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翌日は大人しくマリーとともに中庭を走るだけにとどめて部屋に戻った。するとそこに、オハラが部下たちを連れて公爵邸を訪ねてきたという知らせがあった。現当主であるウィリアム公は職務で王都へ出向いているようで、代理として長兄のアルフォンス・ディ・グレインディール子爵がそれを迎えたという。
とはいえこの身体の父であるウィリアム公も、兄のアルフォンスもまだ顔を見たこともなかった。少なくともアルフォンスは同じ屋敷の中に住んでいるらしいのだが、これまで接する機会すらない。この世界の貴族がそういうものなのか、あるいはヴァイオレット嬢が疎まれ遠ざけられているのか。今のところはどちらなのかわからない。
まあわたしとしては見も知らぬ「兄弟」となんてどう話を合わせていいのかもわからないし、疎遠であるほうが都合はいい。でもこの身体の本来の持ち主であるヴァイオレット嬢のことを思うと複雑だ。勝手に身体を乗っ取ってしまっている負い目もあるし、彼女には幸せであってほしい。家族仲も良好であってほしい。わたしが彼女に身体を返し、無事元の世界に戻ったあともずっと。
「お嬢さま、それでは」
マリーがわたしを呼びに来たので、一緒に応接室に向かった。どうやらオハラと兄の会談は終わったらしい。
応接室に入ると、調査隊員たちは全員直立したまま、胸に手を当てて敬礼を送ってきた。
「そんな堅苦しい態度はやめてって。迷惑をかけているのはたぶん……わたしのほうなんだから」
わたしはそう言ったが、オハラは「そういうわけにもいきません」と険しい表情を崩さなかった。
席に着くと、彼はわたしの前に一枚の紙を差し出してきた。中央に大きく魔法陣のようなものが描かれ、その下にはびっしりとこの国の文字が連なっている。読めないこともないのだが、さすがにだいぶ形式ばった文章なのでつい時間がかかってしまう。
「こちらが、昨日おっしゃられていた誓約書です」
確かに、紙の冒頭にはそう書かれている。そういえば、マリーが昨日そんなことを口にしていた覚えがあった。
「ヴァイオレットお嬢さまのものと思われる魔紋の記録は、すべて破棄いたしました。記録を取った者も、覚えている一部であってもそれを漏らしはしないと誓約いたします」
そういったオハラに続いて、隣にいたワッツも「誓約いたします」と復唱する。
「かしこまりました」
脇に控えていたマリーがそう答えると、緑の法衣に身を包んだ年配の女性が進み出てきた。わたしの魔術の教師のひとりで、確か名前はエリーゼと名乗っていた。
「では、ここに誓約の儀を執り行います」
彼女は長く先の丸まった杖を振り、その先端を紙の魔法陣に置いた。そして詠唱をはじめる。
「獣の舌に偽りはなく、人の舌にも偽りはなし。獣の爪に違えはなければ、人の指にもまた違えなかれ……」
その文言とともに、紙の上の魔法陣がぼうっと光りはじめる。その光はやがて強く、まばゆいばかりになってゆき。
「その偽り違えは正義の業火に灼かれ給え。誓約魔術!」
エリーゼが最後にそう強く唱え、杖の先端で机を叩いた。すると誓約書の紙はついに燃え上がり、一瞬にして灰となって散った。どうやら、儀式はそれで終わりのようだった。
「ここに誓約は成りました。あなたがたがもし誓約を違え、機密を外に漏らしたときは、あなたがたの喉も指も焼かれることとなります」
「重々わかっております」オハラはきっぱりとそう頷いた。ただしワッツのほうはそこまで腹が据わっていなかったようで、焼かれると聞いた自分の指を覆い隠すように手を組んでさすっていた。
誓約といってもせいぜい文書を交わす程度と思っていたが、この世界ではそれでは済まないようだった。自分の軽率な行動ひとつでここまで大袈裟なことになるとは。今後は魔術を使う際には十分気を付けようと思い直す。
「どうもみなさん、わたしのせいで申し訳ありませんでした」
素直にそう頭を下げると、オハラの部下たちは恐縮したように首を振る。オハラだけが無言で、「そうだぞ反省しろ」とでも言いたげな視線を返してきた。なるほど、大人だ。
ただまあ反省は反省として、気になっていたことは聞いておこうと思う。
「それで、事件のことですけど……あれからどうなりましたか?」
犯人が出頭してきたとの知らせを受けて、オハラは急いで屯所に戻って行った。わたしもワッツの前で魔術を使って魔紋を提出したのち、すぐに現場をあとにせざるを得なかった。それからのことは、まだ何も知らされてはいない。
「どうも何も、事件はこれで解決です。あとはまあ、諸々の事務仕事を片付けるだけですね」
