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「それで、ご説明頂けますか、お兄さま」
勧められた椅子に腰を下ろし、わたしは尋ねた。部屋の中にはぴりぴりと張り詰めた緊張感が漂っていたが、それでも表情を変えずにいられる程度には、わたしだって場数を踏んでいる。
「そうだろうな。お前も混乱しているだろう」
兄のアルフォンスはそう言って、手にしていたグラスを傾けた。兄とウォレンのグラスにはおそらく酒が注がれているのだろう。しかしわたしに出されたのは、レモンらしい果汁がわずかに混ざった冷水だった。どうやらこの世界でも、未成年に酒は振舞われないらしい。
「だが彼らと公爵家は長い付き合いだ。そもそもこのマーカスは、戦時中は父上の部下だった。グレインディール魔導大隊の盾として、また露払いとして剣を振るっていたのがウォレン剣士隊。マーカスはその隊長だった。父上と一緒に、数知れない戦場を駆け回ったと聞いている」
マーカス・ウォレンが戦争の英雄だったということは聞いていた。しかしその彼が、わたしの父になるグレインディール公爵とともに戦っていたとは初耳だ。その程度の記録すら、書庫には残っていなかったのだ。それはまるで、残したくない事実であったかのように。
「……昔の話だ」ウォレンは不機嫌そうにひと言だけつぶやいた。
確かに戦争は二十年も前に終わっているし、このわたしの体の持ち主であるヴァイオレット嬢が生まれるずっと前のことだ。目の前にいるアルフォンスだって同じか、生まれていたとしてもまだ幼かったことだろう。マーカスから見ればわたしたちなど、所詮は「戦争を知らない子供たち」だ。得意げに紹介されたくもなかろう。
「だか知っての通り戦争が終わると軍は解体されて、騎士団だけが軍事力として残された。もちろん軍から騎士団に移籍した者も多かったんだが、彼らのようにそれを拒む者もいたわけだ」
そのくらいは、書庫にあった数少ない資料で知っている。軍の解体は帝国との講和の条件だったとか。ただ王宮守護のために王都から離れなかった騎士団を、後方でよろしくやっていた臆病者の集団と蔑む軍人も少なくなく、そうした者たちは指揮下に入ることを拒んだという。前線で身体を張っていた猛者ほどそうだったともあった。
そうした者たちは当初こそ、不意に帝国が講和を破ったときに備えて各地で活動していたが、国からの支援もなければすぐに行き詰まり、生きるために街や街道で略奪をはたらく野盗になり下がった。ウォレン兄弟もフィールズ一家もそのクチだ。
おそらくグレインディール公爵も、彼らの堕落には心を痛めたことだろう。しかし軍の解体は王命であったし、彼らを公爵家で面倒見ようとすれば、今度は自分たちに疑いの目が向けられていただろう。命に背いて私兵を募り、王国に謀反を企んでいるのではないかと。
「でも、こうしてマーカスさまがここにいるということは、戦争のあとも公爵家とマーカス兄弟は、水面下で繋がりを保っていたということですね」
「ずっとってわけじゃあねえよ、お嬢さま。ごくごく、たまぁにだ」
たとえ数度であっても、公爵家の私兵を務めたことはあったということだ。それは十分に、繋がりを保ってきたと言えるだろう。
「お前もわかっているだろうが、われら公爵家に独自の武力はない。この屋敷を守る衛兵たちも、騎士団から派遣された者たちだ。それでも父上は王命を出来うる限り忠実に守り、私的な戦力は持とうとはしなかった。どうしても、避けようがないときを除いては」
「避けようがないとき?」
「ああ。二度だ。この二十年の間で二度だけ、父上はこの者たちの力を借りた。一度目はお前が生まれる前、二度目はまだ幼かった頃のことだ。何があったかは、お前が知る必要はないがな」
つまりその二度とも、事態が表沙汰になる前に鎮圧されたわけだ。何があったかは当事者たちだけが知っている。それ以外の者は知る必要がない。ならばわたしも、その二度については詮索するべきではないだろう。知る必要のないことを知ってもろくなことにならないし、知る必要が生じたなら自然と耳に入ってくるものだ。
