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どういうわけでか封印されていたらしい記憶も、一度思い出せば堰を切ったように蘇ってくる。そう、あのときも同じだった。かつてわたしも担当刑事のひとりとして捜査に参加した、千住桜木の殺人事件も。
自ら出頭し犯行を自供したのは、被害者がかつて属していた半グレグループのメンバーだった。動機はかつて彼らが行った幾つかの犯行の口封じとのこと。しかしそのために殺人を犯して自ら出頭するなど行動に辻褄が合っておらず、言いたいことだけ言ってあとは黙秘するという態度も奇妙で、誰かの身代わりであることを疑わずにはいられなかった。
とはいえ半グレとは暴力団のように硬く組織化されていない新たなタイプの犯罪集団で、それゆえにメンバーも流動的で捜査機関も実態を把握しきれていないことが多い。そのため裏取りは難航し、また自供を覆す証拠もなかなか見つけられずに、時ばかりが過ぎていった。
そうするうちに、唐突に捜査は打ち切られた。まだ動機の裏付けも、倉庫の鍵の入手ルートも解明していないのに。しかも捜査の過程で、グループの上部組織と見られる広域暴力団の関与も浮上してきていた。その矢先の打ち切り指示である。わたしたち強行犯係の面々も納得することができず、係長に食ってかかった。
「よくあることだ。飲み込め」
係長はそれだけ言って黙り込んだ。誰よりも彼こそが納得していないのは明らかに見て取れて、係の面々も言われる通りに憤りを飲み込むしかなかった。おそらくは、何らかの理由で上からストップがかかったのだ。署の上層部か、あるいは本庁か。
ただのチンピラ同士のいざこざに思えたこんな事件に、どうしてそんな圧力がかかるのか。まったく理解できなかった。しかしそんな謎もまた、解き明かすことはできそうになかった。
※
翌朝はマリーも仕事を抜けられなかったようで、前のようにひとりで部屋を出て中庭を走った。賊の残党狩りはまだ続いているらしく、屋敷の警備も依然として厳重だった。
それでもどんな厳しい警備にも死角はあるもので、目星をつけていた脱出ポイントのひとつは完全に無人となっていた。わたしはまた素早く脚立を顕現させ、塀を越えて外へ出る。何度も繰り返しているだけに、もうすっかり手馴れたものだった。
そうしてランニングを再開し、ペースを保ちながらルヴァン商会に向かった。殺人現場となった倉庫には、朝から人の姿があった。けれどいたのはオハラの部下たちではなかった。おそらくは商会の従業員たちだろう。事件も解決したので、早くも営業を再開したのか。
これでは現場もすでに片付けられているだろう。もう一度見せてもらったところで、何も残ってはいないはずだ。わたしは小さく落胆のため息をついて、倉庫の裏手に向かった。するとそこには、見知った男がひとり立っていた。
「これは……ヴァイオレットお嬢さまでしょうか?」
ワッツ魔検士だった。今日はいつもの法衣姿ではなく、くすんだベージュのシャツに黒のスラックスという普通の服装である。そんな出で立ちではどこかの商家の下働きかと見間違いそうで、すぐに彼とは気付かなかった。
しかしそれはこちらも同じだろう。この姿で彼に会うのも、確か初めてだった。けれどわたしがこの作業着姿で出歩いていることは、オハラから聞いているはずだ。
「御機嫌よう、ワッツ魔導検査士。今日はお仕事じゃないのかしら」
「ええ、隊のみなは賊の残党狩りに出ていますが、私はそういうことには役に立てないので」
彼はそう苦笑して頭を掻いた。確かにその体格は華奢で、荒事には向かないだろう。けれど賊が魔術を使って身を隠している可能性だってあるかもしれず、その場合は彼の能力が必要にもなろうに。
「それと、私のことは気軽にエドガーとお呼びください。あるいはエディとでも。まだまだ駆け出しで、一人前に魔検士を名乗れる立場でもないので」
「わかったわ、エドガー。わたしのこともビビでいいわよ」
ヴァイオレットの愛称は『ビビ』だったはずだ。きっとこの身体の本来の持ち主であるヴァイオレット嬢も、親しい友人や家族からはそう呼ばれているだろう。
