Ⅷ.マンプー
「マンプー?」
ぼくは受話器に向かって問い直す。
「ああ」
受話器の向こうから、返事が聞こえる。
「マンプー」とは、隣りの「真岡市」にある「一万人プール」の事だ。その名が示す通り、広い敷地に様々なプールがある。
(流れるプール・波の出るプール・飛び込みプール・競泳用・幼児用・ウォータースライダー…などなど)。
市営なのか? 県営なのか? ぼくはよく知らないが、とにかく公営の施設で、料金も思ったほどは高くない。
「だれと?」
ぼくは尋ねる。
「ピーさんが、みんなで行こうって…」
「ピーさん」とは、同じクラスの女子、「鈴木H美」さんの事だ。クリッとした瞳に、小柄でムチッとした体格の彼女は、女子体操部のキャプテン。キビキビ・ハキハキした性格、気さくな人柄もあってか、ぼくのクラスの女子のまとめ役みたいな存在だった。
まあぼくにしてみれば、あまり「女性」を感じさせないタイプなので、かえって気楽に付き合う事ができる人だ。
(もっとも・むこうにしてみれば、違った意味で、ぼくに関心があったようだ。実はピーさん、男子体操部員の一年後輩にして、ぼくの幼なじみ…つまり「オバコ床屋」のS夫くんに気があったらしい。それで・それとなく、彼の事を聞いてくる事があった)。
そして、電話の向こうの声の主は「デブトン」だ。
(「デブトン」というアダ名は、小学校以来のものらしい…ぼくと彼は違う小学校だ。詳しいアダ名の由来は知らないが、小学校の頃はけっこう太っていて、そんな関係で「デブトン」になったらしい)。
切れ長の細い目に、切れ長の口。中一の時、初めて彼に会った中一の時、ぼくの頭に浮かんだのは…彼には悪いが…「ハロウィーン」のカボチャ。
(三年になるまで、同じクラスになった事はないのだが、他の友達を通して知り合った)。
ガタイは良いのだが、短い髪が・いっそう小さく見せてる丸顔を載っけて、色が白いのもアンバランス。
でも、「気は優しくて力持ち」タイプ。この時期・珍しく、うわついた噂は無いし、本人の意思表示もないから、かえって女の子たちも気軽に声を掛けやすいのだろう。
柔道部なのだけど、やたらと上半身ハダカになりたがる、「ブルース・リー」教の信奉者。「燃えよデブトン」がキャッチ・フレーズだ。
(『燃えよドラゴン』は、ぼくたちが一年生の時に初公開され、いちだい旋風を巻き起こした。しかし、その時すでに、「ブルース・リー」教祖は亡くなっていた。かく言うぼくだって、「ブルース・リー」師匠は大好きだ。『燃えよドラゴン』『ドラゴン危機一髪』『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』…全部見てる。『死亡遊戯』は、まだ公開前だった。中でも、『ドラゴンへの道』と、女優の「ノラ・ミアオ」さんが大好きだ)。
「な、行こうぜ」
「う~ん」
ぼくは生返事。
『なんにもする気がしないよ』
あの一件以来、そんな毎日だ。
「な!」
「う~ん」
はっきり言って、ぼくはあまり気乗りがしなかった。でも…
『まあいいか』
こういった事に限らずデブトンは、「いや」とは言えない雰囲気にさせる男なのだ。
「いつ?」
ぼくは、時間と集合場所を聞いて受話器を置く。
『クヨクヨ考えてたって、しかたないよ』
だって・まだ、はっきりフラれたわけじゃないんだから…。
数日後。ぼくは自転車で、集合場所に乗り着ける。
自転車でなくとも十分もかからない、国鉄駅前のバス・ターミナル。女の子たちや、男子・数名はバス。ぼくと「コージ」と「オサイ」は、チャリで行く。
「コージ」は、スポーツ用品店の息子。細身の卓球部員。遊びに行くと、よく店の前で、お母さんがゴルフの素振りをしている。
「オサイ」は小柄だが、バスケのレギュラー。苗字が「斉藤」なので、こう呼ばれていた。部屋にエッチな写真を隠し持つ。
(ふたりとも運動神経が良くて、下級生の女子に人気があるみたいだ)。
ぼくたち三人は、すでにチャリンコを漕いで「マンプー」に行った事がある仲だ。たかだか十数キロ。わざわざ「バス代」を払うなんて、もったいなくて…。
デブトンと「ヨシオ」はバス。
「ヨシオ」は、サッカー部のキャプテンで、生徒会長も務めている。でも、とても・そんな風には見えない男だ。
(もっとも、ぼくが知る限り…「真面目を絵に描いた」ような奴が、生徒会長に当選した事は一度も無い。世の中、そんなもん?)。
