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初めて夫と会うという出来事は、とても特別なようなことのように思っていたが、少なくともリュシアンにとっては新しい使用人に会う、くらいの感覚だったようだ。
「……ああ、君がそうなのか。結婚間近で婚約者に裏切られて婚約破棄された悲劇の女性だというから、この世の不幸を全て背負ったようなしけた面をしているのかと思ったら、まるで違うな。ふてぶてしい面をしている」
バロウ家にやって来てから一週間後。
リュシアンは急病人がいるなどの理由から、王宮に泊まり込むことが多いとは聞いていた。しかし、こんなに帰らないことはあまりないというから、新しい妻に会うことを避けていた疑いもある。
「おまけに母親は愛人に殺され、弟は近頃、酔って掘りに落ちて大怪我をして今は車椅子生活らしいな。すごいな、そんな悲劇的なことは滅多にない」
リュシアンは皮肉めいた笑みを浮かべた。
彼は年の頃はダリアより十歳ほど年上で、金色の髪に薄青色の瞳をしており、鼻は高く肌は白く背が高く、体躯に恵まれていて胸板が厚く逞しい腕をしており、ダリアとはまるで対極にいるような外見であった。
夫が帰ってきたと聞いて、その顔を早く見てみたいと思ったダリアだったが、待っていましたとばかり玄関ホールへ出て行くのはいかにも面白くない。こちらは一週間も待ったのだ。知らせを持ってきた使用人に、そう、とだけ応じて部屋から出なかった。新妻を一週間も放っておいたのだ。向こうからこちらの部屋へとやって来て、詫びの一つで言うだろうと思っていたのだ。
しかし、待てど暮らせど部屋の扉がノックされることはなかった。
向こうがその気ならば、もう夫などいないと思ってこの屋敷で過ごすのがいいのだろうか、と考えて待つことはやめた。気分を変えるために散歩にでも出ようと思って支度を調えた。バロウ家にやって来てよかったと思うことの数少ないことのひとつは、屋敷の背後に裏庭と呼べるかどうか、多くの木々が茂った森があることだ。よく手入れされた中庭もあるが、ダリアは手入れがほとんどされていない、草木が生い茂り小動物が走り回る森を歩くのが好きだった。
そして裏手の森へ向かおうと、二階の廊下を歩いているときにリュシアンと出会したのだ。彼は執事を従えて歩いていて、執事が慌ててダリアのことを紹介した。そして、屋敷の白い壁に挟まれた素っ気ない場所で、正に味もそっけもない出会いとなった。
「そうね、その年で三人も妻を迎える人も滅多にいないわ」
ダリアは涼しい顔でそう応じた。
するとリュシアンは眉尻を下げ、笑っているのだか怒っているだか分からないような表情を浮かべた。
「……なるほど、先ほどお祖母さまに少しだけ話を聞いたが、なかなかにしっかりとした女性であるようだな、安心した」
「私も、一人目の妻を亡くし、二人目の妻には結婚して間もなくして逃げられ、どんなに情けない男性かと思っておりましたが、そうでなくて安心しました」
「そうか」
そう言いつつ、リュシアンはダリアを値踏みするかのような視線を向け、顎に手をあて、ダリアの周囲を歩いた。
「君の婚約者……いや、元婚約者の気持ちがよく分かるな。婚約をしたはいいものの、君のような気が強い女性を妻にしていいのか迷ったのだろう」
リュシアンは立ち止まり、腰を屈めてダリアの顔を覗き込んだ。
「あるいは、君は見た目は悪くないから、見た目に騙されて婚約したはいいものの、すぐにその正体に気付いて、別の女性に走った」
「あら。そうしたら私の本性をすぐさま見抜いたあなたは、さぞや女性を見る目があるのでしょうね」
「まあ、医師なんて仕事をしているからな。女性の見た目に騙されるととんでもない目に遭う、とはよく分かっている。君がもし見合いの席に現れて、こちらに拒否権があるのならば、すぐに拒否している」
「あら、私たちとても気が合うようね。私も拒否権があれば、今すぐにでもあなたとの婚姻関係を解消して、実家に戻りたい気持ちだわ」
「……実家には君の居場所はないと聞いたが? 家族や親族たちと折り合いが悪いのだろう?」
ふん、と鼻で笑うその顔が腹立たしい。
おろおろとこちらの様子を見る執事の目さえなかったら、拳を握りしめて、その高い鼻を下から殴り上げてやりたいところだった。
「でしたら、二番目の妻と同じように修道院にでも入ろうかしら? こちらであなたと一緒に暮らすよりも、ずっといい生活が送れそう」
「そんな君に朗報がある。俺は月の半分は王宮に泊まり込むか、別の屋敷に往診に行って留守にしている」
「あらっ、それは素晴らしいお知らせね。私がこの屋敷にやって来てから、一番に嬉しいことですわ」
ダリアが笑顔を浮かべると、リュシアンも笑顔を浮かべた。ふたりとも穏やかな表情であるのだが、その実、バチバチとひりつくような空気が漂っていた。その証拠に、ダリアに付いてきた侍女のリタもリュシアンに付いてきた執事も、恐ろしいものを見るような目つきで二人の様子を見守っている。止めようにも、止められないという雰囲気である。
「それに、結婚したら女性にとっては一番の義務と言ってもいい、子供は作る必要はないと言われました。最初は妻としての役割を最初から求められないなんて酷い話だと思いましたが、あなたと会った今となっては、なんて福音かと思います」
「ああ、そうだな。俺と君との間に子供ができるなんて、ああ、恐ろしい、考えたくもない。それこそ神も望まないだろうな」
「ええ。それにしても、あなたの方は貴族の長男として生まれたからには一番に望まれるであろう、跡継ぎを作らなくてもいいと言われているなんて。なんということでしょう? あまり聞いたことがありませんわ。あなたはあなたのお祖母さまとお父さまにずいぶんと嫌われているのね? そうでなければ、こんなことは言い出しませんわ」
「……なんだと?」
リュシアンの眉根に深く皺が刻まれた。声もこちらを脅すような低いものになる。
今までなにを言っても、内心はどうか分からないが、こうして怒りを露わにすることはなかった。よほど癪に障ることだったのだろうか。
「あら、申し訳ありませんでした。もしかして気にしてらしたの? 次期当主として機能不全だとご家族に思われていることを?」
「きっ、機能不全だと? そんなことは決してない! お祖母さまは俺の気持ちを慮って……!」
「本当にそうかしら? 最初の妻は亡くなったというから仕方がないにしても、二度目の妻には結婚間もなく逃げられたのでしょう? なんて情けない孫だと思われているのではなくて? もうあなたのことは見放しているんでは?」
「お前はどうやら、言っていいことと悪いことをわきまえていないようだな」
「それはお互い様では?」
そうしてしばしにらみ合っていたふたりだったが、ダリアの方が『馬鹿げているわ』と思って先に目を逸らすと、向こうも同様に思ったのか、ふん、と鼻を鳴らして目を逸らした。
そしてダリアは玄関ホールに向かって歩いて行き、リュシアンは反対方向へと歩いて行った。ダリアはいつもよりも足音を大きく響かせながら歩き、向こうも同様だったように思う。その足音がずっと耳障りに響いてきた。
「……なんなのよ、あの男っ!」
我慢しきれずに吐き出し、更に足取りを強めて歩いて行った。
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