「いえ……さすがにそういうわけには」
「そう、残念。あんまりかしこまられても、落ち着かないのよね。オハラ隊長だって、平気でクソガキとか言ってくれてたときのほうが接しやすかったわ」
彼はどう答えたものかと迷うように「ははは……」と笑い、話題を変えてきた。
「ところで、お嬢さまはこちらで何を?」
そう訊かれて、こちらも困った。今更ここにきてみても、何もできることもないだろうとわかっていたからだ。それでも、来ずにはいられなかった。
「たぶん、あなたと同じ理由だと思うけど」
けれどその返事で彼も納得したのか、「……そうですか」と頷いた。それで、わたしもやはりかと察する。オハラもそのために彼を捜索から外したのだ。
「あの事件、まだ納得していないのね」
「それはお嬢さまも同じでしょう。きっと隊のみんなも……隊長だって同じです」
その言葉には、わたしもわかってると伝えるように頷き返す。すると彼は少しほっとしたように表情を崩し、目を倉庫の裏手に向けた。
「それで、ここで何か見つかった?」
「いえ、特には何も。少なくとも、このあたりで最近大きな魔術が使われた痕跡はありません。路面にはいくつか魔紋が残っていますが、事件とは無関係でしょう」
「あの小窓のあたりにも?」
わたしはあの少年が出入りした例の小窓を指差した。いちおう清掃はしたのだろうが、彼が通った際に付着した血液がまだわずかに残っている。
ワッツはその真下に移動して、目を細めながら小窓のあたりを凝視する。眉間に深く皺を寄せ、まるで痛みに耐えるかのような表情だ。
「どうでしょう……何もないようですが」
「そう。やっぱりね」
つまりあの少年の超人的な身のこなしは魔術でも何でもなく、純粋に身体能力ということだ。もちろんだからと言って誰にでもできるはずもなく、犯人も同じことをしたとは考えられない。
「それより私は、この石畳の方が気になりますかね。ところどころ、妙に荒れています」
言われてみれば、その通りではあった。しかしこんな裏通りであれば、手入れが行き届かないのも無理はないだろう。土や砂利でなく石畳を敷いてあるだけ上等というものだ。
と、素直に思ったことを口にすると、ワッツも不満げながら頷いた。
「まあ、そうなのでしょうがね。でもこれは、荷車が行き交って自然に荒れたようにも見えなかったもので。まるで誰かが、ナイフみたいなもので傷つけたかのような……」
「確かに……何かの模様みたいにも見えるけど」
とはいえ、何か意味があるようにも思えない。模様のように見えるのもたまたまだろう。
「まあ、悪ガキが落書きしたのを消した跡かもしれませんね。最近多いんですよ、街中でくだらない悪戯するやつらが」
「そういえばそうね。わたしも他の場所で同じようなのを見かけたわ」
どこの世界にも、そうした悪さをする者はいるものだ。あれは何の意味がある行動なのだろう。犬の小便みたいに、自分たちのテリトリーを示すマーキングみたいなものだろうか。
とはいえそれも、今は事件と関係ありそうになかった。わたしは小さくため息をついて、近くに積まれていた丸太の上に腰を下ろした。番線で何箇所も固定されているので、座ったところで崩れはしないだろう。
何かせずにはいられなくて、とりあえずここに来てはみたものの、案の定収穫はなさそうだった。それも仕方ない。
「ところで、被害者が犯人の言う通り『ウォレン兄弟』とかいうグループのメンバーだったことは確認取れたの?」
わたしがそう話題を変えると、ワッツは戸惑うようにこちらに顔を向け、目を瞬かせた。
「もし言えないことなら言わなくてもいいけど」
「あ……いえ。それはどうせ騎士団のほうから発表することですので」
彼はそう頷いて、わたしの問いに答えてきた。
「それはどうやら間違いないようです。被害者の名前はアレクシス・ゴードン。腕には前科を示す刺青がありました。調べてみると、八年前に荷馬車強盗の罪で捕らえられ、四年の強制労働を課せられた記録があります。同時に捕らえられた者たちも『ウォレン兄弟』のメンバーたちでした」
「なるほど……で、その『ウォレン兄弟』ってグループはどんなやつらなの?」
