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Ⅴ・剣道

 今日は部活だ。ぼくは竹刀(しない)と稽古着を抱えて家を出る。外に出てみると、薄曇りで、ちょっと涼しい気がする。


 実は、ぼくが正式に所属しているのは「剣道部」だ。

 中学に上がって何か部活をやろうと思った時、ぼくは「水泳」にするか「剣道」にするかで迷っていた。ほとんど「水泳」に傾きかけていたのだけど、そこである噂が乱れ飛んだ。「水泳部は坊主にしなくてはならない」というのだ。


『冗談じゃない!』


 ぼくは「ロックンロール」世代だ。

 小学生の頃から、髪の毛の長さで先生に注意を受けるのは、まっさきにこのぼくだった。

 今にして思えば、リクルート・カット以下の長さなのに、「前髪が眉にかかってはいけない」だとか、「横髪が耳にかかってはいけない」だとか…ぼくはいつも、そのギリギリのところでガンバッていた。


 戦前・戦中派の先生が多く残っていた時代だ。

 だいたい「Gパン」の事で、大モメにモメた事があった。小学校六年の「江ノ島・鎌倉」への修学旅行の時。「Gパン禁止令」が発せられたのだ。「Gパンは作業服だから」というのが、先生方の御意見だ。


『時代錯誤もいいところ』


 時代は「ラッパ・ズボン」の全盛期。ぼくはこの「ベル・ボトム」が大好きで、当時ぼくの持っていた「Gパン」は、すべてこのパンタロン・タイプだった。


(「時代は繰り返す」と言うが、イマイチ流行らなかった「ロンドン・ブーツ」が「厚底ブーツ」と呼ばれ現代に復活したのに、「ラッパ」がブレイクしないのは納得がいかない)。


 これは、中学の修学旅行の時も同じだった。中学には制服があったので、着る物でモメる事はなかったけど…。


 話は三年の二学期に飛ぶけど、修学旅行の行き先は「京都・奈良」だった。

 でも案の定、先生と髪の毛でモメる事になる。まあ最後はいつも、ぼくの方で折れてやる事にしていたのだけど…。


(小学校の修学旅行の時は、ギリギリまでねばっていたので、けっきょく、家からかなり遠くにある床屋さんへ行った。「火曜日」でも営業している、私鉄が乗り入れている駅デパートの床屋へ行ったのだ)。


 そして・この時は、必要な所だけ必要なだけ切って、先生を煙に巻いてやろうと思ったのだけど…。


 ぼくは自分で自分の髪に、ハサミを入れる。前髪は難なくクリアー。問題はサイドだ。ぼくは右手でハサミを握り、右サイドの髪をつまんで力を入れる。


「ジョリッ!」


『しまった!』


 そんな感触があった。長いといったって、学校の基準からすれば長いというだけで、そんなに長くない。切り過ぎてしまった右耳の上は、そこだけ薄くて「10円ハゲ」みたい。


『ガックシ』


 ぼくは肩を落とす。仕方ない…権力に屈したわけじゃなく…階下の「オバコ床屋」へ。


 ぼくの家の一角は「貸し店舗」になっていて、ぼくが物心つく頃には、すでに「オバコ床屋」さんが入っていた。


(「秋田おばこ」…「秋田美人」を指す言葉だそうだ)。


 ちなみに、「秋田美人」の肌の色が白いのは、大陸から渡って来た「白人」系の血が入っているからという説がある。


(なるほど「秋田犬」は、色こそ違え、血縁的に狼に近い「シベリアン・ハスキー」に、形や大きさが似通っている)。


 その後、ず~っと後になってから知り合った、東北・他県出身の人に言わせれば、「秋田の人間だけは好きになれん」そうだ。文化や人柄など、同じ東北にあっても、「秋田」だけは特殊なんだそうだ。