頭も良いのだが、こちらの方も、そんな風には見えない。早い話、チョットだらしなさそうで、ブッチャケた奴なのだ。
(生徒会長のクセに遅刻の常習犯。遅刻した者は罰に、朝礼の時、教壇に上がって歌を歌わなくてはならないのだが…当時の中学生は、みなテレ屋。人前で歌を歌うのは、「恥ずかしいこと」だったのだ。サッカー部キャプテンのヨシオは一度、みんなのリクエストで、当時ヒットした双子の姉妹アイドル「リリーズ」の『好きよキャプテン』を口ずさんだ)。
いつも、長目の前髪をかき上げながら、シカメッ面。目が悪いからなのだが、とてもカンが良い。体育のサッカーの時間、ぼくが適当に蹴り出したボールの先に彼がいて、『アレッ?』と思った事は一度や二度じゃない。
ちなみに「ヨシオ」というのはアダ名で、本当は「ヨシノブ」。「ヨシオ」というのは彼のオヤジサンの名前で、自分の父の名をアダ名に持つ、ヘンな奴だ。
(でも・みんなが「ヨシオ」「ヨシオ」と呼ぶものだから、「ヨシオ」だと思っている人間が大勢いるようだ。生徒会長になって以来、生徒会関係者からの電話も多いが、みなが「ヨシオ」さんを呼び出すものだから、彼の家庭は混乱しているという)。
女子のほうは、前出のピーさんと「U・Y」さんに、例のK子…この三人は、クラスの「仲良し三人組」。
(セミロングの「U・Y」さんは、かなり細目だが、けっこう美形。“good looking”や“nice proportion”の苦手なぼくだけど…かしましい性格なので、変に気を遣う必要がなくて助かる)。
なんだかぼくには、何がどうなっているのか、朧気ながらわかったような気がした。
(それと、同じクラスなのに、あまり話をした事がない娘が、あとふたり)。
みんなが乗り込んだバスが、黒々としたディーゼル・エンジンの煙りを吐き出しながら動き出す。それを追って、ばくたちも走り出す。
一番後ろに陣取った仲間たち。振り返って、こっちを見ている。国道に出るまでの数百メーター。車道を必死で漕げば、自転車でも着いていける。
(今にして思えば、かなり無謀な運転をしていたものだ。でも・まだ・きっと、そんな道路事情だったんだと思う)。
K子はまだ見てる。だいたいK子は、座席に後ろ向きに座っているようだ。バスが見えなくなるまで…つまり少なくとも、ぼくたちの姿が見えなくなるまで、そうやって座っていたのだろう。
「よいしょ!」に「こらしょ!」と「どっこいしょ!」
ぼくたち三人は、ペダルを漕いだ。「マンプー」を目指して…。
(なんだか気の抜ける言葉だけど…「マンプー」なんて)。
「マンプー」ができたのは、まだ最近の事だ。しかし・すでに、ぼくはけっこうな回数、ここに通っている。
(なにしろ「海無し県」。夏は皆が水場の「涼」を求めて集まってくる。数も少なかったあの頃は、連日どこのプールも大盛況だった)。
でも、回数から言えば、冬にここを訪れた事の方が多い。
(今でこそ「マンプー」一帯は整備された公園になり、一年を通して人が絶えないが…当時は、プールと広い駐車場があるだけ。冬にわざわざ訪れる人など、いなかった)。
カートを始めたばかりのぼくは、その駐車場にカートを持ち込んでは、「押し掛けスタート」の練習を繰り返した。
(カートは自分で押して、エンジンが掛かったら、即、飛び乗らなくてはならないのだが…実際、それまでエンジン付きの乗り物と言えば、遊園地のゴーカートしか乗った事のなかったぼくは、エンジンが掛けられなくて四苦八苦。講習用カートと違いレース用は、エンジンと、タイヤを回すシャフトがチェーンでつながっている「直結式」が主流なのだ。わざわざ片道三時間もかけて「武蔵野サーキット」まで行っても、父とふたり、夕暮れ近くなるまでコースを押して回り、「エンジンが掛かって、走れれば満足」程度だった)。
でも、ぼくがカートを始めた少し後。「遠心クラッチ」が大流行した時期がある。
メカにあまり詳しくない人は、自動車のオートマチック車を思い浮かべてほしい。構造は全然違うけど、操作はあんな感じ。クラッチ・ペダルが無くて、アクセルを踏めば動き出し、止まってもエンストしない。
(講習用カートには、この遠心クラッチが装備されていた)。
「押し掛け」が苦手だったぼくも、すぐに飛び付いた。
