム公の生まれ変わりなのかもしれません。ああ、お父上さまもきっとお喜びになることでしょう!」
あーうん、生まれ変わりの人はたぶん違う。そんな偉い人と比べられたらわたしは恐縮するし、この身体の持ち主であるヴァイオレットという女の子も困るだろう。
「ただ困ったことに、そのように使い手の少ない魔術ゆえ、お教えできる教師もおらぬのです。それどころか詠唱も正確に伝わっておらず……」
「つまりわたしは、魔術については独学で何とかするしかないわけですね」
「いえ、もちろん魔術の基礎については、わたくしどもからお教えできますが……」
その歯切れの悪さからいって、教わるにしても限りがあるのだろう。それなら仕方がない。自分のことは、自分で何とかするしかないということだ。
「わかりました。どうぞよろしくお願いします」
「わたくしどものほうでももう一度書庫をあたって、何か文献が残されていないか調べ直すといたします」
ヴィシニウスがそう言って頭を下げると、お付きの修道士たちもそれに倣った。とはいえそうした調査はこれまでも行われていたはずで、何か見落としていたものが見付かるかは期待薄だった。
それからいくつか体調についての質問をされ、最後に何やら三人がかりで呪文を詠唱されたのち、ヴィシニウスたちは退室していった。
知りたかったことについてはわずかな答えしか得られなかったというのが正直なところだ。しかし、まあいい。あとはひとつずつ実践しながら、自分の力を確かめていけばいいだけだ。
何にせよ、わたしに与えられた武器はこの顕現魔術とかいうものだけだった。ならばこれを使いこなして、この世界を探っていこう。そして必ず、わたしは元の世界に帰る方法を見付け出す。わたしの死の真相を突き止めるために。このまま大人しく殺されたままでいられるか。
ただし、とわたしはまたマリーを見やった。あんな失敗は二度となしだ。もう決してあんな風に、誰かを危険に晒したりはしない。それはわたし自身についても同じだ。この世界でわたしが死ねば、なんて方法はもうとらない。
このマリーという彼女も、この身体の本来の持ち主であるヴァイオレットという少女も、わたしが守るべき市民に他ならなかった。だから守る。そして無傷でこの身体を彼女に返し、わたしは元の世界に戻る。ハードルは上がる一方だが、やるしかなかった。
もちろん、今のわたしは警察官ではないのかもしれない。でも同じことだ。警察官とはただ職業であるだけじゃなく、生き方そのものだ。曲げてしまっては、わたしはわたしでいられなくなる。
「大丈夫ですよ、お嬢さま。わたしもお手伝いいたします。一緒に頑張りましょう」
マリーが握った手に力を込めて言った。わたしは小さく頷いて、「うん、よろしくね」と答える。