第1章 誰にも見つからない屋根裏の少女
この屋敷には、誰にも見つからずに一日を過ごすための技術がいくつかある。
廊下では壁沿いを歩き、階段は音のしない場所を選んで踏む。
使用人と鉢合わせそうになったら、花瓶の陰に隠れるのがコツだ。
十四歳の子爵令嬢、エリス・リヴィエールは、そのすべてを完璧に習得していた。
今日も屋敷の隅にある屋根裏部屋へと、気配を消して辿り着く。
がちゃり、と重たい扉をそっと開けて中へ。
埃っぽくて天井が低く、夏は蒸し風呂、冬は氷室。けれど、ここだけは彼女にとっての小さな王国だった。
机の上には、色とりどりの布、レース、リボン、針山に糸巻き。
エリスは椅子に腰を下ろすと、ゆっくりと針を手に取った。
チク、チク、チク。
針の音だけが、静かな屋根裏にやさしく響く。
「……今日のテーマは、“やさしい春風”かな」
小さく呟いて、淡いピンクの布を手に取る。袖は風をはらむように、裾には小さな白い花の刺繍を。誰に見られるわけでもないけれど、その想像を形にしていく時間だけは、心が穏やかになる気がした。
「これ、誰かに着てもらえたらいいのに。別に名前なんて出なくていいし、褒めてくれなくても……でももし、鏡の前で少しでも笑ってくれたなら――それだけで十分。」
ふと、部屋の外から物音がした。
気のせいではない。確かに、誰かの足音。
「……誰?」
この部屋に来る人なんて、いないはず。鍵も、父さえ知らない場所に隠してあるのに。
がちゃ――。
ドアが、開いた。
「うわっ……ごめん、えっと……間違えた。……エリス?」
現れたのは、背の高い少年だった。栗色の髪に青い瞳。やや気の抜けた声――レオン・ヴァレンタイン。父の友人の息子であり、エリスの婚約者でもある伯爵家の次男坊。
「あれ? 君って……ここにいたんだ。ていうか、それ、君が作ったの?」
彼の視線は、机の上の途中のドレスに釘付けになっていた。
エリスはとっさに布をかぶせようとして、糸巻きを手から滑らせた。
カランカランカラン!
「あっ、え、ごめん。そんなに驚かなくても……」
「な、なんで勝手に入ってくるのっ!」
「いや、ごめん。ミーナに“階段の上の部屋”って言われて……」
「ここは立ち入り禁止ですっ!」
必死で言い放ったが、声はうわずり、威厳にはほど遠かった。レオンは目を丸くして、すぐにふっと笑った。
「……でも、すごいな。これ、本当に君が作ったの?」
エリスは返事ができなかった。視線を伏せたまま、耳の先まで赤くなる。
「……なんか、君って前からしゃべらないよね」
レオンが、苦笑気味に言った。エリスは机の上の糸巻きを拾いながら、そっと目を逸らす。
「……必要なときだけ、話します」
「でもさ、昔、俺がここに来るたび、君って階段の陰に隠れてなかった?」
「……それ、覚えてなくていいです」
「うん。覚えてるけど、言わないフリしようと思ったんだけどなあ」
「してませんでした」
思わずぽつりと返すと、レオンは肩をすくめて笑った。なぜか――馬鹿にしているわけではない、その笑い方に少しだけ救われる気がした。
「でも、このドレス、ほんとに君が作ったんだよね。すごいよ。……あったかいっていうか、優しい」
「それは……生地の素材の話ですか?」
「いや、見てると、気持ちが落ち着くって意味。……うまく言えないけど」
「……言わなくていいです」
「でも、言いたいんだよ。君が作ったって思ったら、……なんか、嬉しくて」
エリスは、静かに針山に目を落とした。そのひとことが、なぜこんなにも胸に響くのか、分からなかった。
「……レオンさん」
「うん?」
「ここ、本当に立ち入り禁止なんです。なので、今後は遠慮してください」
「……ああ、うん。わかった。でも……」
レオンは、言葉を探すように一呼吸置いてから言った。
「それでも、また君の作った服、見たいと思ったんだ。ダメかな?」
エリスは返事をしなかった。でも、心のどこかで、小さな何かが動いた気がした。
彼が扉を閉めて去っていったあと、エリスはしばらくの間、針を手に取ることもなく、ただその場に座っていた。
誰かに“見られる”ことが、こわいはずだったのに――不思議と、その気配が少しだけ、心地よかった。
「……変な人」
ぽつりと呟いて、そっと微笑む。
机の上に戻ったドレスの袖が、ふわりと揺れた。誰もいないはずの部屋で、春風のように。
「続き、縫わなきゃ」
針を手に取りながら、エリスは思った。
“見られている”って、思っていたほど悪くないかもしれない。