中には高価なアメリカ製の湿式クラッチ(中身がオイル漬けになっている)を使っている人もいたが、ぼくは安価なヤマハ純正乾式クラッチ。
(アメリカでは昔から、クラッチ式が主流だそうだ。トルコン車…今では死語。つまり「トルク・コンバーター」の略で、要するにオートマ車の事だ…主流のお国柄だからだろうか?)。
ただ、エンジン始動用に、外部スターターと電源が必要になる。
母の仕事は車のセールス。そちら方面には知り合いが大勢いたので、中古の「セル・モーター」と「バッテリー」を探してもらう。
(しかしクルマのセル・モーターは、そのままでは使えない。さらに、エンジンとの接続部分の改造を頼むと、取手やスイッチを付けてくれた上に塗装までしてくれ、商品として売る事ができるような物が手に入った。実際、皆が・こぞってセルを探していた時期。良い商売になったかもしれない)。
バッテリーの方は、デッカイ大型自動車用の物。持ち運びは不便だったけど、容量は十分。バッテリー上がりの心配も無い。
おまけに「オマケ」で、古びた「充電器」まで手に入れてしまった。商売上手な母の、人望の成せる技。感謝。
(でも、「クラッチ旋風」はアッという間に広まり、たったの数年で、またたく間に・すたれてしまった。やはり小排気量・低馬力のエンジン。それに、広いコースでのエンデューロ・タイプが主流のアメリカと違い、日本のコースは瞬発力が勝負。駆動系にそんな物を介するなんて、効率が悪いのだ)。
とにかくぼくはここで、「押し掛けスタート」と「基本走行」の練習を積んだのだ。
ここでせっかくだから、これまでのぼくの「戦歴」についてふれておこう。
ぼくの「デビュー・レース」は、通常、クルマやバイクのレースが行われる、茨城県の「ツクバ・サーキット」だった。「ライセンス講習会」の時にお世話になった「千葉のYさん」が、ここでレースを開催していた関係だ。
『第6回 KMEチャレンジカップ・カートレース』
これがぼくの「デビュー・レース」。
(「KME」とは、Yさんが主宰するカート・クラブの略称)。
中学二年になったばかりの春四月。花曇りの日だった。
では、「デビュー・レース」直前の模様から、「初体験物語」を始めよう。
※ ※
カートに乗り始めて約半年。T子さんにフラれた辛さを、ぼくはカートに打ち込む事で昇華していた…などと言えるほど走り込めれば、もっと早く・速く、上手くなっただろう。
実際ぼくは、まったく引きずっていなかった。むしろ、迷いがフッ切れたような、晴れ晴れとした気分だった。自分でも『こんなんでいいの?』というほど、ケロッとしていた。
(でも、「あの日」の翌日。良く晴れた秋空の下、校庭で行われた朝の全体朝礼。遠巻きに顔を合わせた時、T子さんは「ニコッ」とほほ笑んでくれた。『いったいあれは、何だったの?』。『勝ち誇った笑み?』。それとも『あわれみ?』。とにかく、ぼくのT子さんに対する思い出は、そこまでだ。ただ、後になって思い返すと…「あの瞬間」、小学生の時の彼女に対する僕の悪行の数々が、『すべてチャラになった』と思うと、ホッとする)。
練習は、運搬の関係があるから日曜・祝祭日のみ。でも毎週というわけにもいかず、よくてせいぜい月二~三回。やっと、まあまあマトモに走れるようになった頃、Yさんから「ツクバ」で行われる「走行会」の案内状が届く。
「デビュー・レース」前。その「走行会」に参加したぼくは、はっきり言って「ブッ飛んだ」。
(と言っても、「アタマの中が」という意味だ)。
そりゃもう、ひたすら「無我夢中」。息をつく間も無い。「アタマのてっぺんまでイキまくり」だった。
(運動会のカケッコだって、水泳大会だって、剣道の試合だって、初めてのカートだって、「無我夢中」だったけど、今までの「無我夢中」とは次元が違った。生まれて初めての「未体験ゾーン」。「初めて女性と…」より、強烈だった)。
だって…
『?』
黒くて細長い物体が飛んで来て、ヘルメットのシールドに当たる。それも、一本や二本じゃない。最初は何だかわからなかったけど、ハンドルにからみついたソイツに、チラリと目を走らすと…細長く引き伸ばされた、タイヤのカスだ。前を走るカートから、飛んで来るのだ。
『なんてこったい!』
通常の「スプリント・コース」では、こんな物は飛んで来ない。それだけが、妙に印象に残っている。
