-3
次に目を開いたとき、まず感じたのは眩むばかりの眩しさだった。思わず滲んだ涙を指で拭い、数度瞼をしばたかせたのち、ようやく周囲を観察する。そこは、まったく見覚えのない場所だった。
細かい模様がくまなく彫り込まれた天井板。装飾過多なかまぼこ型の窓。やけに高級そうな生地でできたカーテンは開け放たれていて、そこからさんさんと陽光が射し込んできている。
その光の中で、わたしはどうやらベッドに横たわっているようだった。ということは、ここは病院か。まあ酷い目には遭ったが、なんとかわたしは命を取り留めたということなのだろう。
しかしここは病院というにはいささか華美というか、仰々しいというか。まるでテーマパークのアトラクションみたいだ。昨今は病院も経営が大変で、こうでもしないと患者が集まらないのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、不意に声が聞こえた。
「お目覚めですか、お嬢さま」
お嬢さま、ね。確かにこのヘンテコな病室にはお似合いの呼称かもしれないが、いい加減婚期も逃しつつある二十九歳の女相手にお嬢さまもないもんだ。そういうプレイなのだとしても、さすがに相手は選んでほしい。
そうしてわたしを上から覗き込んできた顔を見て、わたしはとうとう笑ってしまった。話しかけていたのは井手だった。しかし頭にはやや茶色がかった赤毛のかつらを被って、その上メイド服まで着ている。そりゃあ女装でもしたら似合いそうだとは思っていたが、本当にやるとは。
「どうしましたか、お嬢さま?」
わたしは間近に迫った女装男の髪を掴み、引っ張ってみた。けれどずいぶんとしっかり固定しているようで、引っ張ったくらいではズレもしなかった。
それにしても、よくできたかつらだ。質感も滑らかで、きちんと手入れされているのがわかる。ただの余興にしては手が込んでいて、しかも想像していた以上に似合っているのがなんだかむかつく。
「何ですか、お嬢さま。寝惚けてらっしゃるのですか?」
井手は体を捻りながらわたしの手を逃れると、可愛らしく頬を膨れさせてみせる。
「お目覚めならばお髪を整えさせていただきますので、どうぞこちらへ。朝食の支度もできておりますよ」
朝食、と聞かされて急に空腹を覚えた。いったいどれくらい意識を失っていたのかわからないが、その間ずっと点滴だけだったなら腹も減るだろう。しかしこの病院では、怪我人を起こして食堂まで歩かせるのか。
そう思いながらも、ゆっくりと体を起こしてみた。痛みはなかった。腹回りを触ってみたが、感覚はちゃんとある。まだ麻酔が効いているというわけでもない。ではもう怪我は治っているということか。まともに腹を撃たれたはずなのに。わたしはいったい、どれだけの時間眠っていたというのか。
「お嬢さま?」
訝しげな声が聞こえた。それには答えず、とにかくベッドから降りてみることにする。けれど長い寝間着の裾に足が絡まって、思わずバランスを崩してしまう。
「おっ……と、とっ……」
堪えようとしたが、伸ばした手が空を切った。おかしい。わたしの手は、こんなに短かったっけ。
「……お嬢さま、危ないっ!」
目の隅に、驚いた井手がこちらに駆け寄ろうとするのが見えた。けれどそれも間に合わず、わたしはベッドから転がり落ちる。けれど床にも毛足の長いカーペットが敷かれていて、顔から床に突っ込む格好になってもさほどの痛みはなかった。
「大丈夫ですか、お嬢さま!」
肩に手をかけられ、上体を抱き起こされる。その手をやんわりと押し除けながら、「大丈夫」と首を振った。
「ちょっと足がもつれただけだから。それに……」
と言いかけたところで、正面にある大きな姿見が目に入った。まっすぐこちらに向けられたそれには、わたしが映っているはずだった。
けれど、そこにわたしはいなかった。いたのは十三、四歳と見える、長い金髪に青い眼の少女。カーペットの上に跪き、上体だけを起こした姿勢で、驚きに大きく目を見開いている。顔にかかった髪をかき上げようと片手を上げると、鏡の中の少女も同じように片手を上げる。
「あ、ああ……」
やがてその小さな唇が開き、ちょっと獣じみた悲鳴がこぼれ出してくる。それは確かにわたしの声だった。
「あああああああああああああああああぁ⁈!!!」
