幕間 あの頃
「近寄るなよ臭いんだよテメェ」
彼はとってもお調子者。
明るくて元気で、誰からも好かれてる、クラスの人気者的な存在。
あの日以来ずっと、罵声を浴び続けてきた。中心人物である彼の罵声が、クラスメート全体に波及するのに、さほど時間は掛からなかった。
いつしか日常になっていた。私を見るやいなやクラスメートは罵声を浴びせなきゃならない、彼等は義務を負ってる。
「臭いんだってなー初潮。ちゃんと風呂入らなきゃ駄目だぞ」
「勉強も出来ない運動も出来ない、お前死ねよ」
死ねなどと言ってはいけない、それを知ったのはインターネットに触れてから。教えてくれる人は誰もいなかった。同級生も先生も両親も。
おはようって挨拶するように軽蔑の視線が飛んできて。私がいかに無能なのか懇切丁寧に話してくれて。
虫酸が走るのを我慢するために、顔や身体を殴ったり蹴ったりして。青痣が気に入らないからもっと殴ったり蹴ったりして。肌がちゃんと肌色な部分を探すのは難しい。
当たり前だと感じていた日々が、普通の人にとって異常だと気付いたのは、両親が蒸発してから。
学校に行かなくても怒鳴られないし両親に殴られない。だからなんとなく不登校した。
その日は全く何にもない、ただご飯を食べて寝る、ボーっとしてるだけの1日を過ごした。
1週間くらい経ってここ最近、全然殴られてないことに気付いた。
私が消え、クラスメート達はどうストレス発散してるのだろう。
痣は少しずつ薄くなって、1ヶ月くらいでほぼ治った。
これが普通の人が過ごす日常なんだとようやく気付いた。
既に解いてる問題を何度も見返す、どうか死ぬまでそんな怠惰な生活を続けられますように。私は初めて神に祈った。
***
目が醒めた。
最悪の寝起き。とっても胸糞。サンドバッグがあるなら殴り潰したい気分。
当時の私は無知だった。殴られるのは自分が悪いからって思い込む方がマシ。あれが酷い環境とすら思わなかった。
さぞイジメる側にとって都合のいい子供だったろう。
黒歴史という言葉すら生ぬるい、とてつもなく忌まわしい記憶。
食糧は残ってたかな、切れてたらネットスーパーで注文しないとだけど。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。あれ、なにか注文してたっけ記憶無いんだけど。
外の様子を窺うと、30過ぎのイケメンっぽい男が緊張した面持ちで立ってた。
なんかキモい。チェーンが掛かってるのを確認してから、5センチほど扉を開ける。
「初めまして。僕は6年2組で担任やってた×××先生なんだけど」
君の担任で、明日は入学式があって、君は中学1年生になるんだ。的なコトを喋った。
言いたいのはそれだけ? これからゲームする予定あるんだけど。
「待ってくれ」
扉を閉めようとした私の手を掴んで離さない。
「話をしよう。僕は初潮さんの為を思って、ここまでやって来たんだ」
左手薬指には結婚指輪らしきリングが嵌っている。
ニコニコと誠実そうで真面目で頭良さそうで、失敗なんかしたことなくて、誰からも愛されて、きっと私みたいな屑とは正反対な存在。
「将来とか考えてさ、ちょっとだけ頑張ってみよう。小学校のときはちょっと失敗してたみたいだけど、頑張ればみんな受け入れてくれるよ」
甘言で釣ろうとしてる、甘言にすらなってないけど。
また殴られに行かなきゃいけないの? そう反論したら男性教師はキョトンとした顔した。
きっと先生の脳には嘘の情報しか詰まってなさそう。
当時のクラスメートは私に振り回された、困惑の被害者達。そんな風に周囲から聞かされてるんだろう。だって私1人をスケープゴートにすれば、みんな敷かれたレールを踏み外さなくて済むから。
「とにかく学校に行こう、学校で詳しい話を聞くから」
この人は学校を、聖域だと勘違いしてるんじゃないかな。イジメなんか存在しないって。
彼はきっと、イジメというものを都市伝説みたいに脳内で扱ってる。そんな顔してる。
自殺のニュースとか見ても他人事だと思って、都合よくシャットアウトしてるんだろう。
もう会話は必要ないだろう。
帰れよ。貴方は義務感から生まれたノルマを消化したいだけ。そんな下らない自己満に私を巻き込まないで。
警察は呼ばない、呼んでも教師の味方をするに決まってるし。
選択したのは拒絶、それ以外に有効な選択肢なんて、無いに決まってる。
だって教師である彼は全てが肯定され、落伍者の私は全てを否定されるのだから。
世間はレールを踏み外した人を、たとえどんな理由があっても決して同等には扱わない。可哀想にって同情はするけど、逆境をバネにして必死に努力している素振りを見せないと怠け者ってレッテルを張るんだ。
この先生だってきっと、私に拒絶されて追い返されたエピソードを、教室とか職員室で悲哀たっぷりに語るんだろう。
想像しただけでイライラしてくる。コミュニケーションの糧にされるなんてああ全くもう不愉快極まりない。
最低な気分だ。この家は楽しいコト一色だったのに、教室人間正義マンのせいで最悪な気分だ。
***
日本人は勤勉でとっても真面目なんだよ。だからみんなもっと努力しようね!