「解決……ですか。出頭してきたという人はどんな人だったんです?」
「街はずれで徒党を組んでいる『ウォレン兄弟』というグループの下っ端で、モローという男です。どうやら被害者とも顔見知りであったようで、動機は個人的な怨恨だと言っていますね。まあ、凶器らしい血で汚れたナイフも持っていましたし、とりあえずは信じるしかなさそうです」
「もしかして、被害者のゴードンという人もその『ウォレン兄弟』のメンバーだったりして?」
「モローはそう言っていますな。その裏取りは、現在騎士団の文書隊のほうで進めてもらっています」
文書隊というのは、騎士団の記録を管理する内勤の部署なのだという。そこは警察も同じ。実際に動く捜査員の活動は、そうした多くの裏方によって支えられているものだ。
「ルヴァン商会は、元ならず者と知らずに被害者を雇い入れていたってことかしら。大きな商会なら、人を雇う前に身辺調査くらいはしそうなものだけど」
「まあ、した上でのことかもしれませんね。ルヴァン商会は先の戦争で大きくなった商会です。戦後も騎士団へ武具や装備品も卸しており、つながりも深い。それもあって、強制労働明けの罪人や更生したならず者の受け入れもしてくれています。被害者もそうしたうちのひとりだったのかもしれません」
なるほど、そうした企業は元の世界にもあった。そんな受け入れ先は国としても有り難く、元受刑者を雇用してくれる企業を厚労省が助成金を出して支援していたりもしていた。ルヴァン商会もそんな雇用主だったのだろう。
「それでモローという男は、あの倉庫にはどうやって出入りしたと言っているの?」
「鍵は被害者が持っていたと話しています。倉庫に侵入する際には鍵は開いており、殺害後に奪って施錠して逃げたと」
「では出頭してきたとき、その鍵も?」
「いえ。倉庫を出たあと、運河に捨てたと」
「凶器は持参したのに、鍵だけ捨てたってこと⁈」わたしは思わず机を叩き、立ち上がった。「隊長さん、あなたそんな馬鹿な話を本気で信じてるの?」
つい声が大きくなってしまったわたしにつられてか、オハラも大声で怒鳴り返してきた。
「信じるしかねえだろうが、こうなっちまったらよぉっ!」
苛立ちがありありと滲み出たその声に、この人もまた少しも納得していないのがわかった。失礼を咎めようといきり立ったマリーを手で制し、わたしは深く息をついて座り直す。
「失礼しました、お嬢さま」
オハラはどこか白々しく頭を下げた。わたしは構わないと首を振る。むしろ、そうやって本音で話してくれたほうがよほどいい。
「こっちこそ、大きな声を出してごめんなさい。それで、犯人が持ってきたというナイフは間違いなく凶器だったの?」
わたしが気を取り直してそう尋ねると、彼は真意を窺うように片眉を上げた。
「それは、どういう意味でおっしゃっていますか?」
「だからそのナイフと被害者の傷の形状は一致したのかってことよ。それとナイフに付着していたという血液の型は?」
オハラの部下たちが、戸惑ったようにそれぞれ顔を見合わせる。何だ、わたしはまた何か変なことを言ったか?
「失礼いたします。血液の『型』とはいったい何でしょうか」
オハラもわずかに首を傾げながら、そう訊き返してくる。ふざけている様子でもない。つまりこの世界には、血液には型があるという知識がないのだ。
「ナイフに付着していた血が間違いなく被害者のものなのか。それを調べる方法はないのってことよ」
「わかりませんな。人の血なんて、誰のものも同じでしょうから」
どうやらこの世界ではまだそんな認識であるらしい。血液型すら知られていないのでは、DNA検査をはじめとする諸々の科学捜査も望めないだろう。
けれどそうは言ってもわたしだって、知識はあっても血液型の検査方法までは知らない。署の鑑識課員から説明を受けたことはあるが、それはせいぜい機器の操作方法くらいのものだ。だから彼らに人の血液には型があるということは説明できても、検査法を教えることはできないのだ。たとえわたしが魔術で検査機を顕現させても、それはただの鉄の塊でしかないのはこれまでの実験でわかっている。
「もちろん私どもも、出来すぎた話だとは思っています。しかし疑う材料がない以上は、自供を信じるしかないのです。騎士団の上の方からも、チンピラのいざこざなどさっさと片付けて盗賊どもを追え、と命じられておりますし」
その言葉に、彼の隣にいたワッツが驚いたように目を向けた。おそらく、言う必要もないひと言だったのだろう。つまり内心納得していないのに捜査を打ち切る一番の理由はそれなのだ。騎士団上層部からの圧力。