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フロントグラスの向こうには、墨で一面塗り潰したような闇が広がっている。目を凝らしてみてようやく家々の輪郭が浮かび上がってくるが、それとてぼんやりと曖昧だ。このあたりは古い町工場や集合住宅が並び、昼間はそれなりに騒々しい地域だが、今はすっかり眠りについている。
時刻はもうすぐ午前二時を回ろうとしていた。夜はまだまだ長い。あとたっぷり四時間は、この闇とにらめっこというわけだった。
「……井手」
わたしはスマホから顔を上げ、運転席から身を乗り出すような姿勢のままの相棒に声をかけた。
「何ですか、能島さん」と、井手万里生が答えてきた。「今のところ、何も動きはなさそうです。もう少し、休んでいてくれていいですよ」
「それは時間通り、きっちり休ませてもらうけど……」
わたしはスマホの画面に目を落としたまま続ける。
「あんたももう少し、肩の力を抜きな。そんな調子じゃ朝までもたないわよ」
「は、はい……それはわかってますけど」
そうは答えてくるが、まだ身が強張っているのが丸わかりだった。ハンドルにかじりつくような前のめりの姿勢で、闇の向こうの安アパートを凝視している。これが初めての張り込みでもあるまいに。
わたしは彼の肩を掴むと、ぐいと引いて背中をシートに凭れさせた。
「そんな風に一点を凝視しない。かえって何も見えなくなるわ」
「え……でも、それじゃ何か見落としが」
「それはマル対(監視対象者)が動き出してからのことよ。それまではリラックスして視界を広くもつこと」
こんなことは配属される前、警察学校で叩き込まれることだ。それとも、今は違うのだろうか。
「少し目を細めて、焦点をぼやかすくらいでいいの。それで視界全体から、違和感を感じ取るのよ。わかる?」
「はい……うまくできるかわかりませんが」
「なら練習しなさい。慣れればどうということもなくなるわ」
何事も、ひとつひとつ経験を積み重ねていくことだ。それに練習するなら、今夜はいい機会だ。どうせこの時間まで動きがなければ、マル対もぐっすり眠りこけているだろう。このまま朝まで、何事もなく過ぎそうだ。
井手は素直にわたしの言葉に従って、シートに身を沈めて目を眇めている。心なしかそれだけで緊張もいくらか緩んだようで、呼吸もゆっくりと落ち着いたものになってきていた。
わたしはそれでよしと頷いて、その横顔を斜に眺め見る。男にしては色白で、彫りが深く整った顔立ちをしている。どちらかといえば女顔で、腕や胴回りもまだまだ華奢なこともあって、いざとなれば女装もできそうだ。
ただ相棒としては、いささか頼りないとも言えた。今後もバディを組むことになるのであれば、折を見てみっちりしごいておく必要もありそうだ。
「ともかく、あまり気負いすぎないことね。それで胃をやられたやつが何人もいるって聞くわよ。もっとリラックスしなさい」
「はい……でもさすがに、能島さんはリラックスしすぎじゃないっすかね」
「わたしが。別に普通でしょ?」
「いえ……そりゃあみなさんそれぞれですけど、張り込み中にスマホで乙女ゲーやってる人は初めてっす」
また意外なことに驚かれたものだ。これでも音は切っているし、気が散るようなことでもないはずなのだが。
「人の気晴らしに文句をつけるな。あんたはあんたで、ストレスを散らす方法を見つけるといいわよ」
「ええ……はい。でも、大丈夫なんすか。夜なのに明るい画面なんか見ていて……」
そこまで聞いて、こいつが何を気にしているかがわかった。なるほど、これは警察学校で教えられることではないかもしれない。わたしも、実地で仕事をしながら気付いたことだ。
「……井手」
「はい、何で……うわぅ!」
わたしはひと声かけてやり、こちらを見たところで明るさを通常に戻したスマホの画面を向けてやる。井手は慌てて手で顔を覆い、ぱちくりと瞼を瞬かせた。
「あまり目を闇に慣らしすぎないこと。瞳孔が開ききってると、こんな風にスマホの画面程度で目を眩まされるわよ」
つまり、突発事態に対処できない。もしもマル対が本気で何か行動を起こそうとすれば、カメラのフラッシュでも使うだけでこちらを数秒間無力化できてしまう。