ではなぜ、今わたしがそれを知らされたのか。つまりはこの三度目については、わたしが知る必要があるということだ。
「では、今何が起きているのかについてご説明いただけますか、お兄さま。こうしてこの方がここにいるということは、前二度と同じくらいに避けようがないことが起きているということなのでしょう?」
兄アルフォンスは「……ふむ」と唸るようにつぶやいて、しばし黙り込んだ。けれど決して答えを拒む様子はない。何からどのように説明すべきか、思案しているような間だった。それなら、答えを急かす必要はなかった。夜はまだ長い。
「俺から話したほうがいいかい、代理どのよ?」
「説明していただけるなら、誰からであろうとわたしは構いません」
ウォレンは「……だとよ」と肩をすくめ、体をわたしのほうへと向けた。
「さてお嬢さま。あんたはここグレインディールの領主さまが、禁制品の密輸に対しては特に厳しく取り締まっていることくらいは知っているな?」
それは知っている。わたしは黙って頷いた。
「ではその密輸される禁制品とは、主にどんなもんだかわかるか?」
「禁制品……というと」
そう問われて、しばし思案する。この世界ではどのようなものの売買が禁止されているのだろう。オハラたちからも、まだそういう話は聞かされていなかった。
わたしが前いた世界では、密輸といえば何と言っても拳銃と麻薬が多かった。しかしこの世界ではまだ拳銃など見たことはなく、麻薬なども存在するのかもわからない。ならば何が。
「やっぱり、武器でしょうか。剣とか弓とか」
「そういうものなら、この街にもある武具屋で扱っているぜ。まあ刃渡り三十センチ以上の剣を買うには、冒険者ギルドの許可証が必要だが」
やっぱり違ったか。そしてこの世界にもやっぱりあるんだ、冒険者ギルド。
「だがまあ、発想の方向はさほど間違っていない。ひと昔前まで、密輸品といえばまずスクロールだった」
「スクロール……?」
「ああ、見たことくらいはあるだろう。羊皮紙に方陣を刻んで魔力を込めたアレだ。そいつを開いて詠唱すれば、魔力を持たないやつでも一回こっきり、魔術を行使することができる」
なるほど、拳銃の代わりに、この世界には魔術があった。おそらくは剣よりも強力で、そして射程が長い攻撃手段だ。
「確かにそれも武器ですよね。方向は間違ってないとはそういうことですか」
「ああ。ただまあ公爵サマが何より嫌って厳しく取り締まっていたのは、ある付与術が刻まれたスクロールだ。そしてそれは、数ある闇スクロールの中でもダントツの人気を誇っていた代物でな」
「付与術ですか。いったいどうしてそんなものが人気に?」
付与術というのは、後衛の魔術師が前衛の剣士たちに施す支援魔術、いわゆるバフと呼ばれるものだった。一時的に筋力を底上げしたり、速度や命中率を上昇させたりする。確かに戦闘の際には有用なものなのだろうが、単体でそれほど人気になるものとも思えない。
「そいつは身体能力よりも精神に働く術だからだよ。恐怖心を消し去り高揚させ、視覚や聴覚を数倍に鋭敏にさせる。その一方で痛みは感じなくなり、術を施されたやつはえも言われぬ全能感と多幸感に満たされるとのことだ。術式の名はアルカロン。戦争中は、あちこちの前線で使われていたと聞いている」
「あー……」
それわたしの世界では白い粉でした。そう言いそうになったが、慌てて飲み込む。案の定、そういうものはこちらの世界にもあるらしかった。
「マーカスさまも戦争中は、やはりお使いになっていたのですか?」
「いや。俺の隊ではご法度にしていた。アレでイカれたやつは、敵と味方の区別もつかなくなるからな。隊の規律も乱れて戦争どころじゃなくなる。使ったやつがいたら、容赦なく除隊させたよ」