(はっきり言って、あの「タイヤのカス」がなかったら、「無我夢中」のぼくは、あの時の事を何もおぼえていなかっただろう。それほどまでに、「舞い上がって」しまっていた)。
『うう~ん』
ヘルメットの中で、ぼくは唸る。そのスピードに、ぼくはビビッた。クルマやバイクのレースでなら、「低速コース」になるのだろうけど…
(コースが狭すぎて、大パワーのマシンでは、持て余してしまうのだ)。
小さなカートは「ひたすら全開、また全開」。軽めのブレーキングが必要な所が、二箇所だけ。
(実際「ツクバ」の最速記録は、長い間、カートが…たぶんミッション付きの250ccマシンだと思うが…保持していたらしい。それにヒントを得て、当時の『F―Jキング』こと「堀雄登吉」氏は、サスペンションの無いレーシング・カーを作った)。
『はえ~』(注:「(とっても)速い」と言っている)。
ぼくは息を飲む。なにしろ、あの頃のカートの謳い文句は、「スピード感は二倍」だった。
つまり…エンジン直か載せ。サスペンションも無いカートは、振動もすごい。それに、クッション・レスのシートの上のオシリは、地上2~3センチの所にある目線の低さ。「スピード感二倍」とは、『実際の速度の二倍に感じる』という意味だ。
(後のF―1レーサー「鈴木A」くんが、カート・チャンピオンを経てF―3に乗り始めた頃、こんな風に語っていた。「速さは(カートほど)感じないんだけど、スピンしたらなかなか止まらなくて、みるみるガードレールが迫ってくるんだよ」…と。カートなら、せいぜい半~1回転スピンすれば止まってしまう。実際は、その程度のスピードしか出ていないわけだ)。
『おっかね~』(注:「(たいへん)恐ろしい」と言っている)。
カートを始める以前、クルマの助手席に乗って高速道路を走った事だって、新幹線に乗った事だってあったけど…
(あの頃は・まだ、飛行機未経験だった)
「自分で運転した」となると…「最速」は、ダウン・ヒルの自転車か、遊園地のゴーカート。
まあ・すでに、「武蔵野サーキット」などの「スプリント・コース」での走行経験があったから、まだいいのだけど…。
『…』
もう、声も出ない。
カートにしてみれば、超高速サーキットのツクバ用に、ギヤ比も換えてあった。「スピード・メーター」も「エンジン回転計」も付いていないので、正確にはわからないが…「時速100キロ」は、ゆうに越えていたはずだ。だから体感は、「200キロ」オーバー。
(はっきり言って、スピード・メーターなんてあったら、余計にビビッていただろう)。
わずか数十分の走行だったけど、「アタマのてっぺんまでイキまくり」の「走行会」終了後の、ぼくの感想は…
『はえ~』
『おっかね~』
でも…
『気持ちイ~』だった。
そしてYさんに誘われるまま、「ツクバ」での「レース・デビュー」となったのだ。
ぼくの出場するクラスは「サブスタンダード・クラス」。
(名称の詳しい意味は知らないが、略して「Sクラス」と呼ばれていた)。
国産100cc、ピストン・バルブという機構の2サイクル汎用エンジンを使用する。
(汎用機械とは、芝刈り機やエンジン・ポンプ、発電機などの事だ)。
富士重製「ロビン」エンジンは・ほとんど姿を消し、「ヤマハMT100」オンリー。
125cc・250ccミッション付きや、100ccエンジンを左右に二基搭載したクラスなどもあったが…日本では、「Sクラス」と「Aクラス」というレースが主流だった。
「Aクラス」は、100ccロータリー・バルブ・エンジンを使用する。
このクラスは、高価な外国製カート用エンジンがメインだ。同じ100ccでも、カート専用設計。それにロータリー・バルブは、ピストン・バルブより吸入効率が良いのでパワーが出る。特にアクセルを踏み込んだ時のパンチが、ぜんぜん違う。
(現在では、材料・材質の進歩により「リード・バルブ」が全盛だ。詳しく書いてもよいのだが、知ってる人は知ってるだろうし、興味の無い人はまったく関心ないだろうから、やめておく)。
タイヤも、より太い・グリップの良いタイヤを使用するが、そのぶん値段もはる。
どちらにしろ、テクニックもお金もないぼくは、まず「Sクラス」で腕を磨く事が大切。それに今回は、「Sクラス」のみの開催。
「ドッキン! ドッキン!」
当日のぼくは、もちろん「緊張」の方が大きかったけど…
