17
翌朝目が覚めると、陽はすっかり高かった。この部屋に時計はないが、おそらくは午前十時を過ぎているだろう。昨夜遅くまで兄に付き合わされたせいかとは思うが、ずいぶん軟弱になったものだと呆れた。この世界に来る前は、張り込みとなれば肌が荒れるのもお構いなしに二徹三徹もこなしたものだったが、それもこの身体では無理だろう。
「お目覚めになりましたでしょうか、お嬢さま」
部屋の気配を察してか、タイミングよくマリーが入ってきた。
「起きた。いつも通りの時間に起こしてくれてもよかったのに」
「それはいけません。お嬢さまは育ち盛りでございます。睡眠はちゃんとお取りになりませんと」
言われてみればその通りではある。この身体はあくまでも借り物、いずれヴァイオレット嬢に返さなければならないものだ。決して粗雑に扱っていいものではない。
「ではお嬢さま。朝食の前に、ご紹介したい者がおります」
「紹介?」
いったいどうしたのかと訝っていると、マリーはもうひとりのメイドを部屋に招き入れた。年の頃は今のわたしよりも少し上、十七か十八といったところか。痩せぎすで赤茶けた短髪。浅黒い肌は元からではなく、野良仕事などをして自然に日焼けしたためか。化粧では消しきれなかったそばかすがまだわずかに目立つが、顔立ちは整っており、もう少しあか抜けてくればマリーと並んでも見劣りしないだろうと思われた。
「今日から私とともに、お嬢さまのお世話をすることとなりましたアンジュでございます。どうぞ何なりと、ご用をお言いつけください」
新しい世話係、というわけか。でもどうしていきなり……と戸惑ったのも一瞬。すぐに思い至った。
「さあ、アンジュ。お嬢さまにご挨拶をしなさい」
「え……あー、えっと……お願いしまっす」
そのぞんざいな挨拶に、マリーの目がこれ以上ないほどに険悪に光る。わたしまでついでに背筋を伸ばしてしまうほどの迫力だった。
「いや、その、そんなコワい顔しなくても……ども、アンジュっす。どうぞよろしくおな、お願い、しあっす」
これ以上彼女に喋らせたらマリーが爆発しそうだったので、わたしは慌てて間に入る。その、なんで自分がこんなことをしなきゃならないんだと言わんばかりの態度に、ますます確信した。彼女が、ウォレンの言っていた連絡係だ。
「待って、マリー。彼女には何も言わないで」
わたしは今にも怒鳴りつけそうなマリーを手で制した。そしてベッドから降り、アンジュに歩み寄る。そうして半歩ほどの距離まで詰めてその顔を見上げながら、声を落として続けた。
「あなたも、わたしに対しては好きに振舞ってくれていいわ。無理に敬語なんて使わなくてもいい。だからわたしにも伝えることがあれば、すべて隠さず伝えて」
彼女はわたしの言葉に、戸惑ったように目をぱちくりさせた。それでも言いたいことは伝わったのか、「あ……ああ、そうさせてくれると、助かる」とだけ答える。
「でも、あなたが自分の役目を果たすためには、衛兵に怪しまれない程度にはきちんとメイドを務めなければならないはずよ。不服はあるだろうけど、マリーに付いて最低限のことは覚えてもらう。それはお願いね?」
「おう、それはわかってるっての……てます」
彼女はわたしの言葉にわずかに口を尖らせてそう答えた。だけどまあ、この子には何も喋らせないほうがよさそうだ。ひたすら無言で、マリーの傍から離れないようにしていてもらうことにしよう。
「それで……今日の予定はどうなってるっけ?」
「午前中はダンスのレッスンの予定でしたが、事情を説明して今日はお休みにしていただきました。そして午後から、騎士団調査隊のオハラ隊長他皆さまがいらっしゃいます」
昨日の今日で早速、剣の稽古に来てくれるというわけだ。彼らだって決して暇でもないだろうに、文句を言うわけにもいかない。とはいえ、昨夜の兄からの頼み事(という名の命令)を思い出して気が重くなる。せめてもう少し、心の準備をする時間が欲しかったところだ。
「わかったわ、マリー。それでまた、あなたの作業着を貸してもらっていいかしら。あれがいちばん動きやすいから」
彼女は小さく頷いて、「わかりました。昼食の後でご用意しておきます」と頭を下げた。
「それと……アンジュはその間、屋敷の中にいてくれるかしら。調査隊の中には、もしかしたらあなたの顔を知っている人もいるかもしれない」
彼らがどの程度ウォレン兄弟のメンバーを把握しているか、また彼女がグループの中でどのような存在であったかはわからない。それでも、慎重は期しておいたほうがいい。
「ああ……そうだな。わかった……っした」
アンジュも素直にそう同意した。彼女としても、騎士団の人間にはあまり会いたくはないのだろう。