「あんたも定期的に自分のスマホでも見たりして、目を明るさにも慣らしておくといいわ」
「……わかりました」
井手は涙まで滲んだ目を瞬かせながら、また前を向いた。
「まあ、だとしても何で乙女ゲーっすか。そういうの好きなんすか。ちょっと意外っす」
「あんただってゲーム好きでしょう。そんな名前してるし」
「名前のことは言わないでください。これは両親の趣味っす」
適当に言ってみただけだったのだが、どうやらマリオという名前の由来は本当にゲームからだったらしい。
「もしかして、兄貴や弟がいたりする?」
もしも弟がいれば、そいつは類二とか付けられているのだろうか。それはそれで少し不憫ではある。
「幸いなことに、きょうだいは妹だけっすよ」
「妹の名前は?」
「……桃子っす」
予想通りといえばあまりにも予想通りだった。まああまりにあまりなキラキラネームをつけられなかっただけマシというか。
「聞いといて反応なしっすか。何か言ってくださいよ」
「……いや、可愛い名前で良かったね」
「嫌味っすか。じゃあ能島さんの紫って名前は何からとったんす?」
「ムラサキじゃないよ。確かに漢字で紫って書くけど、読みは『ゆかり』。相方の名前くらいきちんと覚えておきなさい」
井手は目は前に向けたまま、きょとんとした顔をする。
「なんで紫って書いて『ゆかり』なんすか?」
「あーやだやだ、最近の若い子はゆかりも知らないんだね。これがジェネレーションギャップってやつ?」
「ギャップって言うほど歳違わないはずっすけど……」
まあ確かにこの井手も二十五と聞いたし、こちらとは四つしか離れていない。だとしたらわたしだって、自分の名前にでもされてなければ知らなかったかも。しかし。
「そういう問題じゃないんだよ」
そう言って、わたしはスマホの画面をオフにした。そうしてリクライニングしていたシートを起こし、姿勢を正す。
「まだしばらく休んでてもいいっすよ。俺も大丈夫ですし」
「そうじゃない」わたしは声を落として答える。「マル対が動くよ」
井手ははっと息を飲んで、前方に向き直った。それでもまだどこか半信半疑といった表情で、安アパートの出入り口を注視している。しかしやがてそこから猫背の小男が姿を現わすと、ごくりと喉を鳴らしてハンドルを握り直した。
「こんな時間に、いったいどこへ……」
「さあね。それを探るのが仕事だ」
わたしはそう言って、シートベルトを外した。
「移動はおそらく車だろうね。駐車場へはわたしが行くから、あんたは出口に先回りして」
ここから大通りまでは一方通行である。とすれば、ルートはおのずと決まっていた。けれどマル対が確かに車に乗ったことを確認する必要もある。
「えっ、それなら俺が……」
そう言いかけた相棒に、わたしは「あんたにはまだ早い」とだけ答える。なるべくやんわりと。彼のプライドを傷付けるつもりはないことを伝えるためにも。
「こういうことは先輩の仕事だよ。任せなさい」
「……はい」
「エンジンはかけないようにね」
「わかってます。バッテリーはまだ満タンですから」
それは何より。ハイブリット車は張り込みに便利だ。上に掛け合って覆面パトを全台ハイブリッドに切り替えさせた先代の捜査一課長に感謝だった。
わたしは車を降りると、冷たくて少し湿った夜気を吸い込んだ。緊張はしていない。これまで何年も繰り返してきた、わたしの仕事だ。
「……能島さん」
すると背後から、また井手が声をかけてきた。何かと思って振り返ると、彼はどこか迷うように言葉を濁したあとで、「無理はしないでくださいね」とだけ続けた。
「わかってる。マル対の車を確認するだけだから」
わたしはそう笑顔を返し、歩き出した。足音は殺していたが、それでもつい早足になってしまう。
気を遣われている。それはわかっていた。わかっていても、不甲斐なさと苛立ちがこみ上げてくる。ついつい、足取りも早まる。
もちろん、誰も口には出さない。何事もなかったように、前と同じに遠慮なくこき使ってくれる。女であることなどお構いなしに、徹夜の張り込みも殺人現場の検証もねじ込んでくれる。
