月下香と契約の獣
『月下香と契約の獣』
Prologue ――ただ一度の命に、誓いを
神聖暦948年。
それは、世界がまだ剣と契約に縛られていた時代。
天は裂け、大地は喰われ、人は“零族”と呼ばれる災厄に喰われていた。
──風が哭いていた。
無数の死骸を踏みしめるたび、大地がきしむ。
焼け焦げた空は黒く、灰が雪のように舞っていた。
その中心で、私は立っていた。
剣を握る手が、寒さと緊張で微かに震える。
血と煤にまみれたその手は、まるで別人のもののように感じた。
「……あと、一撃」
唇が乾き、かすれた声が漏れた。
私の名はレイ・アシュヴェルド。
アスティリア王国に仕えし将軍にして、“大戦最後の盾”と呼ばれた女だ。
その視線の先にいたのは、“零族の王”と呼ばれる異形。
人の形を模しながらも、瞳は闇の底で赤く瞬き、漆黒の外套のような影が足元に広がっていた。
──何百、何千の命を奪ってきたのか。
その存在は、ただ立っているだけで空気を濁し、吐息一つで兵を死に至らしめる。
私の周囲には、もはや誰もいない。
さっきまで背後にいた部下たちは──皆、灰になった。
「……はぁ、はぁ……」
息が荒い。肺が焼けつくようだ。
それでも私は、前を向いた。
たとえ最後のひとりになろうとも──
この剣が、砕け散るまで。
「……はああああぁぁっ!」
私は、大地を蹴った。
身体が空を裂く。
風を切り裂く音とともに、宙を舞い、敵の頭上へ。
全ての重心を剣に込め、叫ぶ。
「我が名にかけて──!」
その瞬間だった。
すかっ
──かわされた。
あれほどの気迫で放った一撃を、まるで風でも避けるように。
しまった、次の動きが──
ザクリ。
「──ッ!!」
腹部に激痛が走る。
視界が滲み、膝が落ちた。
熱いものが、どくどくと流れる。
血だ。自分の血が、蒼い地面に落ちている。
「レイ様ぁあああああっ!!」
聞き覚えのある、部下の叫び声が遠くで響く。
それが幻か現実かもわからない。
──ああ、私は、死ぬのか。
それでも、私は剣を握ったまま、立ち上がる。
情けないほど、震えている脚。
血を吐きながらも、立ち上がる姿が滑稽だと分かっていても。
──それが、“私”だから。
「諦めて、たまるかぁあああああっ!!」
最後の叫びと共に、剣を振り上げる。
内臓が焼けつき、全身の骨が軋む。
それでも、力を込める。
全ての訓練、すべての誓い、すべての命を背負って。
この刃に、今までの“私のすべて”を込めて──
「うぉおおおおおおおおおおおっ!!」
ザクリ。
……そして、世界が、静かに沈黙した。
音が消えた。
痛みも、風も、熱も、何もかもが──
白に、染まった。
「……ふふ。まだ、終わりたくないか?」
静寂の中で、声がした。
深く、低く、どこか哀れみを含んだ声だった。
そこには、“ヒトのかたち”をした何かが立っていた。
黄金の眼。透き通るような手。風のように姿が揺らぐ。
「お前に与えよう。ただ一度だけ、過去を生き直す権利を」
私は、黙ってその存在を見つめていた。
その言葉が意味するものを、瞬時に理解できたからだ。
「だが条件がある。二度目の死は、完全なる“無”を意味する。
輪廻も、祈りも、救いもない。お前の魂は、永遠に消える」
私は、少し笑った。
今さら恐れることなどない。
私はもう、十分に死んだ。
それでも、あの仲間たちの笑顔が、私の胸に焼きついている。
あの誓いが、あの想いが、
私にこの一度の選択を与えてくれたのなら──
「……分かった。ならば、もう一度だけ、生きよう」
たとえ、私の命が消え去ろうとも。
誰かを守れる未来に、辿りつけるのなら。
「この命、ただ一度。すべてを変えるために」
第一章 ──再誕
──風が、温かかった。
まぶたの裏に射し込む光が、春を思わせるやわらかさだった。
その光に目を細めた瞬間、肌を撫でる風にふと違和感を覚える。
その違和感が、自分の中の何かをゆっくりと引きずり起こした。
そう、それは、夢などでは到底片づけられないほどの──記憶だった。
私は、確かに死んだのだ。
零族との最後の戦いで、腹を裂かれ、血を吐き、倒れ……それでも剣を握り締めた。
立ち上がり、最後の一撃を打ち込んだ、あの瞬間。
それが終わったはずのこの身が、いまこうして──生きている。
「……う……」
かすれた声が喉を震わせ、私はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