(後の20世紀後半ごろの表現を使えば、「心臓バクバク」という状態だ)。
もう「感激」だった。だって・あの憧れの「ツクバ」で、レースを走る事ができるなんて…小学生の頃には、『そのうち、いつか』とは思っていたけど、こんなに早く実現するなんて、想像もできなかった事だ。
今回は2ヒート制レース。
(カートのレースというのは、だいたいが「ヒート」制だ。「決勝一発」というのは、あまりない)。
1ヒート・2ヒートの総合で順位が決まる。
(得点法・減点法の両方があり…台数が多いなら、タイム・トライアルで数組に分かれ、予選ヒート。その上位者が、決勝ヒートで雌雄を決することになる)。
まずは、公式練習も兼ねたタイム・トライアルを走る。
(通常、カートの場合、「タイム・トライアル」は一台ずつ行われる。今回は四輪レースと併催なので、タイム・スケジュールの関係だろう、二輪や四輪と同様の形式での予選となった)。
でも…
『? ? ? ?…』
まだ予選とはいえ、初めての公式戦。緊張のせいか、ぼくはこの時の記憶がまったく残っていない。別な記憶から、「ツクバ」のコースを解説すると…
通常「ツクバ」は右回り(時計回り)なのだが、ナゼかカートの場合は左回り。
本来なら上りとなるメイン・ストレートを下って、半径の大きな左・第一コーナー。なるべくインにつけ、最短距離。もちろん全開のまま抜ける。
そこを回ると、このコースで一番長い直線となる「バック・ストレッチ」。でも、そのなかばで、左へ「ショートカット・コース」を回るのが、いつものレイアウト。コース幅が広いので、全開で行ける。
続くは左・直角コーナー。最初はビビッて「アクセル戻り気味」だったが、慣れるに従い全開。
次の右ヘアピンは、さすがにブレーキを使う。でも、広いコース幅・異次元のスピード。「どこから・どれだけ」ブレ―キングをしたらいいのか、最後まで納得のいく走りができなかった。こういうコースならではの難しさだ。
(「武蔵野サーキット」はコース幅6~8メートルだが、ここ「ツクバ」は10~15メーターもある)。
ヘアピンを立ち上がると、左・右と緩いコーナーが続くが、ここはバイクやクルマでも問題なく全開だろう。なるべく直線的なラインを走る。
そして最終の左。軽くブレ―キングしつつ、グルーッと大きく回って、メイン・ストレート。コーナーリング時間の長いコーナーだ。いったい、「どこから・どこに」向かったらいいのか…? だいたい、カーブの途中で、いま自分がコーナーのどのあたりにいるのか、わからなくなってくる。そんな調子では、どこから加速を始めたらいいのやら…? これでは良いタイムなんて、出せっこない。
(でも裏を返せば、「まだまだタイムを詰める余地はたくさんある」という事だ。あの時・あの頃のぼくには、そんな可能性が、たくさんあったはずだ)。
メイン・ストレートに出る頃には、とっくに全開だけど、下りでさらにスピード・アップ。
(これはあくまで、初心者であるぼくの走り方であり、もっと速い人は、ぼくがブレーキを踏む所で踏まないかもしれないし、速いがゆえに、ぼくが全開の場所でも、逆にアクセルを緩めたりの操作が必要かもしれない)。
コントロール・タワー前は、コースの半分ほどが、パイロンによって仕切られている。広いコースでは、豆粒のようなカート。主催者が、順位を確認しやすくするためだ。
そして…自分なりに「目一杯」走ったぼくの「スターティング・グリッド」は、45台中43番目。
(ぼくより後ろがいるなんて、驚きだ)。
そして迎えたHT1。
「緊張」と「興奮」はピークに達する。もうアタマの中は、ただただ・まっ白。自分で自分が何をやっているのか、自覚しているヒマもなかったけど…
『とにかく走らなくちゃ』
でもレース中盤。ヘアピンを立ち上がり、最終コーナーへの緩い左・右を全開で走っていた時、急にスポンと抜けたように、パワーがなくなる。
『アレ?』
惰性で左のコース脇のグリーンに乗り上げ、停止する。ちょうど、カート用パドックの裏側。「第1ヒート」終了後、すぐ近くにあったゲートから、パドックに戻る。エンジンを開けてみると…
『?』
ぼくはビックリ。金属製のピストンのてっぺんに、穴が開いている。
『こんなことって、あるの?』
ちょうど、前出の「NAC」のS田さんも出場している。
(S田さんはこのレースで、総合優勝を飾った)。
