第5章 あなたのために縫う色
壊されたドレスの裾をめくったとき、小さな紙片が滑り落ちた。
それは、薄い羊皮紙に「ベルナール」という名が書かれたメモだった。
屋敷に出入りする使用人の名ではない。けれど、エリスは覚えていた。
――アナスタシア邸の付き人。
以前、茶会に彼女が来たとき、控えの間で見かけた女性。
震える指先でメモを裏返すと、そこには短く記されていた。
《指示通り、袖と裾のみ。完全には壊していません》
エリスの胸に、鈍い痛みが走る。
“誰かの指示”。使用人が勝手にこんなことをするわけがない。
そして、その“誰か”は――もう分かっていた。
「……アナスタシアさま」
でも、怒りや憎しみよりも、胸に残ったのは別の感情だった。
(本当に、すべてを壊したかったのなら――彼女は、何も残さなかったはず)
むしろ“迷い”や“ためらい”があった痕跡。そんな、痛々しい優しさ。
エリスはしばらく目を閉じ、それから、そっと深呼吸した。
彼女の中で、赦すという決意が静かに芽生えていた。
ーーー
その夜、針を手に中庭へ向かった。
父の招きで、アナスタシアが舞踏会前夜にわざわざ子爵邸を訪れていた。
応接間の横をそっと抜けると、中庭の石段に白いドレスが揺れていた。
「……アナスタシアさま」
「エリス。話したいことが、あって」
月明かりに包まれたアナスタシアの目は、揺れている。
「壊したのは、私じゃない。でも、そうするように言ったのは――」
彼女は少し顔を背けた。
「嫉妬していたの。あなたに。自然体でいられるあなたに、憧れていたから。けれど、どうしようもない気持ちもあった」
風が、ドレスの裾をそっと揺らした。
「ごめんなさい。あなたの気持ちを壊してしまって。」
沈黙のあと、エリスはそっと息をついた。
「……着ていただけますか? 私のドレスを」
アナスタシアは目を細め、そして、微笑んだ。
「……ありがとう。忘れないわ、この気持ちを」
ーーーーー
そして迎えた舞踏会。
大広間。シャンデリアの光が煌めき、音楽と笑い声が溢れる。
アナスタシアがゆっくりと中央へ歩み出た。
彼女が纏うのは、エリスが心を込めて仕立てたドレス。
淡いラベンダーと繊細な刺繍やレースがアナスタシアの美しさと強さを表し、優しさで包んでいる。
「このドレスは、リヴィエール子爵令嬢・エリスが仕立てました」
会場は静まり返る。
「私は完璧でいることに縛られていた。でも、この服を着て、初めて“私”でいいと心から思えた」
胸の鼓動が高鳴る。エリスは舞台に一歩進んだ。
「はじめまして、エリス・リヴィエールです。
ずっと誰にも見えないようにしてきたけれど、
ドレスを縫っていると、自分でいられました」
一呼吸置く。
「この服を通じて、誰かが“自分らしくて大切”と思えるなら。
それが、私の願いです」
拍手が大きく広がる。温かく、包み込むような拍手。
舞台袖で、ミーナとレオンが微笑んでいる。
「本当によく言えたね、エリス」──レオンが静かに呟く。
「ミーナとレオンが支えてくれていたから、頑張れたよ。ありがとう。」──エリスはそっと答えた。