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結界はもうない。しかしそれは、今なら魔術が使えるということだった。それならまだ、やれることは残っている。
「行き先を変更するわ。中庭に急いで!」
街を覆う巨大な方陣は、まだ発動してはいないようだ。おそらくはその大きさゆえ、術式が発動するまでに時間がかかるのかもしれない。それならば。
「しかしお嬢さま、どうやって……」
ワッツはもう打つ手なしと諦め切っているようだった。ええい情けない。これだから男は。
そうして踵を返そうとしたところに、不意に肩を掴んで引き戻された。いったい何だと振り返ると、不敵な笑みを浮かべたアンジュの顔があった。
「……駆けてゆけ。飛んでゆけ。短きいのちが果てるまで」
その唇が、まるで童謡のような詠唱を紡いでいる。どうやら彼女もまた、この瞬間を待っていたようだった。わたしと同じように、兄の結界が破れてアルカロンが発動するまでのわずかな間を。
「かりそめのいのちのかぎり。召喚魔術……グリフォン!」
最後に彼女がそう叫ぶと、これまでにないほどの強い光が弾けた。あまりの眩しさに目を背け、そして再び顔を上げると、光の中に大きなシルエットが浮かび上がってくる。現れたのは、翼を広げれば四、五メートルはありそうな巨大な鳥だった。
「行ってこい、お嬢……!」
アンジュがにやりと唇を歪め、言った。しかしそれで魔力を使い果たしたらしい彼女は、そのまま仰向けに倒れてゆく。わたしは慌てて支えようとするが、その手はもう彼女には届かなかった。
二の腕に激痛が走り、見ると熊手ぐらいはありそうな鉤爪がわたしの左腕をしっかりと掴んでいるのがわかった。グリフォンはそのままわたしを連れて飛び上がり、礼拝堂を横切って行く。回廊から転がり落ちそうになったアンジュをワッツが抱き止めたのを目の隅で確認した次の瞬間、わたしと巨鳥はステンドグラスを突き破り、広場の上空へと躍り出ていた。
「……いっ、つ!」
腕はそのままへし折られそうな痛みだったが、歯を食いしばって悲鳴をこらえた。グリフォンは大きな翼を羽ばたかせながら、なおも高度を上げてゆく。まもなく尖塔の最上階あたりまで到達しそうだった。これで高さは十分。みながみな力を尽くして、このチャンスを作ってくれた。あとは、わたし次第だった。
「天には……星。地には岩。海は水を湛え……つっ、風は、木々を揺らす」
わたしは痛みをこらえながら、歯の間から声を絞り出すように詠唱をはじめる。
目を下に向けると、広場いっぱいに描かれたシンボルが見えた。整然と並べられた石畳に、複雑に絡み合った紋様が緻密に描き込まれている。いったいこれだけのものを描くのにどれだけの時間をかけたのだろう。
その紋様全体が、結界から解放されて息づくように明滅している。けれどまだ弱い。術式を紡ぎながら、魔力が流れ込んでくるのを待っている状態なのだろう。
「在るべきものは、在るように。容は容のままに。されど容は常ならず……」
目を上げると、街のあちこちで放電するような光が上がっていた。まだ不完全な方陣が、魔力の流れを受けて補完されているのだ。その光は四方から、八方から、まばゆく弾けながら近付いてきていた。あの光がここまで辿り着けば術式は発動する。だからその前に。
だが本当にできるだろうか、と浮かんだ不安を振り払う。これから行うのは、これまでにない大質量の顕現。もしうまくいったところで、また魔力を使い果たして昏倒することになるだろう。だが、そんなことはどうでもいい。
大事なのはイメージ。しっかりと顕現するものを頭の中にイメージできるかだ。その重量。その密度。その手触り。細部に至るまで、リアルに思い描けるかどうか。
「灰は灰に。塵は塵に。そも容とは万物、仮初めの姿に過ぎず。ならば在らざるもの、在りうべからざるものにも容を与え給え」
わたしは左腕を掴まれたまま、空いた右手をいっぱいに開いて宙空にかざした。大丈夫、イメージはできている。わたしにとって、いやすべての警察官にとっての破壊の象徴。警察学校で。配属されてからの研修で。映像は幾度も目にした。ひとりの警察官として、しかと胸に刻んでおくべき出来事だと。
それは日本警察史上、最大の勝利にして敗北の歴史。『あさま山荘』事件。
「仮初めの姿を与え給え。顕現魔術:鉄球!」
わたしにとってもすっかり馴染みになった閃光が弾け、次いでかざした手の向こうに現れたのは、直径五メートルはありそうな黒光りする球体だった。
球体は一瞬だけ宙空に止まると、すぐに万有引力の法則に従って落下をはじめ、加速しながら地に迫ってゆく。光に気付いて空を見上げたヴォロヴィッツの配下たちが、驚愕しながら逃げてゆくのが見えた。
そして地響きとともに鉄球は石畳に激突した。その衝撃は空気を震わせ、わたしの頬にもびりびりと伝わってきた。砕けた石が塵となって舞い上がり、土煙が広がってゆく。周辺の石畳までがめくれ上がり、ひび割れが血管のように四方へ走ってゆく。これでも破壊できたのは巨大なシンボルのほんの一角だろう。しかしそれで十分だったようで、シンボルは明滅を止めて完全に静止した。
わたしは安堵して、全身の緊張を解いた。そうでなくとも、もう指一本動かす力も残ってない。それでもまだ気を失わずにいられるのは、日頃の走り込みで体力がついたおかげか、あるいは依然として鉤爪が食い込んでいる左腕の激痛のおかげか。
「お嬢さま!」
マリーの声が聞こえた。やけに近いなと訝りながらまた目を開けると、グリフォンはだいぶ高度を落として、大聖堂に向かって降下していた。そしてさっき破ったステンドグラスの残骸をくぐり、礼拝堂に飛び込んで行く。そのど真ん中あたりでようやく鉤爪から解放され、わたしは祭壇の手前に乱暴に放り出された。巨鳥はわたしを放すと、すぐに金色の粒子となって霧のようにかき消える。
「お嬢さま、ご無事ですか!」
すぐさまマリーが駆け寄ってきて、わたしの身体を抱き起こす。その肩の向こうに、アンジュを背負ったワッツの姿があった。アンジュはぐったりと目を閉じて意識を失っているようだが、それも無理ないだろう。
「大丈夫……でも少し疲れた」
状況はどうなっているのか。礼拝堂の中を見回しても、彼女たち以外の姿はなかった。ヴォロヴィッツの配下たちはいったいどこに行ったのか。
対して、大聖堂の外はやけに騒がしかった。男たちの怒号に、剣を交える金属音。どうやらザールたちが機に乗じて、ここまで攻め入って来ているらしい。礼拝堂にいた者たちもその応戦に出て行ったのか。しかしそれなら、もう大勢は決したと言っていい。
「よう、お嬢さまよ。首尾はどうだ?」
そう言いながら、悠然とした足取りでこちらに歩み寄ってくる人影があった。ウォレンだった。目を向けると、その向こうに力なく倒れ伏している男の姿も見えた。その長い手足から、先ほど彼と立ち合っていたヴォロヴィッツであることは間違いない。
ウォレンのほうは、特に傷を負っているようにも見えなかった。どうやら余裕ありげだったのは口だけじゃなかったようだ。
わたしは負けじと自慢げに返してやりたかったが、今はもう声を出す気力もなかった。だからただ拳を持ち上げ、親指を立てて見せる。
「やるじゃねえか」
と、ならず者の親玉は言った。