けれどかえって、それが同僚たちの気遣いであることを際立たせてしまう。わざと忙しくして、余計なことを考えずに済むようにしてくれているのだと。今回の井手のような新人の指導役も、本来はもっとベテランの役割であって、これもそんな気遣いのひとつだろう。もちろんそれはありがたいことではあるけれど、同時に不甲斐なさもこみ上げてきてしまうのだ。
「気になんかしてない……はずだったのに」
能島紫、二十九歳。警察学校を出て警視庁辰沼署に配属後、交通課と少年課を経て、念願の捜査一課強行犯係の一員となって四年。これまで順調な警察官人生を送ってきたはずだった。
それにはじめてケチがついたのは半年前。足立区大谷田の公務員宿舎近くの路上で起きた刺殺事件。深夜に背後からナイフでひと突きされて亡くなったのは、地元選出の都議会議員の秘書だった。
警察OBでもある件の議員は威勢の良い発言でタカ派の論客として知られていた。左翼過激派などからたびたび殺害予告もされていたことから政治的テロの可能性もあると判断した警視庁は、大規模な捜査態勢を敷いた。その合同捜査本部は現場のある辰沼署に設置され、わが強行犯係からも捜査員が派遣された。そして、そのうちのひとりがわたしだった。
世間の注目の集まる大事件。本庁や各所轄署から集まった、総勢百人を超す捜査員による合同捜査。いずれも初めての経験だったが、決して気後れもしていなかった。むしろ管内で起こった事件である以上、わたしたち辰沼署の力で事件を解決に導くのだと意気込んでいた。
確かに捜査は難航し、半年を経てもまだ犯人の目星はついていなかった。けれども、間違いなく進展はしていた。半年の捜査で左翼系過激派犯行の線は完全に消え、代わって都が計画している新規火葬場の用地取得をめぐるトラブルの線が浮上してきていた。とはいえそれで捜査態勢が縮小されることもなく、むしろ背後に広域指定暴力団の影もちらつきはじめたため、組織犯罪対策課からも捜査員が増員され、捜査本部はますます拡大していった。
その矢先であった。わたしが合同捜査本部から外されたのは。
ヘマをした覚えはなかった。いやむしろ、被害者と大手ゼネコン、そして火葬場予定地の地主との金銭トラブルを嗅ぎ付けたのはわたしたち辰沼署強行犯係の功績だったし、端緒となる証言を取ってきたのは他でもないわたしだ。
他にも現場周辺の地理に明るい強みを生かして、犯人の逃走経路を確定させる数々の目撃証言も集めてきていた。それらは捜査会議で何度も取り上げられ、わたしたち辰沼署は本部において無視できない存在感を放っていたはずだった。
それなのに、外された。代わって入ったのは同じ強行犯係の同僚で、辰沼署の負担が考慮されたわけではないこともそれでわかる。このとき人員の入れ替えがあったのはわたしひとりで、捜査態勢の再編というわけでもない。つまり、わたしだけが狙い撃ちで交代させられたのだ。
いったいなぜ。誰がこんな指示をした。それとなく係長に探りを入れてみても、まったく見当もつかないようだった。もちろん警察とは巨大な組織であり、歯車のひとつにすぎないわたしたちは理不尽も黙って飲み込まなければならないとわかっている。それでもどうしてわたしが、という疑問は胸の中で渦巻いていた。
それでもそうした疑問は押し隠し、わたしは日々の務めに戻った。所轄での捜査だって、警察官として大事な役目である。同僚たちも経緯を知っていながら、以前と変わらぬ調子でわたしに接してくれた。けれどもときおり、ふとした拍子にぎこちなさが顔を出す。
「そら、気を遣われるよなぁ……」
逆の立場であれば、わたしだってそうする。どんなに綺麗事を並べたところで、広域捜査の合同本部が所轄の刑事にとって晴れ舞台であることに変わりはない。誰もが憧れ、そこで成果を上げて本庁への階段を上ることを夢見ている。そこからいきなり外されれば凹むのが当たり前だ。
もちろん代わりに抜擢された同僚だって優秀で、もしかしたらわたしよりも先にチャンスが与えられるべき刑事かもしれなかった。だから不満を持つのも、もしかしたらおこがましいことなのかもしれない。けれどやはりこの交代のタイミングがどうにも不自然で、どうしてと疑問を覚えてしまうのだ。
