プロローグ
人は保身のためならばどんな嘘もつくし、信じられないような行為をするものだと知っている。そう覚悟して、ある意味諦めて生きているはずなのに、やはり手痛い裏切りを受けると動揺してしまう。
「やはり考え直すことはできないのかしら? こんなこと、間違っていると思うの」
いつもふたりで立ち寄ったカフェ。結婚を決めた後、誰を招待しよう、どんな結婚式にしようと語り合ったのもこのカフェだった。
ダリアが訴えかけるように言うが、ルネの瞳は動かない。
「駄目だよ、ダリア。もう決めてしまったんだ。もう後戻りはできないよ」
困ったような彼の声には、少しの怒気も含まれている気がした。手がわずかに震えていて、苛立っているのが分かる。いつも優しい彼がダリアに対してこんな苛立たしさを滲ませるなんて、今までなかった。目前まで迫っている別れを感じ、ダリアは胸に幾多の針を刺されたような感触を覚える。
「私が……諦めがいい私がこんなにしつこく食い下がっているのに、それでも駄目ということなのかしら」
彼の中にはもう選択肢は残っていないと分かっているのに、それでも追いすがってしまう。こんな自分は惨めだと知っているのに。
「そうだね、残念ながら」
彼は短く言って、紅茶に口を付ける。
目前に座る、もう元婚約者になってしまいそうになっているルネは、今までと別人のようだった。どちらかといえば寡黙なダリアと違って、よく喋りよく笑う人で、周囲を明るい雰囲気にする人だった。
それが、ダリアのことをまるで厄介な勧誘をしてくる女性を見るような目つきで見ながら、ため息を吐き出して語り出す。
もう彼は、私の前では以前のように振る舞ってくれないのかしら。
そう考えると堪らない気持ちになった。
「もう僕らの両親も親族も、先方の両親も話はついているんだ。僕たちの婚約は破棄、俺は彼女と結婚する」
「それを考え直してくれないかしらと言っているの」
ダリアは淡々と繰り返す。そこにはもはやなんの感情も込められていない。
「どうしたんだよ、ダリア。こんな手ひどい裏切りをされて、それでも食い下がるなんて君らしくないよ。誇り高く、気高いダリアはどこに行ったんだ?」
「そんな私だから、すぐに別れられるとでも思ったの? でも、残念ね。こう見えて私、愛情深い方なの」
ダリアは紅茶のカップをつまみ上げて、琥珀色の液体を摂取する。すっかり冷めてしまった紅茶はちっとも美味しくなくて、水分を補給する以外の役割は果たしてくれなかった。
「付き合い始めたときには、こんな美しくて誇り高くて賢い人を恋人にできるなんて、これ以上の幸せはないと言ったのに」
「その気持ちに嘘はないよ。確かにそのときはそう思ったんだ」
「でも、今は違う」
「いや、今も気持ちは変わらない。それは何度も言ったではないか。でも、駄目なんだ」
彼はなにかを振り切るように首を何度も横に振った。
「分かってくれよ、ダリア。向こうの妊娠が分かった今、僕にできることは一刻も早く彼女と結婚することだ。本当に馬鹿なことをしたと思っている。君という婚約者がいながら、一夜の過ちでこんなことに」
「そうね」
ダリアは無味乾燥なため息を吐き出す。
本当に馬鹿なことをしてくれたものだと思う。結婚式まであと三ヶ月と迫っているというのに。
結婚式の準備はほとんど整っていて、招待状も既に送付済みである。だというのに、婚約者の浮気で相手の女性を孕ませてしまい、結婚式は中止、婚約は破棄になるなんて。
ダリアは被害者のはずだ。
しかし、ルネの家族の言い分は違う。
これは息子だけの問題ではなく、婚約者である君に不満があったから起きたことだ、と開き直りとも思えるようなことを言われた。実を言えば、初めから息子と君との結婚は反対だったのだ。こうなったことも運命だったのだろう。これ以上恥をかかないためにも、君は大人しく身を引くべきではないか、と。
ダリアの父親も立ち会いの伯母も、向こうのその発言を聞いて憤り、こんな者たちと親類になる前に正体が分かってよかったと言い、むしろ婚約破棄を喜ばしく思っている気配すらあった。
なにを言っているのだ。
婚約破棄なんて喜ばしいわけがない。もう結婚する準備はすっかり整い、ダリアはダリア・クレールとして生きる覚悟を決めていたのだ。人生の中でこんな悲劇に見舞われるなんて、そうそうあることではない。
「ねぇ、どうかしら」
ダリアはいつもの冷静な口調で言う。
「私を本妻として、彼女を愛人にするというのは。なにも珍しいことではないわ。子供がいるのに別の女性と結婚することもあるわ」
「なっ、なにを言っているんだ、ダリア。まさか君がそんなことを言い出すなんて」
彼は額に手を当て、大袈裟に何度も首を横に振った。
「これから俺の子供を産んでくれる彼女を愛人にするなんて、そんな酷いことは俺にはできない」
「でもその子供は……」
そこまで言いかけて、ダリアは言葉を呑み込んだ。
それは告げないでおこうと決めたはずだ。言ったところでなにもならない。そんな虚言を使ってまで引き留めようとするなんてどうかしていると彼を余計に苛立たせるだけだ。得策ではない。
ダリアが黙っているのをいいことに、彼は更に続ける。
「それに君の家はぽっと出の地方の伯爵家に過ぎないけれど、向こうの家は千年以上の歴史と広大な土地を持つ、大貴族の侯爵家なんだよ。彼女の父親は王宮で要職についている人で、彼女の兄は国王の側近で、国王の妹を妻としている。そんな大貴族の家の娘を愛人にするなんてあり得ない。確かに、子供がある身でありながらその母親を愛人として結婚することはある。それはその母親の身分が劣る場合だろう?」
「でも、できないことではないでしょう? あなたは、私と先に婚約していたのよ」
「おかしいよ、ダリア。どうしてそこまでしようとするんだ? あの、ダリアが? 信じられない」
「そうまでしても」
ダリアは一旦言葉を句切り、ルネの瞳を見つめながら告げる。
「そうまでしても、あなたと別れたくないのよ」
「無理だよ、ダリア。もう終わりなんだよ」
そう言ってルネは会計の紙を持って立ち上がり、店から出て行ってしまった。
その背中を見つめながら、もう彼の姿を見るのはこれで最後なのだろうと察していた。行かないで欲しい、と何度も言ったが、それでも彼は立ち去った。もう私にできることはなにもない。
「……プライドもなにも捨てて止めたのに、駄目ね。私もどうやら、思っていたより大したことないわ」
ダリアは独りごち、強く唇を噛んだ。
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