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話が途切れたところで、何の気なしに頭上を見上げてみる。今日もよく晴れて雲ひとつない空が広がっている。そういえば、こちらの世界に来てからあまり雨が降った記憶がない。
時刻も十時を回って、大きな店も営業をはじめた頃だ。街も賑わいを増し、そのざわめきが確かに伝わってくる。こんな裏道にもときおり荷車を引いた人夫が通りがかり、勢いよく走り去ってゆく。誰もみな愛想がよく、手を振れば笑顔を返してくれる。つい一昨日、あんな凄惨な事件が起こった場所とは思えないほど平和な光景だった。
「でもこうして屋敷の外まで出てみたけれど、案外魔術っておおっぴらには使われていないものなのね。ちょっと拍子抜けだわ」
「そうですね。でも目立たないだけで、便利に活用されているものですよ。たとえば今通りがかった荷車ですが、人夫の負担を減らすために弱い浮遊魔術をかけられていました。もしかしたら人夫自身にも、身体強化の魔術がかかっていたかもしれません」
なるほど、やたら重そうな荷車を引いていたにもかかわらず足取りが軽快だったのは、そうした補助があったからなのだろう。
「他にも建築や土木などの工事、あるいは炊事や洗濯などの家事にまで、あらゆるところで魔術は活用されています。お嬢さまも身の回りを注意深く見ていれば、あちこちでそれを見ることになるでしょう」
「うーん、そういうのじゃなくってね……」
もちろんそうしたことに魔術が使えれば便利なのだろう。でもせっかくこんなファンタジーな世界に来たのだから、もっと派手でスペクタクルなものを期待したいではないか。
「魔術というならもっとこう、炎とか氷とかでバーンってのを想像するんだけど」
「そんな危険な魔術を街中で行使されてはたまりませんよ」
ワッツはそう言って笑った。と言っても、こちらの無知を見下すような笑いではない。わたしが本来は滅多に屋敷の外に出られるような身ではないこともわかっているのだろう。
「そもそも魔術には特別な才能が必要で、行使できるのは全人口の一割ほどにすぎません。それに戦争が終わったため攻撃的な魔術は王国によって規制され、今では詠唱の文言も秘せられています。もちろん騎士団の魔導師たちには伝えられていますが、それも厳しく管理されていて外部に漏らすことは禁じられているんです」
「……なるほど」
なんだかわたしがいた世界の拳銃みたいだなと思った。わたしたち私服の捜査員が拳銃を携行するには面倒臭い手続きが必要で、発砲に際しても厳しい条件が課せられていた。弾丸の数まで念入りにチェックされ、紛失でもしようものならそれは大騒ぎになったものだ。
「ですから民間にいる魔導師はごくわずかで、行使できる魔術も初歩的な強化術や浮遊術程度のものです。それでも十分、日々の仕事や生活に役立っていますけどね」
「そう……でも、街外れのならず者には魔術を使う者もいると聞いたけど」
わたしがそう小耳に挟んだ話を口にすると、ワッツは憂鬱そうに表情を曇らせた。
「ええ……そのようですね。戦争が終結して軍が解体された際、攻撃的な魔術を習得していた魔導師はほとんどがそのまま騎士団に配属されましたが、中にはそれを拒んで野に下った者もいました。そうした魔導師たちはウォレン兄弟などのならず者集団に取り込まれ、手下たちに習得していた魔術を継承したとみられます」
「まあ、そういうこともあるわよね。管理しようとしたって、すべてを管理するのも難しいし」
「はい、残念なことですが。その他にも、攻撃性の高い魔術の詠唱文が闇で取引されることもあります。それも文言が不正確なものも多く、それを詠唱したことによる魔術の暴発事故も後を絶ちません。嘆かわしいことです」
そうしたところも、まんまわたしのいた世界での拳銃と同じだった。ところで魔術の詠唱って不正確だと暴発するのか。わたしの顕現魔術は元々不明な部分があるらしいので、わりと適当に詠唱していたのだが。まああの魔術の場合、暴発してもたかが知れてるのだろうが。
去り際に、もう一度倉庫の搬入口に回ってみた。この数日の営業停止分を取り戻すためか、荷車や作業員たちがめまぐるしく行き交っている。
そして注意して見ると、行き交う男たちの中には袖口から刺青が覗く者が多い。あれは以前に強制労働に送られたことがある者、つまりは前科者の徴だ。この商会が特にそうした者が多いのか、あるいはどこの商会も似たようなものなのか。あとでオハラにでも確認してみよう。
「やはり、もう一度現場を見せて欲しいとは言えそうにないですね」
ワッツが残念そうに言った。しかしたとえ見せてもらうことができたとしても、この様子ではすでに現場も片付けられていて、得られるものは何もないだろう。それがわかっていても、なぜだかその場から離れることができなかった。
「ヴァイオレットお嬢さま?」
怪訝な声でワッツが呼びかけてくる。しかしその声も何だか遠く聞こえる。
なぜだ。その疑問が頭の中をぐるぐると回っていた。なぜだ。なぜだ。
なぜ、この殺人現場は密室だったんだ?
