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再びベッドに横たわっていると、先ほどのメイドが戻ってきた。続いて教会の神父のような服装をした初老の男が入って来て、しばらくベッドの脇で何やらぶつぶつと唱えていたが、くぐもった声のため何と言っているのかもわからなかった。
男が部屋を出て行くと、メイドの彼女が湿らせた布で額の汗を拭ってくれた。そうして安心したような表情で、わたしの顔を覗き込んでくる。その面立ちはやっぱり井手とよく似ていたが、きっと別人なのだろう。いよいよそれも認めざるを得なかった。
「お疲れが溜まっておられたのでしょう。このところ、少し根を詰めていらっしゃいましたし」
彼女には尋ねたいことが山ほどあったが、まず何から訊けばいいのかわからず、ただされるがままに任せていた。
「治癒師さまも、特に悪いところはないとおっしゃっていました。ですから今日は、ゆっくりお休みください。ダンスとテーブルマナーの先生には、わたしの方からお伝えしておきますので」
『治癒師』という名称に馴染みはなかったが、医者のようなものなのだろう。おそらくはさっきの初老の男性がそうだ。しかし特に診察らしいことをしていたようには見えなかったが。
「そう……ありがとう」
何と言っていいのかわからないままそれだけ応えると、彼女はにっこりと笑って離れて行った。呼び止めなきゃとも思ったが、それ以上は声が出なかった。
「それでは、何かご用があったらお呼び下さい」
そうしてドアが閉まり、薄暗い部屋にひとり残された。静かになったおかげか、気分はいくらか落ち着いてきた。それでも頭の中は変わらず混乱したままだ。
ならばまず、今わかっていることを整理しようと試みる。状況を整理することで、今やるべきことは自ずと見えてくる。警察学校でまず教わることだった。
まず、今のわたしは能島紫ではない。どうやらそれなりに裕福な家の『お嬢さま』だ。能島紫はどうなったか。認めたくはないが、あのとき死んだと考えるしかないだろう。
次に、ここはどこか。姿見で見たわたしの顔は、どう見ても日本人には見えず、アングロサクソンかスラブ系の白人の容貌をしていた。メイドの彼女は日本人っぽい顔立ちではあったが、髪色からしてハーフかクォーターだろう。ということは、ここは日本ではないと考えるべきか。
体を起こして再びベッドから降りる。そうして窓に歩み寄り、カーテンの隙間から外を窺った。そこからは、よく手入れされた西洋風の庭が一望できた。
葉を繁らせた広葉樹と形よく刈り込まれた潅木で小径が巡らされ、薔薇の生垣で囲まれた一角には鐘楼型の四阿が建っている。その向こうに回廊が続いているところを見ると、これが中庭のようだ。どうやらここは相当に広い敷地を持った屋敷らしい。しかしこの窓から見えるのはその中庭だけで、その向こうまで眺め渡すにはもっと高いところまで行かなければならないようだ。
わたしは意を決すると、ドアを薄く開いて気配を探った。その向こうには広い廊下が続いていたが、人の気配はない。さっきのメイドは何かあれば呼べと言っていたが、これでは呼びようがないではないか。そうは思ったが、今はそれが好都合だった。さっき奇声を上げて倒れただけに、勝手に歩き回っているのを見られたらすぐにベッドに連れ戻されるだろう。
廊下にも柔らかなカーペットが敷き詰められていて、裸足ならほとんど足音はしなかった。途中、大きなカートを押したメイド服姿の女性とすれ違ったが、飾り柱の陰に隠れてことなきを得た。人の姿を目にしたのはそのくらいだった。
廊下を突き当たりまで進むと、階上へと登って行く螺旋階段があった。そこから先は床も壁も石造りで、あまり使われてはいないようで薄汚れていた。おそらく警備のための監視塔みたいなものだろう。なら、周辺を眺め渡すにはもってこいだった。
冷たい石の階段を、ひたひたと登って行く。どうやらこの体の持ち主は、あまり運動はしていないらしい。ほんの二、三階分も上がっただけで息切れがしてくる。それでもどうにか塔を登り切り、望楼に出て目を巡らせた。身長のせいか視界が悪かったので、よじ登って腰壁の上に立つ。
どうやらずいぶんんと大きな建物だった。石積みの堅牢そうな屋敷を中心としてぐるりと回廊が巡らされ、ここの他にも三つの尖塔が屹立し、四方を睥睨している。それを見ると屋敷と言うより、むしろ城と言ったほうがしっくりくる形状だった。
外には街が広がっているようで、主に煉瓦造りの小さな建物がひしめき合うように並んでいた。街は高い壁でぐるりと囲われ、その向こうにはぼんやりと霞むまで平原となだらかな丘陵が続いている。
やはり、ここは日本ではないなとあらためて思った。地形も植生も、建築様式も明らかに見知ったものとは違う。ではどこかとなると、これと言って手がかりになりそうなものは見当たらなかった。元々建築様式にはさほど詳しくはなく、何となく中世のヨーロッパ風とまでしか言えない。ただ街の東側には針葉樹とおぼしき森が広がっていて、だいぶ寒冷な気候なのだろうとは推察できた。
「今わかるのはこれくらいか……」
次はこの屋敷を出て、街を回ってみよう。問題は言葉が通じるかどうかだが、さっきのメイドの言っていることも理解できたし、問題はないだろう。これはおそらく、この身体の持ち主である少女の記憶のおかげかもしれない。