「父上の隊でもそうだったと言っていたよ。それでもアルカロンに溺れる者は後を絶たず、父上も心を痛めていたようだ。確かにいっときは恐怖を忘れるが、術が切れると反動が来るらしい。だから依存性も高く、常習者は常に幻覚や幻聴に悩まされる。その果てに、廃人となる者も少なくなかった」
そんな危険な魔術であっても、縋らずにはいられない兵士たちがいたということだ。戦争とはそういう過酷なものなのだろう。死の恐怖に耐えかねて、狂気に身を委ねてしまうほどに。
「戦争が終わり、それとともにアルカロンも王命で禁術と定められた。だが一度蔓延したものを根絶することは難しいものだ。今でもその快楽を求める者は絶えず、闇スクロールは高値で売買され続けている。このグレインディール領でも、たびたび出回ったものだ」
「でも先ほど、『ひと昔前まで』っておっしゃいましたね。今はもう違うのですか?」
「そこは父上が尽力されてな。スクロールというのは羊皮紙のような、獣の皮を用いたものでなければ魔力が定着しない。だから父上はそれらをまとめて禁制品とした。獣の皮はわずかではあるが生命力、つまりは魔力を残しているので魔術で探知できる。だから羊皮紙の持ち込みを即座に察知する結界の術式を数年がかりで編み上げ、領内に張り巡らせた。それによって、スクロールの密輸は根絶することができた」
以前書庫で読んだ本によれば、方陣に込められた魔力は外に漏出することはなく、それゆえ魔術で探知することはできないのだという。しかし羊皮紙に残存している魔力の漏出を止める方法はなく、それを探知する仕組みを作ればスクロールも探知できるということか。
「だがそれで密輸を止められたかってぇと、そんなことはなかったのよ。敵もさるものでな」
「と、言うと……?」
スクロールに必須である羊皮紙を禁じたのだから、密輸する側だって手詰まりのはずだ。それともまだ何か手があるというのだろうか。
「そこで最初の問題に戻るわけだ。今最も扱われている密輸品。答えはな、人間だよ」
「人間?」
「そう。スクロールを持ち込むことができなくなったら、今度は魔導師を密かに領内へ送り込みはじめたんだ。アルカロンの術式を使える、それも王国に登録されていないヤミ魔導師をな。このグレインディール領の城壁の内側に、そうした連中がすでに三十人以上潜り込んでいると見ている」
その言葉でまず思い浮かんだのは、騎士団調査隊の魔検士ワッツを襲ったという何者かのことだった。彼は現場に残った魔紋を調べれば、すぐに犯人はわかるはずと言っていた。しかしそれが、過去に記録がない魔導師による犯行だったとすれば。
「この王国の魔導師はみな国に登録されていて、魔紋も管理されている。私やお前の魔紋も公にはなっていないが、王宮にはすでに提出してある。だが、それですべての魔導師を把握できているかと言えば、そうでもないのが実情だ」
あとを受けて、兄はそう説明してきた。まだまだ、王国や騎士団が把握できていないヤミ魔導師は少なからずいるという。魔術に覚醒したことを隠している者。あるいは他国から潜入してきた者。経緯は様々だが、その多くはこのウォレンのところのようなならず者の集団に入り、魔術を悪事に利用してもいるらしい。
「まああまり詮索はナシにしてもらいてぇが、ウチにも何人かはいる。魔導師だけで一部隊作れるほどではないがね。そういう奴は、まあそこそこいるってことだ」
「その、アルカロンって魔術を行使できる者もいるのですか?」
「いない、とは言わんよ。だが使うことは厳しく禁じている。魔術としてでもスクロールでも、アルカロンを使った奴は即破門だ。ま、信じてくれとは言わんがな」
はたして、その言はどこまで信じられるか。しかしわたしが元いた世界でも、暴力団の大きな組織はほとんどが覚醒剤を禁じていた。使用することはもちろん、売買に手を染めることもだ。なぜならそれを商売にする者は、必ずと言っていいほど自身も商品に手を付けるからだ。そして薬に溺れれば、平気で親でも兄弟でも売るようになる。秩序は乱れ、組織は内側から壊れていく。このウォレンも、そうした恐ろしさは知っているだろう。