 ぼくはそんな風に感じた事はないけど、『案外、そのへんの「血統」とかで、根本的な違いがあるのかも』と、「白系説」を耳にして、妙に納得したものだ。


(それに、現在では偽書・偽史とされている「東日流外三郡史(つがるそとさんぐんし)」という古文書には、かつて秋田の「十三湖(じゅうさんこ)」付近には、大陸とも交易のあった大都市があったとの記述があり…かの有名な民族学者「柳田国男」先生も調査を行ったという。さらに、今では厳しい冬の東北地方だが…「かつて大昔、地球がもっと温暖だった時代には、あのくらいの緯度の方が快適だったろう」という話もある)。


 とにかく、「秋田おばこ」にちなんだその名前は、そこのオジサン(ぼくの両親と同世代)が、秋田出身だから。


(いつも綺麗に整えられた口ヒゲをたくわえて、店の棚にはトロフィーと、何かの理容大会での優勝旗を抱えたオジサンの写真が飾ってあった)。


 でも、家の一角が床屋さんなのに、幼い頃のぼくは大の「床屋嫌い」。ジッと座っている事がガマンできないという以上に、きっと頭をイジられるのが嫌いだったんだと思う。


(後に「水泳大好き」になるぼくだけど、幼い頃は、おフロで頭からお湯をかぶるのがイヤで…だって、息苦しいから…それを克服するまでには、けっこうな時間がかかった。だから「水」が嫌いな人の気持ち、わからないでもない)。


 そこの幼なじみのS夫くんは、ぼくのひとつ下。小柄だが、機敏な体操部員。


(後に家を継いで、今は駅の反対側に店を構えている)。


 それはさておき、切り過ぎてしまった部分に合わせてもらうと、もうぼくに言わせれば「坊主に毛が生えた」程度。「GIジョー」は大好きだったけど、「GIカット」なんて大嫌い。ガッカリだ。


(キング「エルビス」は男前だから、映画「GIブルース」で髪を短くしてもカッコ良かったけど…実は・それでも、キングの立場を考慮して、「長めだった」という裏話もあるが…もっとも、学校の基準で言えば、あのくらいがオーケー・レベル。ぼくはそれよりさらに短い、本物の「クルー・カット」になってしまった)。


 担任のK先生の高笑いが、見えるようだ。柔道をやっていた三十代のK先生は、黒帯の柔道部の顧問。


(小柄だがガッシリした体格をしていて、マンガ家の「バロン吉元」先生あたりに描いてもらったら、良い絵が描けそうだ)。


 その先生が、腰に手を当てて「ガッハッハッ」と笑っている姿が目に浮かぶ。


『チックショ~』


 そもそもぼくは、生まれつき「権力」や「体制」に不快感をおぼえるような人間だったようだ。もう少し早く生まれていたら、「学生運動」に傾倒したか、まったく無視したか…どちらか極端な方を向いただろう。

 もっともぼくの家系には「教師」が多くて、『教師だって同じ人間』と、初めからナメてかかっていたところがある。


(片方が教師だと、結婚相手も教職に()いている確率が高くなり…倍・倍で増えていくことになる)。


 子供のクセに、自分に服従しない児童・生徒がいるなんて…「絶対服従」の精神をたたき込まれた教師の側からすれば、納得がいかなかったのだろう。

 でもぼくは、意味も無くイタズラをするような「バカな子供」ではなかった。


『どうしてダメなの?』


 口には出さなかったけど、態度で示した。頭の中は理屈っぽい、そんな子供だったのかもしれない。


 だいたい大人に対する信頼感をなくしたのは、小学生の頃だ。

 ぼくが小学校三年生の時だった。その一年間だけ、ある中年の男の先生が、ぼくたちのクラスの担任になった。話が面白いので、みんなからは割と人気のある先生だった。


(陰では「ハゲテル」なんて呼ばれていたけど…前頭部がきれいに上がっていて、名前が「照夫(てるお)」だからだ)。


 授業中の事だった。

 ぼくが何かの拍子に、当時・流行っていた、ボール(ポイント)ペンのテレビCMのフーレズ…「まっ黒けのけ」と言ったとたん、烈火の如く怒り出したのだ。挙句の果てに廊下に座らされて、こっぴどく怒られた。

