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火の焚べられていない暖炉はどうやらダミーだったようで、兄が小声で詠唱するとゆっくりと動き、その下から地下へと続くという入り口が現れた。何でも戦争中からすでにあった隠し通路で、このまま城壁の外へと出られるとのことだ。利用するのも慣れたのもなのだろう、ウォレンは「じゃあな」と軽く言ってその中へと姿を消した。
そうしてふたりで部屋に残された。わたしもこのまま辞去したほうが良いのだろうとも考えたが、話はまだ終わってはいないのだろう。兄アルフォンスは暖炉を元に戻すと、腰を下ろすようにわたしに促した。
「ずいぶん遅い時間になってしまったが、もう少しいいかい、ビビ」
構わないと答えると、彼はドアの向こうで待っていたマリーを呼び寄せ、紅茶の用意を頼んだ。それを待ちながら、わたしは尋ねた。
「あの方のお話は、どこまで信用してよいのでしょうか?」
「まあ、油断ならない男であることは間違いないんでね。私もそうは信用していない。だが、公爵家が動かせる手駒は少ないからね」
それはわかってる。だから信用できない相手でも、現状としては頼らざるを得ない。しかしヤミ魔導師を送り込んでいるのは、おそらくはウォレン達とも敵対しているフィールズ一家だろう。前に、その幹部のひとりらしき男ががグレインディールでも目撃されていると聞いた。なら、少なくとも利害は一致している。
「ルヴァン商会での事件についてはどうでしょう。あの方は真実を話したと思われますか?」
そう尋ねながら、わたしは先ほどのウォレンとの会話を反芻する。出頭した男は真犯人ではない。あくまでも身代わりだが、だからと言って誰かを庇っているわけでもないとあの男は言った。
『そもそも殺されたゴードンは、俺が送り込んだ男だ。騎士団特別行李を使っての密入領を探らせるためにな。あんなことになっちまったことには、俺もさすがに心を痛めてる。タダで済ませるつもりはねぇよ』
ではなぜ身代わりの犯人なんて立てたのか。そんな必要はなかったのではないか。もちろんわたしはそう重ねて尋ねた。
『これは俺たちの面子の問題だ。仲間の仇は必ず取る。俺たちを舐め腐った落とし前は必ず付ける。誰にも邪魔はさせねぇ。もちろん騎士団にも、だ。身代わりを立てたのは、やつらが余計な茶々を入れてこないようにするためだ。とりあえずの体裁さえ整えば、早々に捜査も打ち切るだろうしな』
では、犯人はあなたたちもまだ突き止めていない?
『突き止めるさ、すぐに。フィールズのクソ野郎ども。ルヴァン商会。騎士団。その中にいるのは間違いない』
声に滲んだ怒りは真実味があり、とても演技には見えなかった。しかし相手は海千山千の強者だ。その言葉を額面通りに受け取っていいものか、わたしはまだ判断がつかずにいた。
「あの男に、こんな事件を起こす理由がないのは確かだけどね。まあ、百パーセント信用しなくてもいい。互いに利用し合う関係だが、油断はするべきではない。それも心得てるよ」
兄もあの男に対して、無条件の信頼を寄せているわけではないようだった。とはいえ、護衛もつけずにこの公爵邸までひとりでやって来た度胸は大したもので、その大胆さにはひとまずの敬意を返しておくべきか。
「それで、わたしがやるべきことはウォレンの連絡係を受け入れて、衛兵に気付かれないように連絡を取らせる。それだけでいいのですか?」
ただそれだけのことにしては、やけにやり方が仰々しかった。わたしの側付きにウォレンの手の者を紛れ込ませるくらい、わたしに黙って勝手にすることだってできたはずなのだ。もしかしたらそれはあくまでついでであり、本題はまだ他にあるのかもしれない。そう思えてならなかった。
「しばらく会わないうちに、ずいぶんと鋭くなったね。どうやら、よく学んでいるようだ」
案の定、アルフォンスは小さく笑ってそんなことを言った。そこへマリーが入ってきて、わたしには湯気の立った紅茶を、兄には新しく氷の入ったグラスを用意した。
「このグレインディールには、父上が心から信を置く者がもうひとりいる」
つまり、今回の事態に際して公爵家の力になってもらえるかもしれない相手ということだ。
「それは誰なのですか?」
「お前もよく知る人物だよ、ビビ。グレインディールの英雄、騎士団調査隊隊長のゲンナジー・オハラ氏だ」
その言葉に、あのいかついベテラン刑事然とした風貌が頭に蘇った。
「オハラ隊長ですか……確かに存じ上げていますが。グレインディールの英雄って?」
「パターソン修道院襲撃事件のことは覚えていないか。十年前のことだが……」
十年前といえば、このわたしの身体はまだ三、四歳だろう。覚えていないと答えても怪しまれることはなさそうだ。それに中途半端に最近のことのせいか、書庫で見た歴史書にも記されてはいないことだった。
「そうか、お前はまだ小さかったから無理もないな。当時はまだこの領内も治安が悪くてな、ふたつの大きな組織が幅を利かせていた。ひとつは今も健在の『ウォレン兄弟』、もうひとつが同じく軍人崩れの『ニミッツ連隊』だ。そんなある日、南西部の下町にあったパターソン修道院が襲われ、修道女たちが皆殺しにされた上、併設されていた孤児院から二十人の子供たちが連れ去られた」