午後一時五分前。オハラたち調査隊の面々は時間通りに公爵邸を訪ねてきた。わたしはいつでも稽古を始められるよう、作業着に着替えてそれを出迎える。
「何だか、お嬢さまのそのお姿も懐かしく思えてしまいますな」
オハラは会うなりそう言って笑った。確かに、彼と初めて会ったときもこの格好だった。そのせいか、わたしも彼らもつい肩の力が抜けてくだけた雰囲気になる。
その他の面々は、全体的に若い隊員が多かった。密かに会議をもてる場所を提供することもこの稽古の目的だったのだが、昨日の今日ではそうそう話し合うこともないのだろう。オハラ以外の主力は今も捜査に走り回っているわけだ。
「どうせなら公爵邸の広い中庭をお借りして、若い連中の稽古もさせていただこうかと思いましてね。よろしいですかな?」
「ええ、それは構わないわ。わたしも、みなさんが日頃どのような鍛錬をしているか興味があるし」
そういうわけで、まずは彼らがふたりひと組で打ち込みをするのを見学させてもらう。若いとはいえみな騎士団員だけあって、ウォーミングアップ代わりの打ち込みでもなかなかの迫力だった。
ただやはりこの世界の剣術は、構えも振りもわたしの知るものとはずいぶん違う。そのへんはまず見学させてもらえてよかった。いざ立ち合うなら、間合いも動きもそれに合わせたものにする必要がある。
最初の一時間は見学に徹して、それぞれの隊員の剣筋を観察させてもらった。残念ながらオハラ隊長は指導に専念していて、剣を振るうところは見せてもらえなかった。
そうしていったん休憩をとることとなり、わたしは隊長の傍らへと歩み寄っていった。勉強させてもらったお礼を言うためだ。
「興味深かったわ。騎士団の剣術は、統一された流派とかあるのかしら?」
「そうですね。やはりかつての軍の流れを汲んでいますから、その基礎のところはドロテオ流でしょうか。もちろん長い間に変質はしているのでしょうが」
ドロテオ流とは、かつての二百年戦争で名を馳せた剣聖ドロテオを祖とした剣術だと歴史書で読んだ。細かな剣捌きよりも二の太刀を考えない強い一撃で一刀両断を狙う剣で、思想としてはわたしの世界の薩摩示現流に近いかもしれない。とはいえそんな剣をみなが使えば死人が増えるばかりなので、だいぶ現実に即した形にアレンジされているようだ。
「それで、捜査の方はどうなってるのかしら。ウォレン兄弟を追ってみるって言ってたわよね」
「ええまあ……ただ、少々手こずりそうではあります。もとよりわれわれ調査隊はあくまでも城壁内の治安を守るのが仕事ですからね。その外となると、街道警備隊の管轄です。なので奴らのアジトを追うとなると、彼らの協力を得る必要があります」
どうやら騎士団の中でも、そうした縄張り争いはあるらしい。それは以前の世界の警察も同じだった。
「その協力を渋られてるとか?」
「いえ、そういうわけでも……ウォレン兄弟は警備隊にとっても厄介な存在ですから。とはいえ彼らの本業はあくまで街道を行き交う荷馬車隊の警護ですから、私たちの捜査に割いてくれるリソースにも限りがあるわけで」
なるほど、そちらに割ける人員も少ない、けれどだからと言って、調査隊に自分たちの縄張り内で好きに動かれたら面子が潰れる。それで結局は、捜査も停滞せざるをえないわけか。
「ただ彼らの話では、連中はどうもこのところ鳴りを潜めているようでしてね。アジト周辺でもほとんど連中の姿がなく、マーカスの所在も掴めません」
そのマーカスには昨夜会った、などと言える空気ではなかった。なので心苦しくはあったが、知らないふりで探りを入れる。
「騎士団を警戒して地下に潜ってるとか?」
「どうでしょうね……あるいは、何か大きな事を起こすために準備をしているか。なのでひとまずはわれわれも、主力を城壁内に戻して警戒態勢を取っています。連中がすでに街中に潜んでいる可能性もありますから」
やはり調査隊の中心メンバーたちは、そのパトロールに忙しいのだろう。ここに来たのが若い隊員中心なのはそういうことだ。
「それと、ワッツ魔検士は大変だったわね。昨日お見舞いに行ったけど、大したことはなさそうでよかったわ」
「聞きました。わざわざおいでくださいましてありがとうございます」
「彼はまだ療養所に?」
「ええ、大事をとって少なくとも数日は。犯人もまだ挙げられていませんしね」
まあ、それも当然だろう。彼がなぜ襲われたのかも不明な以上、その方が安全でもある。兄が昨夜話していた勢力が本当に街中に潜んでいるのなら、魔紋を読み取れる彼の存在は邪魔だろう。それが狙われた理由である可能性もあるのだ。