真っ白な天蓋の天井が目に映る。
見覚えのある、静かな空間。
清潔な木の香り、窓から射し込む朝の光。
──王都、アスティリア。東翼の将官宿舎。
まさしく、私が十六の頃に暮らしていた部屋。
将軍位を授かる前、すべてが始まった場所だった。
「……まさか」
あり得ない。
この場所に戻ることなど、あっていいはずがない。
私は間違いなく、神聖記九四八年、ヴァル・ナグラン戦線で命を落としたのだ。
肉が裂け、骨が砕け、血が砂塵に染まったその光景は、現実だった。
だが、私の身体には傷ひとつない。
熱はなく、喉も乾いていない。
ぬるい風が窓から吹き込んで、カーテンがやさしく揺れていた。
「……これは……現実……?」
夢だというには、あまりにも匂いが生々しい。
部屋の隅に置かれた薬草の壺、テーブルに散らばる白紙の命令文。
どれも、かつて私がここで過ごしていたままの風景。
だが一つだけ違ったものがある。
──鏡。
私は鏡の前へと歩き、そこに映った自分の姿を、ただ呆然と見つめた。
銀髪の少女。
その髪は背中まで滑らかに流れ、肌は戦場の焼け跡一つ知らない滑らかさだった。
目元の傷も、指の硬いタコも、すべて消えている。
「若い……。こんなに、細かったか……」
剣を握りしめた手ではない。
この手は、まだ戦場を知らぬ未熟なものだった。
そのとき、部屋の扉がそっとノックされた。
「レイ様……お目覚めでしょうか?」
私の胸が、跳ねた。
まさか、その声まで──戻ってくるとは思っていなかった。
「……セレス?」
戸を開けると、そこに立っていたのは、小柄な少女だった。
青銀の髪を編み込みにして結い上げ、灰色の瞳に真面目さとあどけなさが同居している。
小さな手にはタオルと水の入った盆を持ち、私を見て、微笑んだ。
「良かった……顔色が優れませんので、熱があるのではと心配しました」
「……いや、大丈夫だ。すまない、心配をかけた」
私はぎこちなく答えた。
この少女は──セレス・ミルティア。
私の従者であり、かつて命を賭して私を庇い、散った娘。
死しても忘れられなかった存在が、いま目の前に生きている。
「レイ様、少し熱っぽいお顔をしています。本当に大丈夫なのですか?」
「……ああ。ただ、少し、長い夢を見ていただけなんだ」
「夢……ですか?」
「──そう、悪い夢だ」
微笑みながらそう告げる声が、少しだけ震えた。
こみ上げる涙を、私はなんとか飲み込んだ。
ここはもう、過去ではない。
運命が与えた、“たった一度のやり直し”の世界。
だとすれば──
「……ありがとう、セレス。お前の顔を見られて、よかった」
「レ、レイ様?」
彼女が慌てて顔を赤らめる姿が、懐かしくて、愛おしくて。
私は思わず、頬を緩めた。
と、そのとき。
遠く、地の底から響くような、不協の音が耳をかすめた。
──ゴ……ゴォォォ……
地鳴り。
空気が変わった。
何かが、近づいている。
まだ確信は持てない。だが、胸が騒いでいる。
これはただの風ではない。
「……何か、来る」
私は窓辺に近づき、東の空を見やった。
そこには、まだ平穏の青空が広がっていた。
だが、その奥に、確かに何かが──潜んでいる。
これは、ただの“やり直し”ではない。
神が与えたのは、“選択の余地なき再誕”だ。
世界は再び、零族と対峙する。
私は、もう一度剣を取る。
そして今度こそ、すべてを護る。
命を、国を、誇りを──そして、彼を。
第一章、了。
はじめまして、または、こんにちは。
本作『月下香と契約の獣』を読んでくださりありがとうございます。
この物語は、「もう一度だけやり直せたら、あなたは何を守りますか?」という問いから生まれました。
過去に囚われた者が、それでも未来を変えようと足掻く姿。その中で出会い直す人々の温かさや、絶望の中で見つける小さな希望を描きたいと思いながら執筆しています。
プロローグから第一章までで、主人公レイの“過去”と“再誕”が描かれました。ここから先、レイが出会う新たな登場人物たち、獣との契約、そして失われた記憶の中にある「彼」との因縁が物語をさらに深くしていきます。
少しでもあなたの心を震わせられたなら、それが作者として一番の幸せです。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
──次章、「契約の獣」が目を覚まします。