S田さんに見てもらうと、別に驚いた様子もなく、原因を説明してくれる。低熱価の点火プラグを使用していたのが原因だった。
「武蔵野サーキット」などのコースでなら、ちょうど良い熱価のプラグなのだが、ここ「ツクバ」は超高速サーキット。低熱価のプラグでは、全開につぐ全開の高温に耐えられず、アルミ製のピストンが溶けてしまったのだ。
こういったコースでは、熱価の高い高熱価のプラグに変更しなくてはならない。
(ここで述べている「高」と「低」。英語と日本語では、ニュアンスが逆になる)。
あの頃は、そんな事も知らなかった。
父は、前にも述べたように、メカの事にはサッパリの人だったし…すぐ近くに、教えてもらえるような人もいなかった。
だからぼくは、本を読んだり、雑誌から情報を得たり…
(これとて、今とはくらべ物にならないくらい貧弱なものだったけど)。
何かの機会があれば、「見よう見マネ」で…
(時には、あちこち壊しながら)。
自分の身を持って、おぼえていくしかなかった。今にして思えば、笑ってしまうような失敗もたくさんある。たとえば…
『アレ? 入らないよ?』
ぼくはシリンダーに、コップほどの大きさのピストンを組み込もうとしていたのだが…
(通常、「エンジン」と言えば、「シリンダー」と呼ばれる筒の中を、「ピストン」が上下する「往復運動エンジン」を指す。その上下運動を、連結棒…略して「コンロッド」と言う…を介し、「クランク・シャフト」で回転運動に変えるのだ。ピストン運動なら、まあフツーの大人には理解できるだろうから、細かい説明は省くけど…ピストンが男で、シリンダーが女だと思ってくれればいい。そしてピストンには、圧縮が逃げないよう、「ピストン・リング」という物が付いていて、シリンダーとの気密を保つようになっている。外国のカート・メーカーに“kali”というのがあるが…そんな物として、ピストン・リングをイメージしてほしい)。
『アレ? 入らないよ?』
でも、そのピストン・リングが引っかかって、ピストンがシリンダーに入らない。ぼくはリングをはずして、頭をひねる。
『う~ん?』
ぼくは、途方に暮れた。
『なんで?』
自動車の車載工具・以外、ロクな道具を持っていなかったけど…
(だいたい今みたいに、そこらじゅうに「日曜大工の店」がある時代じゃない。工具を探すだけでも大変だったし、今よりもずっと高価だった。それにぼくの外車は、英インチ・サイズのボルトやナットを使っていたからなおさらだ)
構造の簡単な、空冷2サイクル・エンジン。「首から上」(シリンダー・ヘッド、シリンダー、そしてピストンなどの上側の部分を指して、こう呼ぶ)の分解に挑戦していたのだけど…
『今まで入ってたんだから、入るはずだ』
脱着用の切れ目のあるピストン・リングだけをはずし、シリンダーに入れようとしても入らない。
『わかった!』
その時ぼくは、答えはそれしかない…と思った。
『リングをはずす時、広がっちゃったんだ』
ぼくはピストン・リングだけを手に持ち、ギュッと押し縮めた。でも…
「ボキッ!」
『ゲロゲロ~。折っかけちゃったよ~』
その話を聞いて、「武蔵野サーキット」のNさんもあきれ顔。
(入らなかったのは、ぼくが「チェリー・ボーイ」だからというわけじゃない。ピストン・リングが気密を保つためには、外に広がろうとする張力が不可欠だ。そのままスルスルと入るようじゃ、圧縮が逃げてしまう。シリンダーにピストンを組み込む時は、指先でリングを押し縮めてやって、優しく「押し込む」。もちろん油を塗って、滑りを良くしてやる事が、「あの時」と同様、大切な事なのだ…と、後に、大人になって思うようになった)。
とにかくS田さんに部品を分けてもらい、なんとか「第2ヒート」も出走。
「HT2」は、30位前後で無事完走。リタイアしたクルマもあるから、ぼくは総合で21位。全参加者の半分よりは前で、「デビュー・レース」を終えた。
「ふ~」
父の運転する帰りのクルマの中。ココロもカラダも疲れ切っていたけど、ぼくはとっても満足だった。
(もちろん、成績に「納得」はしていたけど、「満足」はしていなかった。でも、「改善」や「進歩」の余地はいくらでもある。「事」はまだ、始まったばかりなのだ)。
いったん「レース・デビュー」してしまえば、練習走行ばかりでなく、実戦経験を積むべきだ。ぼくは大人の中に混じって、レースを走った。