「この町の城壁の外、北の山の中に根城を築いてるならず者の集団です。元は食い詰めた軍人崩れの集団でしたが、その後は近隣の町や村から追い出された前科者などを取り込んで、今では五十人を超える集団になっているとも聞きます。傘下のグループも加えるとその倍にもなるとか」
どうやらなかなか大規模な犯罪集団のようだ。街の外ではそんな連中が闊歩しているのでは、そりゃあしっかりとした城壁も必要だろう。
「それで、出頭してきた犯人……モローとかいう名前だったっけ。そいつはどんな男だったの。やっぱり元軍人だったり?」
「いえ。私ともたいして歳の違わない若い男でした。昨日隊長も言っていた通り、『ウォレン兄弟』に入ってまだ二年も経っていない下っ端のようです」
「やっぱりどう考えても身代わりじゃない……それか使い捨ての鉄砲玉か。それであちらの幹部は偉そうにふんぞり返ったまんまってわけ?」
本当に腹が立つ。しかし銃もなさそうなこの世界の人間に『鉄砲玉』なんて言っても通じないか。しかしワッツはその言葉に突っ込むことはなく、悔しげに「……はい」と頷くだけだった。
「それを覆すだけの材料がなくては、上を説得することもできません。とはいえ、肝心の現場も片付けられてしまっては……」
まあ、確かにそれは残念である。しかし現場検証は念入りにしていたようだし、今さら新しい材料も出ないだろう。血液や遺伝子の検査もできないのではなおさらだ。ならば、また別の視点から攻めればいい。
「オハラ隊長たちは、この前の賊の残党捜しに戻ったのよね?」
「はい。と言っても逃亡中なのはごく数名で、主犯格はほぼ確保しているようですけどね。犯人グループの全貌もあらかた見えてきているようで」
「そいつらの件が、この殺人事件とも絡んでるってことはないの?」
ワッツが弾かれたようにわたしに目を向けた。その目は心底意外そうで、そんなことは考えてもいなかったようだった。
「その、この前モルガン商会に押し入った賊ってどんなグループだったの?」
「貧民街でたむろしている十代の少年たちで構成されたグループだそうです。リーダーはガルシアという名の十九歳の男で、これまでにも二度、暴力沙汰で短い強制労働を経験している札付きだとか」
いかにもな街の不良グループというわけか。しかし今回彼らが起こした事件は、そうしたよくある暴力事件とは性質が違う。
「そんなグループが、どうしていきなり商会の倉庫なんて襲撃したのかしら。そんなところを襲っても、盗品を売り捌くルートがなければ無駄骨かもしれないのに」
それに、捕縛を逃れた残党が何日も逃げ続けていられるのも奇妙だ。背後に彼らの逃走を組織的に援けている存在があるのは明らかだ。
「まだ確かなことは言えませんが、ボールドウィン領を根城にしている大きな組織が背後にいるとも見られています。数ヶ月前から、怪しい男の目撃情報がたびたび寄せられていまして、中には各地で手配されているヴォロヴィッツという男に関するものもありました」
「何者なの、そいつは?」
「ボールドウィン領で最大の勢力を誇っている『フィールズ一家』の幹部です。やつはボールドウィン領だけでなく、各地で強盗や騒乱を起こしている凶悪犯で、目撃情報が入ったときは調査隊も色めき立ったものでした。しかしなかなか尻尾がつかめず……しかし彼らがガルシアたちの背後にいるなら、色々と辻褄は合います」
ワッツはそこまで続けたところで、また小さくため息をついて首を振った。
「とはいえ『フィールズ一家』がこの事件にまで絡んでいるとは思えません。『ウォレン兄弟』はむしろ、外から来るそうした連中を目の敵にしていますからね。間違っても共闘なんてしないでしょう」
「共闘していたとは言ってないわ」
わたしはそう言って立ち上がった。
「対立していたからこその関わり方だってあるはずよ」
「と、言うと……」
彼はそう尋ねてきたが、それ以上は黙っていた。わたしだって、正直まだわからない。ただなんとなく、言葉にできない直感があっただけだ。
そしてオハラ隊長も、同じような直感から素直に賊の捜索に向かったのかもしれない。その先に、自分の求める答えがあると。