表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/6

第1章 誰にも見つからない屋根裏の少女

この屋敷には、誰にも見つからずに一日を過ごすための技術がいくつかある。

 廊下では壁沿いを歩き、階段は音のしない場所を選んで踏む。

 使用人と鉢合わせそうになったら、花瓶の陰に隠れるのがコツだ。


 十四歳の子爵令嬢、エリス・リヴィエールは、そのすべてを完璧に習得していた。

 今日も屋敷の隅にある屋根裏部屋へと、気配を消して辿り着く。


 がちゃり、と重たい扉をそっと開けて中へ。

 埃っぽくて天井が低く、夏は蒸し風呂、冬は氷室。けれど、ここだけは彼女にとっての小さな王国だった。


 机の上には、色とりどりの布、レース、リボン、針山に糸巻き。

 エリスは椅子に腰を下ろすと、ゆっくりと針を手に取った。


 チク、チク、チク。

 針の音だけが、静かな屋根裏にやさしく響く。


「……今日のテーマは、“やさしい春風”かな」


 小さく呟いて、淡いピンクの布を手に取る。袖は風をはらむように、裾には小さな白い花の刺繍を。誰に見られるわけでもないけれど、その想像を形にしていく時間だけは、心が穏やかになる気がした。


「これ、誰かに着てもらえたらいいのに。別に名前なんて出なくていいし、褒めてくれなくても……でももし、鏡の前で少しでも笑ってくれたなら――それだけで十分。」


 ふと、部屋の外から物音がした。

 気のせいではない。確かに、誰かの足音。


「……誰?」


 この部屋に来る人なんて、いないはず。鍵も、父さえ知らない場所に隠してあるのに。


 がちゃ――。


 ドアが、開いた。


「うわっ……ごめん、えっと……間違えた。……エリス?」


 現れたのは、背の高い少年だった。栗色の髪に青い瞳。やや気の抜けた声――レオン・ヴァレンタイン。父の友人の息子であり、エリスの婚約者でもある伯爵家の次男坊。


「あれ? 君って……ここにいたんだ。ていうか、それ、君が作ったの?」


 彼の視線は、机の上の途中のドレスに釘付けになっていた。


 エリスはとっさに布をかぶせようとして、糸巻きを手から滑らせた。


 カランカランカラン!


「あっ、え、ごめん。そんなに驚かなくても……」


「な、なんで勝手に入ってくるのっ!」


「いや、ごめん。ミーナに“階段の上の部屋”って言われて……」


「ここは立ち入り禁止ですっ!」


 必死で言い放ったが、声はうわずり、威厳にはほど遠かった。レオンは目を丸くして、すぐにふっと笑った。


「……でも、すごいな。これ、本当に君が作ったの?」


 エリスは返事ができなかった。視線を伏せたまま、耳の先まで赤くなる。


「……なんか、君って前からしゃべらないよね」


 レオンが、苦笑気味に言った。エリスは机の上の糸巻きを拾いながら、そっと目を逸らす。


「……必要なときだけ、話します」


「でもさ、昔、俺がここに来るたび、君って階段の陰に隠れてなかった?」


「……それ、覚えてなくていいです」


「うん。覚えてるけど、言わないフリしようと思ったんだけどなあ」


「してませんでした」


 思わずぽつりと返すと、レオンは肩をすくめて笑った。なぜか――馬鹿にしているわけではない、その笑い方に少しだけ救われる気がした。


「でも、このドレス、ほんとに君が作ったんだよね。すごいよ。……あったかいっていうか、優しい」


「それは……生地の素材の話ですか?」


「いや、見てると、気持ちが落ち着くって意味。……うまく言えないけど」


「……言わなくていいです」


「でも、言いたいんだよ。君が作ったって思ったら、……なんか、嬉しくて」


 エリスは、静かに針山に目を落とした。そのひとことが、なぜこんなにも胸に響くのか、分からなかった。


「……レオンさん」


「うん?」


「ここ、本当に立ち入り禁止なんです。なので、今後は遠慮してください」


「……ああ、うん。わかった。でも……」


 レオンは、言葉を探すように一呼吸置いてから言った。


「それでも、また君の作った服、見たいと思ったんだ。ダメかな?」


 エリスは返事をしなかった。でも、心のどこかで、小さな何かが動いた気がした。


 彼が扉を閉めて去っていったあと、エリスはしばらくの間、針を手に取ることもなく、ただその場に座っていた。


 誰かに“見られる”ことが、こわいはずだったのに――不思議と、その気配が少しだけ、心地よかった。


「……変な人」

 ぽつりと呟いて、そっと微笑む。


 机の上に戻ったドレスの袖が、ふわりと揺れた。誰もいないはずの部屋で、春風のように。


「続き、縫わなきゃ」

 針を手に取りながら、エリスは思った。

 “見られている”って、思っていたほど悪くないかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