*五月の『ムサシノ・カート・フェスティバル』
「フレッシュマンSクラス」に出場。
出走15~16台中8位。
*六月の『ムサシノ・カート・フェスティバル』
「フレッシュマンSクラス」に出場。
エンジン不調。順位どころじゃない。次のレースで原因判明。
*同六月の『KMEチャレンジカップ・カートレース』
ここでもぼくは、その無知ぶりを発揮。腐ったオイルを使い、エンジンを壊してしまった。
(2サイクル・エンジンの場合、シリンダー内部の潤滑のため、オイルを供給する必要がある。レース用エンジンの場合は、始めからガソリンにオイルを混ぜてしまう。そのオイルには、原料の違いで、いろいろな種類や製造メーカーがある。今では「合成油」が様々な点で最も優れているが、あの当時は「鉱物油」か「植物油」。特に、『カストロールの焼ける匂い』の代名詞で有名な、イギリス「カストロール社」の「植物油」は、ぼくの憧れだった。でも「植物油」は、空気に触れると酸化しやすい。つまり、缶詰の食品と同じで、「開封後は、なるべく早めにお召し上がり下さい」なのだ。賞味期限は、「フタを開けたら一カ月以内」「燃料に混ぜたらその日のうちに」と言われていたらしい。ぼくはそんな事も知らず、わざわざ高いお金を出して、エンジンを壊してしまったのだけど…たしかに、ぼくのエンジンは、『カストロールの焼ける匂い』がしなかった)。
*八月の『KMEチャレンジカップ・カートレース』
予選ヒート落ち。
「ツクバが走れる」という事で、人気が出てきた。それで参加台数が増え、本格的「エンデューロ・タイプ」カートも多数登場。「スプリント志向」の、ぼくの出る幕じゃない事を悟る。
*十二月の『ムサシノ・カート・フェスティバル』
「フレッシュマンSクラス」に出場。
ヒート2で、気化器が落っこちてしまうという、前代未聞のトラブルでリタイア。取り付け部が破損したのだ。よく見ていなかった、ぼくの整備ミスなのだろうけど…これを期に、誰もが使っている「ティロットソン」という外国製のキャブを買ってもらう。
(今までのキャブは、ノーマルの「フロート式」だったが、コイツは「フロート・レス」タイプ。「フロート式」は、燃料をためる「チャンバー」と呼ばれる部分があるのだが、カートは「横G」が掛かる。ためてある燃料が偏るので、性能が安定しない。それに、大柄でカサばるし、重量もある。それで、取り付け部にクラックが入り、破損してしまったのだ。「フロート・レス」は「チャンバー」が無いうえに、燃料を吸い上げる「ポンプ」も一体になった小型・軽量のキャブ。おまけに、一番の利点は、走りながらでも「針」のツマミを回して、燃料のセッティングが変更できるという事だ)。
「よし!」
これでやっとぼくのカートも、「人並み」の装備を手に入れたわけだ。
そして迎えた七戦目。いろんな意味で上達してきたぼくは、入賞圏内の5位を走っていた。
(6位までが入賞だ)。
そのまま走り切っていれば、初入賞だったのに…それが、鎖骨を骨折したレースだ。
(自分の名誉のために書いておくけど、その後、高校生になったぼくは、「全日本選手権」に出場。「選手権ポイント」を獲得した事もある)。
『ヒュ~、着いたぜ!』
セッセとペダルを漕いでぼくたちは、先着組からそう大きく遅れずに「マンプー」到着。みんなと落ち合い、総勢十名。ゲートをくぐる。
「さて!」
季節は真夏。天気は快晴。
大勢でやって来たこんな時は、まず「流れるプール」だ。飛沫を飛ばして大ハシャギ…といきたいところだけど、「流れるプール」は「イモ洗いプール」の様相を呈している。
それに、男子は男子、女子は女子でかたまっていて…すぐには、こんな膠着状態を破れない。
均衡が崩れたのは、お昼の頃からだ。芝生の上に座ったり、寝転んだり…女の子たちが持参していたお弁当を、分けてもらったり…だんだん打ち解けてきた。
「さぁ〜てと…」
昼食後、「イモ洗いプール」にウンザリしていたぼくは、「競泳用プール」に行く事にする。「水泳大会」までに、冬の間に落ちてしまった筋肉を取り戻さなくては…特に・この前の冬は、ケガでギブスを巻いていたのだから、なおさらだ。
「?」
集合場所と時間を確認して歩き出すと、K子も着いてきた。
「ヨシ!」
少し高台になった所にある「競泳用プール」。けして空いてはいなかったけど、まだマシだ。