とは言え……と、わたしは頭を切り替える。
「……今は、目の前の仕事に集中しないとね」
こればかりは、今どれだけ頭を悩ませたところで答えなど出ない。それにどんな事情があろうとも、目の前の仕事を疎かにしていい理由にもならない。
わたしは心を落ち着け、足音を殺しながら、マル対のアパートの斜向かいにあるはずの駐車場に向かった。むろん、マル対が所有している車はすでに判明している。しかし相手が確かにその車に乗り込んだか、確認はしないといけない。ことによっては何者かが他の車で待っていて、マル対を乗せることだってあり得るからだ。
駐車場の出入り口を窺える物陰に身を潜め、車が出てくるのを待つ。マル対の車は年季の入った軽ワゴンだが、別の車が出てきても助手席を覗き込める位置だ。しかし数分待っても、まったく動きはなかった。エンジンをかけた音も聞こえてこない。
まあ、今日だってここまで十時間近く待ってきたのだ。数分程度で焦れることもなかったが、何かマル対の身に異変でもあったならコトだ。
わたしは静かに物陰を出て、駐車場の奥まで覗き込める位置に移動する。軽ワゴンは確かに、奥の右側に駐められていた。ライトは点っていなかったが、運転席にはぼんやりと人影が見える。
さてどうする、と自問する。出発前に車内で一服でもしてるだけならいいが、何かの原因で意識でも失っているのだとしたら。資料ではマル対は糖尿病と肝硬変の病歴があった。また張り込みが付いていることはおそらく気付いており、そのストレスが身体を蝕んでいるであろうことも容易に想像できる。それが今、限界に達したとしても不思議はない。
どうする、どうする。すでにマル対が駐車場に入って十分が経った。運転席の人影は動かない。見ようによっては、背中を丸めてハンドルに突っ伏しているかのようにも見える。確かにここで出て行ってしまえば、長い張り込みも水の泡だ。しかしマル対にもしものことがあれば、捜査自体が大きく後退してしまう。
「……行くか」
逡巡ののち、わたしはそう決断した。一度井手の車に戻って、本部の指示を仰ぐことも考えたが、その時間が命取りになることだってあり得る。
同じように足音を殺しながら、駐車場へと入っていく。そうして軽ワゴンの運転席側へと回り込み、中を窺った。運転席の男は、やはりハンドルにもたれかかるようにして突っ伏していた。軽く窓を叩いてみたが、反応はない。
運転席のドアレバーに手をかけると、ロックもされていなかったようで簡単に開いた。わたしは男の肩に触れ、軽く揺すってみる。
「大丈夫ですか?」
肩に触れたとき、男がわずかに身体を震わせているのがわかった。もしかしたらまだ、意識はあるのかもしれない。
「聞こえますか。救急車をお呼びしたほうがよろしいですか?」
ドアを大開きにして、男のすぐ横まで身を寄せた。そこまで近付けば、苦しげな激しい息遣いもわかった。身体の震えも、見てわかるくらいまで大きくなっていた。
「もし……」
そしてそう言いかけたとき、男の腹の下で何かが爆ぜるように光った。わずかに遅れて、ぱんっという破裂音。何も感じなかった。ただ自分の身体が後方へと弾き飛ばされ、反対側の車に背中を叩きつけたのだけがわかった。
撃たれた、ということを理解するまで、しばしの時間がかかった。それでも視界が横倒しになり、脇腹からじわじわと広がりだした熱が、やがて耐え難いほどのものになるにつれ、自分の状況を把握した。とにかくまず、立ち上がらなくては。そうは思ったが、身体にまったく力が入らなかった。
「悪く思うなよ、悪く思うなよ、悪く思うな……」
ぶつぶつとそうつぶやき続ける声が聞こえた。
「仕方がなかったんだ。悪く思うなよ。こうでもしねぇと、女房も、ガキどもも……そのためには、こうするしかなかったんだ。仕方なかったんだよ……」
おそらくはマル対の声だろう。くぐもって聞き取れるかどうかわからないくらいのつぶやきだった。誰に言うでもなく、まるで自分への言い訳のように。
「仕方なかったんだ。だから……悪く思うなよ。俺だってこんなこと……」
それはどういうことだ。この男は何を言っている?