下町、といえば聞こえはいくらかいいだろうが、要するに貧民街だ。今は住環境もだいぶ改善されたらしいが、それもごく最近のことで、以前はそう呼ぶべき酷いありさまだったと聞いた。
「襲撃したのは『ニミッツ連隊』だったそうだ。子供たちはおおかた、どこかの領地へと奴隷として売り捌くつもりだったのだろう。そうした奴隷を使役している領地は、この王国にもまだあるからな」
「それでどうなったのです。騎士団も当然、救出に乗り出したのですよね?」
「もちろんだ。だがその頃はまだ騎士団も結成されて間もなくてな。やつらは連隊と言いつつせいぜい百人程度の集団だったが、それでもみな元軍人、それもかつての精鋭揃いだった。そのニミッツ連帯相手に、多くの騎士団員たちも尻込みしていた。そこでやむなく、志願兵による決死隊が結成された。その指揮を執ったのが、まだ一介の騎士団員に過ぎなかったオハラ氏だった」
そうして子供たちは救い出されたというわけだ。そうでなければ、彼は今調査隊の隊長などという肩書きを持っていないだろう。
「もちろん、決死隊にも多くの犠牲は出たけれどね。オハラ氏自身も深手を負ったが、それでも彼ひとりで二十人以上を斬り伏せ、最終的には子供たちのうち十八人を救出した。頭目であったニミッツも討ち取って、『ニミッツ連隊』を壊滅させることもできた。父も大変喜んで、王国勲章と一代貴族位を与えようともしたようだけどね。でも彼はそれを固辞した。彼としては功績よりも、子供をふたり救えなかったことのほうが痛恨事だったようだ」
それもなんだか、あのオハラらしいと思った。自身の手柄を鼻にかけるより、届かなかったものの方に心を向ける。華々しい戦果の陰で、力及ばず失ったものを決して忘れない。そういう人物でなければ、あの人数を束ねる役目など務まらないのだろう。
「そのふたりの子供はどうなったのでしょう。あとで見つかったのであれば良いのですが」
「いや。すでにどこかへ奴隷として売られたあとで、未だに見つかってはいない。ふたりとも少女だったようでね。オハラ氏もおそらく、今も手を尽くして探し続けていることだろう」
少女、それにもし器量良しであったのなら、売り捌くルートが変わってくるというのも理解できることだった。まったく吐き気がするような話だが、彼女たちはもっとも金になると見込まれて、早々にどこかへと『出荷』されてしまったのだろう。おそらく相手は貴族かそれに匹敵する財力の持ち主で、そうした特殊な奴隷を所有していることは厳重に秘匿されているはず。行方を探ることはもはや困難と言わざるをえなかった。
「オハラ氏はその後騎士団調査隊の隊長に就任し、街の治安回復に尽力した。ニミッツ連隊の残党も残らず掃討され、ウォレン兄弟も城壁の外へと追いやった。今このグレインディールが平穏なのも、氏の功績が大きいだろう。領民たちも、氏と調査隊の面々には絶大の信頼を寄せているしね」
なるほど、それでグレインディールの英雄か。本人があの調子でまったくひけらかすことがないので、それほどの人物であるとは気付かなかった。
しかしその英雄に軽々しく剣の指南を乞うてしまったわたしってなんだ。図々しいやつだと呆れられはしなかっただろうか。ほんと、よく引き受けてもらえたものだ。
「それで、そのオハラ隊長にも状況を伝えるべきとお考えに?」
「ああ。とはいえ私は氏のことをよく知らなくてね。先日ここに挨拶に来たときに、初めて顔を合わせたくらいだ」
わたしの魔紋についての誓約をするために、公爵邸を訪ねてきたときのことだ。確かわたしに会う前に、兄たちにも正式に挨拶をしたと聞いていた。
「だから氏についてはお前の方が詳しいと思ってね。お前はどう思う、ビビ。オハラ氏は万が一公爵家と騎士団が対立したときにも、なお頼りにできる人物だと思うか?」
その懸念はもっともなものだった。オハラ隊長との付き合いはまだ長くはないが、部下たちからも敬愛される高潔な人物であることはすでにわかっている。けれど高潔であればなおさら、自身が属する騎士団への忠誠心も高いはずだ。
けれど彼はルヴァン商会の事件において、早急に終わらせようとする上層部の目を盗んで捜査を続けようとしている。それは組織の中にあっても、自分の信じる正義を貫こうという信念があってのことだろう。それならばたとえ今回のことで公爵家と騎士団が対立したとしても、組織のしがらみにとらわれることもないはずだ。
ただそんな人物だからこそ、下手に巻き込みたくないという思いもある。彼や調査隊のみなを、組織と正義の板挟みに悩ませたくはない。
「……正直、わかりません。わたしも、それほど長い付き合いというわけではありませんので」
「そうか……まあ、そうだろうな」
「はい。それにもしも公爵家がウォレンと協力関係にあると知れば、むしろ敵に回る可能性があります」
おそらくあのふたりは、決して混じり合わない水と油だ。それどころか下手に鉢合わせれば、その場で斬り合いが始まりかねない。
「別に手を組んでくれとは言わない。せめて一時的な休戦でもしてくれないものだろうか。わたしとしては、そう考えているのだが」
「もしかして、それをわたしに?」
「ああ。そうだな……一度、ふたりを交えての席を設けたい。オハラ氏から、その承諾を得てはくれないだろうか」
思わず「無理!」と口走りそうになるのを必死で堪えた。この兄は代理とはいえ、現在このグレインディールの領主でもある。ならばこれは公爵家の一員であるわたしへの命令にも等しかった。