誰から教わったのか記憶がとっても曖昧だ。なにかの本に書いてたかな。それとも新聞かな、テレビかな、授業で言ってたのかな。
それとも全員が言ってたのかな、日本人は勤勉でとっても真面目なんだよって。
なら私は日本人じゃないのだろう。
さすがに自分を卑下しすぎかな。でも一般的な日本人よりも遥かに劣っているのは事実だろうな。
景色が暗転する。
今度の舞台は教室だ。むせかえるような人混みの中で、当時のクラスメート達がにこやかな表情で、みな幸せそうに授業を受けている。
全員とても真剣だ。志望校に合格するために、その先にある就職活動のために将来を見据えてる。
その集団の中に、私はいなかった。
私の机と椅子は粉々に破壊されていた。足をもて余した先生が残骸を踏み、丁寧に細かく砕いていく。
『こっちに来い初潮。お前が出席してくれないと俺の査定に響くじゃないか』
あの30歳の男性教師が笑いながら手招きしてる。社会という正義を謳い文句にしながら。
『早くしろよ。初潮が黙ってイジメられときゃ、お前以外のみんなが幸福になれるんだ』
『殴らせろよ蹴らせろよ、テメーの私物を根こそぎ壊させろよ』
『お前の仕事は、真面目で誠実で社会から必要とされてる俺達のストレス解消だろうが』
先生とクラスメートが笑いながら、出来の悪い可哀想な私に語りかけてくる。
『自分がクズなだけじゃ飽き足らず、俺らにまで迷惑掛けるとかマジで死ねよ』
『社会においては彼等こそが正しいんだ。分かるかい? 不登校児童がいるなんて醜聞がこのクラスに、この学校に、俺が担任のクラスにあってはいけない。お前のせいで、ここにいるみんなに不名誉で不必要なレッテルが貼られてしまうんだ』
『生まれてきた時点で間違いなんだよ、癌細胞』
『どうして誘拐されたのがお前じゃなかったんだ』
罵詈雑言の嵐から、交通事故で死んだ両親が、血を拭うのも忘れる勢いで、地面から生えてきた。私を睨み付けながら呪詛の言葉を吐き掛ける。
『アンタのせいで、大事なあの子がいなくなってしまった』
『アンタなんか産むんじゃなかった』
『疫病神め、アンタが死ねばよかったんだ』
みんなして氏ね市ねって、大合唱のオーケストラの傍でダンスパーティの開催だ。極彩色のスポットライトがコンサート会場を下品に染め上げる。
体育館の天井から醜くぶら下がった私の文房具に灯油がぶち撒かれ、一斉にライターが投げ込まれる。
ドカンと噴き出す大炎上に、スタンディングオーベーション。初潮アリスという彼等にとって黒歴史的存在が、無惨に崩れ落ちていく様に、観客は狂喜乱舞する。
エベレストの頂上でキャンプファイアと葬式と保険金詐欺のお祭り騒ぎが開催された。地球上の全ての生き物が、必死になって私を罵倒しないといけない。
ああ私って、こわれてるんだ。
もういっそ彼等の、望み通りの行動をする勇気があったらいいのに。
そしたら楽になれるのに。