ぼくがクロール全速力で、50メーター・プールの向こう側へ行くと…少し遅れて、K子は平泳ぎで着いてくる。
前々から知っていたけど、K子は泳ぎが上手だ。他にはピアノが少し弾けるくらいで、特にコレといって目立ったところのない子だったけど、「平」ではかなわないかもしれない。
(はっきり言ってぼくは、「平泳ぎ」が大嫌いだ。きっと、ぼくの体形に向いてないのだ。疲れるだけで、ひとつも前に進まない。だからぼくは、「平」はめったにやらない。ちなみに、「背泳」の国体選手だった母の弟…つまりぼくの叔父さんは、長年「平」の国体選手だったのだけど…)。
「うまいんだね」
ぼくがそう言うと、「へへへ」と上目づかい。K子はぼくより、ずっと背が低かった。
「…」
でも、会話が続かない。だいたい、なにを話したらいいのやら…
「…」
なにも浮かんで来ない。M・Kさんの時とは大違い。
「ふう~」
なにか振ってくれればいいのだけど、K子も黙って、ぼくの傍らに立っているだけで…
『つかれるな~』
まだ呼吸も整っていなかったけど、ぼくは再び「向こう岸」を目指す。
そのあと何本か50メーターを泳ぎ、いっしょにウォーター・スライダーに行ってみる。
(ぼくの狙いは、短距離用の筋肉だ。だから長距離はやらない。それに、泳ぐのは好きだったけど、何百メーターも顔を水につけたままなんて、冗談じゃない。ピタン・ペタンとワンストローク・ワンブレイスで、いつまでも泳いでいるおじいちゃん・おばあちゃんを見ると、感心してしまう)。
ウォーター・スライダーに行くと、他の連中も並んでいた。でも、ぼくは薄手の「競泳用パンツ」をはいている。「競泳パンツ」なんていうと、「エ~ッ!」って言われそうだけど…
(今どきの「短パン」型ではなく…あの頃は、「競泳用」と言えば、「逆三角形」の・ギリギリまで面積を絞ったヤツだ)。
自転車で鍛えた下半身に、水泳で鍛えた上半身。ぼくは、それほど気にしていなかった。
(もっとも、高校生くらいになって、スネ毛と陰毛の境目がなくなってからは、「競泳パンツ」ははかなくなった。公共の秩序を、乱しちゃいけないからね)。
もちろん、『スピード感』たっぷりの「滑り台」は、大好きだったけど…もう・かなり年季の入った海パンだから、何度も滑ると、オシリの皮までスリ切れそうだ。
「イテ・テ…」
そんな・こんなで、高い真夏の陽射しが、ずいぶん傾いたころ…
「バス停で待ってるから」
帰り際に、そうは言われたものの…往きも自転車、プールで泳いで…もう元気ないよ。けっきょく還りは「カシャン・カシャン」と、のんびりペダルを漕ぐ。
でも、「バス停」は帰り道。「真岡行き」の「バス停」は、少しハズレた所にあり、切符売り場も兼ねた待合所もある。
太陽は、大きく西に傾き始めていたけど…まだまだ明るい、夏の日の夕方。
『あれ?』
ピーさんと「U・Y」さん、そしてK子。
『まだいたよ』
このまま通り過ぎるわけにもいかない。ぼくは一旦停止。でも、「コージ」と「オサイ」は、別れの言葉を残して走り去る。
「あの…」
K子が進み出る。
「これ…」
ピーさんと「U・Y」さんは、遠巻きにこっちを眺めてる。
『?』
こぶりな包みが差し出される。
「この前、家族で旅行に行った時の…おみやげ…」
『なんで?』
でもぼくは、手を伸ばして、それを受け取る。
「じゃ…」
そう言うとK子は、クルリと踵を返す。
「アリガト」
ぼくはその背中に、小声でお礼を言う。
『でも、なんで?』
包みの中には…
支柱の立った金属製の台座があって…なにコレ?
翼を広げたカモメをデフォルメしたような、金属製の…「オブジェ」って言うの?
ソイツの嘴を、その支柱のてっぺんの窪みに載せると…アレ!
ちゃんと重量バランス取れてるみたいで…フワフワしながらも、きちんと落ちないで載っかってる。
『でも、なんで?』
これら一式は「鏡面仕上げ」。キラキラと、スタンドの明かりを反射してる。
『旅行って言ったって…どこ行ったの?』
これら全体は「手のひらサイズ」。ぼくの机のまん中に置いてある。
『こいつと旅行と、何か関係あるの?』
カモメのおしりをチョンと押すと、またフワフワ動き出す。
『なんかヘンな感じ』
でも、悪い気はしなかった。だって、女の子から何かもらうなんて、初めての経験だったから…。