傍にいるワッツも、隊長のオハラも、また騎士団調査隊の誰も彼も、そのことを気にしていない。密室であったことを今も気にしているのはわたしだけだ。
その理由は簡単だ。事件の第一発見者であるあの少年が人間離れした身軽さと柔軟さで、本来誰も通れるはずのない小窓を潜り抜けてしまったからだ。あの時点ですでにして、現場は完全な密室ではなくなってしまった。
さらには出頭してきた自称犯人が第二の鍵の存在を自供したことで、公式に現場は密室でもなんでもなかったことになった。だがそのふたつ(ひとつはまったくのイレギュラー、もうひとつは後付けでどうにでもなる工作)がなければ、あの現場は今でも完璧な密室だったはずなのだ。
だからこそ、この事件のキモはそこにある。わたしの刑事としての勘がそう言っている。結果的には無にされたのだとしても、犯人はこの事件を密室殺人事件に仕立て上げていたはずなのだ。それはなぜか。何が目的で。この現場が密室であったなら、いったいどういうことが起きる。
「……エドガー」
わたしが名を呼ぶと、彼はほっとしたように「何でしょう?」と笑みを浮かべた。しばらく黙りこんでしまったせいで、彼を不安にさせてしまったのかもしれない。
「ルヴァン商会の番頭さん……で、いいのかな。あのドニ・ルヴァンという人に面会できるよう、騎士団のほうで段取りしてもらえないかしら」
「はい……ルヴァン商会の、ですか?」
そう。この現場が密室のままであれば、唯一出入りができたのは鍵を持っている者だけだ。つまりあの年配の男に、まず疑いが向くはずだった。
「難しいかしら。もしダメだと言うなら、わたしはひとりで押しかけようかと思うんだけど」
「それは……まずいことになるでしょうね」
「……なら?」
ワッツは諦めたように肩を落とし、「……掛け合ってみます」とだけ答えた。うん、従順でよろしい。
騎士団の屯所に戻ると、オハラたち調査団の面々もちょうど帰ってきていた。聞くと、裏町の隠れ家に潜んでいた残党数人を捕縛して連行してきたところらしい。いずれも十六、七歳とみられる子供たちとのことで、これから彼らに対して残りの逃亡者、特に首謀者であるガルシアの行方について尋問を行うとのことだ。
「戻ったか、エドガー」
わたしたちに気付いたオハラが、顔を上げて言った。しかし彼の隣に立つわたしが目に入ると、また嫌そうに顔をしかめた。ここが彼らのホームグラウンドだということもあるのだろう、屋敷を訪ねて来たときよりも態度が露骨だった。
「で、どうしてまたお嬢さまがここにいらっしゃるんで?」
オハラの視線はまっすぐにわたしに向けられていた。けれど、ワッツは割って入るように口を挟む。
「ヴァイオレットお嬢さまは、ルヴァン商会の副会頭であるドニ・ルヴァン氏への聴取を行いたいとのことで、審問官にその許可を……」
「ルヴァン商会会頭の弟君に、聴取だと?」
先日ちらと見かけたルヴァン商会の副会頭(と、呼ぶらしい)は、会頭であるジルベール・ルヴァン氏の弟だということはここまでの道すがらに聞いた。彼に対しては調査隊からも事情聴取を行っていたらしいが、特にめぼしい話は聞き出せなかったとのことだ。
「いったい何が目的で。答えていただけますかな、お嬢さま」
オハラはわたしから目をそらすことなく、そう尋ねてきた。
「……先日の倉庫での殺人事件について」
「あれはすでに調査は終わっております。現在はすでに、審問官に預けられておりますので」
審問官とは、調査隊が捕らえた犯人を尋問して、刑を定める者たちのことだ。いわば検察と裁判所を兼ねるような役割で、騎士団と同じように王都から派遣されている。出頭してきたモローという男もすでにそちらへ送られており、速やかに犯人として刑が言い渡されるのだろう。
「それはあなたたちの都合でしょう。わたしは納得していない」
「納得していないと申されましても、そもそもお嬢さまには関係のないことです」
「関係はあります。わたしはこのグレインディール領を治める公爵家の一員です。この町で無実の者が罪に問われることも、真の罪人が大手を振って自由に歩き回ることも見過ごせません」
わたしもオハラの鋭い視線をまっすぐ受け止めて、一歩前に出た。白々しいことを言っているのは自分でもわかっている。確かに公爵家云々は口から出任せだ。
でも、それ以外は本心からの言葉だった。見え見えの身代わりをそのまま犯人として罪を着せたり、真犯人を野放しになどしない。そんなことを許してしまえば、まさしく警察の敗北だ。
「それにオハラ隊長、納得していないのはあなたも同じじゃなくって。だからエドガーに休暇を与えて、自由に行動させてる」
彼はわたしを睨みつけたまま、しばらく黙り込んでいた。視線を逸らしたら負け。そう思ってわたしも瞬きもせず睨み返す。
そうして長い沈黙ののち、オハラは根負けしたように目を閉じ、肩をすくめた。
「それで、ドニ・ルヴァンに何を尋くおつもりでしょうか」
「そうね……事件のこと。商会のこと。彼自身のこと。その他色々」
「もしかして、あの男が犯人だとでも思っていらっしゃる?」
「いえ……」
と、わたしは首を振る。それは確信があった。
「けれどあの事件の犯人は、あの番頭さんに罪を着せるつもりだった。なので、そうした心当たりはないかを確かめたい」
わたしの言葉に、オハラは目を見開いた。その表情でわかった。彼もおそらく、同じことを考えていたはずだ。
「ヴァイオレットお嬢さま……」彼はつぶやくような低い声で言った。「本当にあなたはいったい、何なのですか」
刑事だよ。そう言いたかったが黙っていた。ではどう答えれば、彼の心を決定的に動かせるのか。
考えあぐねているうちに、思案は突然の声に遮られた。
「お嬢さま、やはりこちらにいらっしゃいましたか」
弾かれたように振り返ると、そこにはマリーが立っていた。いつものメイド服に身を包み、いつもの穏やかな笑顔を浮かべて。けれどその笑顔が、今日はなぜだかずいぶんと恐ろしく見えた。