この身体の持ち主。そこでようやく、わたしはそのことに思い至った。今のわたしには、この少女の記憶はまったくない。この子にだって、今日まで生きてきた十三年だか十四年だかの人生があったはずなのに。
「わたしがそれを、乗っ取ってしまったということ……?」
では、その彼女はどこへ行ってしまったのか。この身体の内側で眠りについてでもいるのか。あるいはこの身体を抜け出して、魂だけになって漂っているか、別の体を得たりしているのか。
そうしてふと、わたしは足元に目を落とした。そこからずっと下に見える地面に。塔の高さはざっと二〜三十メートルといったところで、落ちたらまず間違いなく死ぬ高さだった。
もしこの身体で、もう一度死んだらわたしはどうなるのだろう。今度こそ本当に終わりなのか。あるいはまた魂となって彷徨い、別の身体を得ることになるのか。
もしかしたら、次は日本の誰かの身体に。そうすれば、わたしはわたしに何が起きたのかを調べることができる。あの男がどうしてわたしを撃ったのか。最後に聞いた言葉からして、あの男も誰かにそれを命じられただけのようだ。ならいったい誰がわたしを殺せと命じたのか。それを。
「お嬢さま、おやめください!!!」
そのとき、背後から悲鳴にも似た声が聞こえた。振り返ると、さっきのメイドが血相を変えて望楼まで駆け上がってきたのが見えた。きっとわたしが腰壁の上に立っているのが向こうからも見えたのだろう。ここから飛び降りるとでも思われたのか。
彼女にも、尋ねたいことはたくさんある。あまり心配をかけるものではないか。そう思って、下に降りようとする。しかしその足がもつれて、ぐらりとバランスを崩してしまう。
「いけなっ……」
落ちる、と思った刹那、目の前に手が伸びてきた。ぎりぎりで届いた、メイドの彼女の手だった。わたしはとっさにその手を掴み、倒れかけた身体を引き起こそうとする。しかしそれと同時に、足場にしていた腰壁の一部が崩れた。
「お嬢さまっ!」
そうして、わたしの身体は完全に中空にあった。辛うじてメイドの彼女の手は離さずにいたが、さすがにその細腕ではわたしを支えきることはできなかったようだ。次の瞬間には、わたしたちはふたりして宙に投げ出され、二、三十メートルはある地面へと落ちていった。
視界がぐるりと反転し、空に浮かんだ雲が右から左へと流れてゆく。その流れてゆく景色の中に、わたしの手を掴んだままの彼女の顔もあった。ああ、やってしまった。自分だけ落ちるのならともかく、よりにもよって彼女まで巻き込んでしまった。どうにか彼女だけでも、助ける方法はないものか。
時間の流れがやけにゆっくりとしていた。まるでスローモーションの映像でも見ているかのように。そのせいだろうか、わたしも奇妙に冷静だった。目の隅をかすめた中庭の広葉樹。せめてあの木がこの下に植えられていれば、枝葉がクッションになって落下の衝撃をいくらかは軽減させられるのに。そんなことを思ったとき、不意にあたりがまばゆい光に包まれた。
いったい何の光だ。そう訝る間もなく、背中に何かがぶつかるのを感じた。けれどそれは地面に叩きつけられたわけではなく、もっと柔らかなものだった。それはまるで、葉をいっぱいに繁らせた木の枝に抱き止められるかのような。
いや実際に、身体の周りでぱきぱきと無数の小枝が折れる音が聞こえ、そうしてようやく芝生の地面に叩きつけられた。それは思わず息が詰まる衝撃ではあったが、怪我をするほどのものではなかった。いったい何が起こったのか。わたしはわけがわからぬまま、ただ呆然と地に身を横たえていた。
その目に映っていたのは、うねりながら幾重にも枝を広げた巨木のシルエット。そして繁った葉の間からちらちらと漏れてくる陽光の欠片。しかしわたしが落ちた塔の下には、こんな木は植えられていなかったはず。
そう不思議に思っていると、巨木のシルエットがみるみるぼやけ、霧が風に散らされるように消えてゆく。周囲に散らばっている折れた小枝も、手に取ろうとするとまるで砂でできていたかのようにぽろぽろと崩れて消えていった。
「お嬢さま、お怪我は……お怪我はありませんか」
その声でようやく我に返り、一緒に落ちたはずのメイドを目で探した。どうやら彼女も無事だったようで、すでに身を起こして膝立ちになり、こちらへ近付こうとしていた。見たところ、大きな怪我もなさそうだ。
わたしはほっと息をつき、「……大丈夫」と答えた。すると彼女も、目に涙を浮かべながら満面の笑みを見せた。
「良かった……良かったです、お嬢さま」
「それより、これは何。いったい何が起きたの?」
わたしは風にかき消えようとしている頭上の木に手を伸ばし、尋ねた。それに対しても彼女は訝る様子もなく、いっぱいの笑みのまま答える。
「おめでとうございます。お嬢さまは、ついに覚醒されたのです」
「覚醒……何に?」
「何にって……もちろん、魔術にです!」
その答えを聞いても、わたしにはまだ何のことかわからないままだった。いったいこの子は何を言っているんだ?
「その身に未だ眠ったままだった、グレインディール公爵一族の魔導の血。それがついに、目覚められたのですよ。ああ、ヴァイオレットお嬢さま。ヴァイオレット・ディ・グレインディールさま!」
世界がまだぐるぐると回っている。興奮気味に話す彼女の声も、どんどん遠くなってゆく。魔術。公爵。グレインディール。本当に、何の話だっての。
わけがわからないまま、わたしの意識はぷつんと途切れた。