誰かに脅されて、命じられて。ただ闇雲に近付いてきた警官を撃ったわけじゃなく、わたしを狙って。
「こんなこと、したくてするわけないだろうが……仕方なかったんだよ。俺は悪くない……」
男が車から降りてきたのがわかった。それでもすぐにこの場を立ち去ろうとはしない。依然としてぶつぶつと誰に言うでもない繰り言を続けている。おそらくはわたしが死んだかどうか、確かめているのだろう。
細く開けたまぶたの間から、薄汚れた靴が見えた。落ち着かなげにその場で小刻みな足踏みをしている。わたしはその足に手を伸ばし、ようやく届いた指が安い生地のスラックスを掴んだ。
「どういう、こと……」
とても自分のものとは思えないかすれ声で、わたしは尋ねる。
「どうして……わたしを。誰が……?」
男がひいっと小さく叫んで、飛び退くように後ずさった。しかしその足をもつれさせ、二メートルほど離れたところに尻もちをつく。
「ち、ち、違うんだっ……仕方ないんだ。仕方なかったんだよっ!」
引きつった声で、男はさっきまでつぶやいていたのと同じ言葉を繰り返す。それはわかったっての。
「そんなことは、いい。答えなさい……誰なの」
あたりは暗く、視界もぼやけていたが、男がこちらにまだ銃口を向けているのが辛うじて見えた。しかしそんなことはどうでもいい。
「ひっ……ひ、ひひっ」
「言いなさいっ!」
「しかっ、仕方っ、なか……」
男はそれでも、まだ同じ文句を繰り返そうとした。しかしその繰り言は、再びの破裂音に遮られた。男の身体が弾かれたように仰け反り、やがて力なく倒れ伏す。
誰かがやって来たのだ。前の銃声を聞いて、井手が駆け付けてくれたのだろうか。しかし呼びかけてくる声も聞こえず、こちらに近づいてくる様子もない。
では、いったい誰が。とは思っても、もうそちらに目を向けることもできなかった。なぜだかひどく眠かった。先ほどまでの脇腹の熱さも、いつの間にか感じなくなっていた。
だめだ、まだ眠ってしまうわけには。
そうは思っても、どうやら抗えそうにもなかった。もう声を出すこともできない。何も見えない。眠い。
ぱん、という銃声がもう一度。ずいぶんと遠くから聞こえた。自分の身体が跳ねるように震えるのだけがわかった。痛みはなかった。もう何も感じない。
覚えているのは、そこまでだ。
※
次に気が付くと、やけにがらんと開けた場所にいた。見渡すかぎり何もない。いや、あたり一帯に白い霧か靄のようなものがかかっていて、見回しても何も見えないだけだった。
見えたのは、白い靄の中に立っている女の姿だけだった。顔は陰になっていてよく見えない。ただその口が動いていて、何か話しかけてきている。けれどよく聞き取れない。
わたしはその女に歩み寄ろうとした。いったい何がどうなっているのか。わたしは撃たれて、そのあとどうなったのか。とりあえず、この女に訊かなくてはならなかった。けれどいくら歩み寄っても、女との距離は近付かない。そもそも女が近くにいるのか、あるいははるか遠くにいるのかもわからない。変な感覚だった。
それと、女の姿には見覚えがあった。肩のあたりで切り揃えられたショートボブ。細身に仕立てたパンツスーツ。靴は動きやすく足音がしないよう、ランニング用のスニーカー。背は女にしては高く、ちょっとなで肩。ああ、あれは。
わたしだ。
そう気付いたとき、不意に耳元で声がした。
「頑張りなさい。ここから先は、あなた次第よ」
どういうこと、と尋ねようとすると、いきなり足元の感覚がなくなった。女の姿が視界からかき消え、世界が暗転する。落ちていく、落ちていく。ただどこまでも、闇の中を落ちていく。