いったい何がどうなってるのかわからないまま、わたしは再びベッドに潜り込んでいた。さっきの井手によく似たメイドはいつの間にかいなくなっている。わたしが突然悲鳴を上げて卒倒したので、驚いて誰かを呼びに行ったのかもしれない。
あれからどのくらい経ったのか。わたしのようやく落ち着きを取り戻し、状況を理解しようと試みた。
まずは、わたしは誰か。わたしは能島紫、二十九歳。警視庁辰沼署捜査一課強行犯係に所属する刑事。階級は巡査長。独身。彼氏いない歴二十九年、とそれは別にいい。
最後に担当していた事件は、都内で起きた強盗殺人事件の捜査。被害者は足立区内に本社を置く運送会社の社長夫妻で、自宅で殺害されたのち多額の金品が持ち去られていた。
社長は地元の暴力団組織との間に金銭トラブルを抱えていて、その関係から組織の闇金融から多額の負債を負っている運送会社元社員が重要参考人として浮上した。そうして強行犯係はいよいよ大詰めと総力を挙げてこの事件の捜査にあたり、連日交替で元社員の張り込みを行っていた。
その途中で、わたしは。
顔を上げて、あらためて部屋を見渡した。天蓋付きのベッド。かまぼこ型の窓枠には華美な装飾が施され、金糸の刺繍が入ったカーテンが両側にまとめられている。鏡台やクローゼットなどの調度品もいずれもどこかヨーロッパ中世風のデザインで(バロック風、とか言うんだっけ?)、手間も金もかかっているのがわかる。急拵えの舞台装置なんかじゃない。
そうして意を決して、わたしはもう一度ベッドから降りた。そうしてさっきは目をそらした、大きな姿見の前に立つ。そこにはやはり、見たこともない少女が映っていた。今度は取り乱すことなく冷静に、その姿を観察する。
緩やかに波打ちながら腰のあたりまで伸びた金髪。抜けるように白くきめ細やかな肌。長い睫毛の間から覗く瞳は、わずかに緑がかった青。身長は百四十センチあるかないかといったところか。年齢はせいぜい十二歳から十四歳。少なくとも十代後半ではなさそうだ。
身に着けているのは白一色のネグリジェで、肌触りからしてシルクだろう。袖のところには目立ちはしないが手の込んだ刺繍が入っていて、これもまた高価なものであることがわかる。下手したらこれ一着で月給が飛ぶかもしれない。
そこでふと思い出して、わたしは胸のボタンを外し、肩を滑らせて寝間着を床に落とした。その下に着けていたのはショーツだけで、発達途上の少女の上半身が露わになる。まるで日の光を浴びたこともないような真っ白な肌。ようやく膨らみはじめたばかりといった小ぶりな乳房。その下の細いウェスト周りもやはりすべすべで、銃創はおろか治療の痕すら見当たらなかった。
やはり、この身体はわたしじゃない。わかっていたことではあるが、あらためてそれを確認した。ではこれはいったい何だ。何が起こっている。この少女はいったい誰だ。わたしはどうして、この見知らぬ少女になり替わっている。
『生まれ変わり』という言葉が頭に浮かんで、ありえないと首を振った。そんな馬鹿げたことは漫画やゲームの中だけのもので、実際に起こるはずがない。だがそうとしか考えられなかった。わたしはあのとき死んで、記憶を残したままこの少女の身体で新たに生を受けたとしか。
「わたしは……死んだ?」
考えてみればそうだ。あの至近距離から、何口径かは知らないが銃弾をまともに腹に撃ち込まれたのだ。内臓に治療不可能な損傷を受けていてもおかしくはない。
けれど、すぐにそれを事実として受け入れることはできなかった。そんな馬鹿な。そんなことがあるわけがない。これは夢だ。悪い夢だ。そんなことがあっていいわけがない。
わたしは依然として見知らぬ少女を映し続けている姿見を、固めた拳で殴りつけた。しかしこんな細腕では大きな鏡を割ることさえできず、ただ拳にじんじんとした痛みを残すだけだった。
痛みはある。ではこれはやはり夢ではないのか。いやそうとも限らない。夢の中の自分であれば、その夢の中で受けた衝撃を痛みとして認識することもあるのではないか。いや、でも……
「ありえない……こんなこと」
膝から力が抜けて、わたしはとうとうその場にうずくまった。そんな馬鹿な。どうしてわたしが。いったい誰が。そもそも今のわたしは誰だ。色々なことが頭の中を駆け巡って、もはや自分が何を考えているのかもわからなかった。