 ぼくには訳がわからなかった。もともとぼくは、その先生に気に入られていなかったのかもしれないけど…


(中には、ぼくの事を、とっても気に入ってくれる先生もいたけど…そういう先生はごくマレで、だいたいが嫌われていた。きっとぼくは、鼻持ちならないマセガキだったんだと思う。実際、例を()げたら枚挙にいとまがないので、やめておくけど…)。


 でも・それまで、もっと悪い事をしたって叱られた事などなかった。その時に限って、そんな他愛もない事で怒られたのだ。


『自分の気分次第で怒ってる』


 ぼくには見え見えだった。

 幼い頃のぼくは、大人はみな…犯罪者などの一部の例外を除いて…大きくて・強くて・完全だと思っていた。でも…


『大人って言ったって、こんなもの』


 初めて、そんな意識が芽生えた経験だった。


(後日談)

 それから数年後。高校生になっていたぼくの目の前を、一人の「ウダツの上がらない」老人が、自転車で横切った。

 小さく猫背でハゲ上がり、「ひょっとこ」の面でもかぶったような顔をしている。でも…面影は残っていた。でも…そんなに老け込む年ではないはずだ。


『何か病気でもしたのだろうか?』


 ぼくは、その変わり果てた姿に『ザマーミロ』とつぶやいたけど…心は晴れなかった。


(今にして思えば、あの時…ぼくが「まっ黒けのけ」と言った時、先生は『自分の頭の事をからかわれたと、勘違いしたのではないか?』と思うのだ)。


 話がだいぶそれたけど…「水泳部」は、坊主にしなくてはならない。


(これは単なるデマだったのだが…)。


 特別「水泳」に思い入れがあったわけじゃない。そこでぼくは、「剣道部」に入った。

 そして…一年生でまっ先に防具を着用させてもらったのは、このぼくだ。でも・それも、当たり前と言えば当たり前。「赤胴鈴之助」のような、白地の少年剣道着は小さくなって着られなかったけど、ぼくはすでに剣道歴三年だった。だって…

「織田信長」公に「豊臣秀吉」様、「武田信玄」候や「真田幸村」殿の、単行本型のマンガを持っていたし…ぼくは、「戦国時代」モノが大好きな子供でもあった。


(時代は、群雄割拠の乱世よりチョット(さかのぼ)るけど…「南北朝時代」の忠臣「楠木正成(くすのきまさしげ)」や「元寇(げんこう)」の時の執権(しっけん)「北条時宗(ときむね)」の物語を、子供向け歴史の本で読んだこともある)。


 たぶん・それも、もともと生まれ持ったものなのだろう。ぼくは刀やお城・鎧兜(よろいかぶと)といった物が大好きだった。


(「忍者」が大好きなぼくなので、自然な流れ・当然の結果なのだろう。モーター・スポーツに()かれたのだって、コスプレみたいな「鎧兜好き」のぼくの一面が絡んでいる事は、否定できない)。


 たしか小学校四年生の時。NHKの大河ドラマの題材は、「海音寺潮五郎かいおんじちょうごろう」先生の原作、「石坂浩二」さん主演の『天と地と』だった。戦国の「(いくさ)の神」軍神「上杉謙信」だ。


(その頃に公開された邦画『風林火山』も、大のお気に入り。「萬屋錦之助(よろずやきんのすけ)」さんが「武田信玄」候で、軍師「山本勘助」を「三船敏郎」さん、ライバル「上杉謙信」を「石原裕次郎」さんが演じるなどの豪華キャスト)。


 ぼくはその番組が、没頭するほど好きになり、クラスの「お楽しみ会」の出し物では、ぼくが中心になって、指人形版『天と地と』を上演したものだ。

 そして・それで、一気に火が着いた。ぼくは新聞紙を丸めた刀での「チャンバラごっこ」を卒業し…自分から申し出て、「剣道」を習うようになったのだ。


 それまで、親に押し付けられたものは、すべてモノにならなかった。

 幼稚園の頃、ピアノを習わされたが…「いちの指・にの指・さんの指…」といった感じで「バイエル」の初級を習ったけど、いまだに楽譜はまったく読めない。

 ロックやポップス・歌謡曲は大好きだったけど、鑑賞中心。「音楽」だけは、万年「3」だった。


(「5段階評価」の、まん中だ)。


 ぼくはただ、「ピアノのおけいこ」の後の、「お昼のラーメン」が楽しみだっただけだ。


(あんな記号の並びを理解できる感性や…ピアノばかりでなく、たくさんのキーやボタンの並んだ楽器を操る感覚は、ぼくにはまったく理解できないのだ)。


 あとひとつ。小学校・中学年の頃。家の近くにある「八坂(やさか)神社」に、「お習字」を習いに行かされた。

 こちらの方はやがて、まあまあコツをつかんで、すぐに「赤丸」をもらえるようになった。でも…


『筆とペンは全然ちがうよ』


 いまだにぼくは、誰もが認めるところの「乱筆」だ。


(ただ、「書き順」を身につけるのだけには、役に立ったようだ)。


 しかし…


『どうしてこんなこと、しなくちゃいけないの?』


 一度早朝から「大脱走」を試みて以来、こちらの方からは解放された。だいたい、貴重な日曜日の午前中。


『どうしてこんなこと、しなくちゃいけないの?』


 そんな疑問が、頭をもたげる年齢になっていた。

 でもある意味、ぼくの両親はいたって「放任主義」だった。「あれしろ・これしろ」なんて、とやかく言われた記憶は無い。


(だいたい「勉強しなさい!」なんて叫んでるお母さんにかぎって、『あんたはどうだったの?』と聞いてみたくなる)。


 そのかわり、世間の事も、何も教えてくれなかった。ぼくは全部、自分でおぼえてきた。

 母に言わせれば、「教師なんて世間知らず」なんだそうだ。たしかに・そうかもしれない。


(母は元教師だったが、ぼくが物心つく頃には…「女性は結婚したり出産したら、家庭に入るもの」という当時の慣例に従い、いったんは教師を辞めたが再就職…当時は・まだ珍しかったバリバリのキャリア・ウーマン。クルマのセールスをしていて、地元の新聞だったか、三大新聞の地方版だったか、「地元にこんな人がいます」欄に、写真入りで載った事もある)。


 とにかく、「学習塾へ行け」なんて事を、ひと言も言わなかった事には感謝している。だって、大切な放課後の時間まで、台無しにされたんじゃたまらない。


(小学校六年の時。運動会の鼓笛隊の練習をスッポかして、こっぴどく怒られた事がある。『土曜の放課後まで、こんな事やってらんないよ』。当時仲の良かった二人とぼくは、毎土曜の午後の練習はスッポかしていたのだけど…一度、練習にならないほどの人間が逃げ出した。その首謀者と目されぼくたち三人は、大目玉くらったのだ。でも『知らないよ。あの時は、みんなかってについて来ただけだよ』。しかし・あの頃は、「学習塾」や「算盤(そろばん)塾」は、『子供の社交の場』になっていて…今でいう「放課後の子供の居場所」みたいな面も、あったのかもしれない)。


 でも・もう少し、「世の中の仕組み」について教えてくれていれば、もっと効率的な人生を送れていたかもしれない。

 教師の見栄なのか…

 それとも『うちの子にかぎって』という自信なのか…

 あるいは、ぼくに対する、一方的な根拠の無い信頼なのか…

 はたまた無関心?

 けっこう無駄な事もしたもんだ。


 でも二年生になる前に、ぼくは部活にパッタリ顔を出さなくなった。

 ちょうどレーシング・カートを始めた頃でもあり、家でマシンを磨いている方が、よっぽど楽しかった。

 それに、ひとつ上の連中が気に入らなかったから、二年生の時は、すっかり「幽霊部員」となっていた。


(はっきり言ってぼくは、「先輩・後輩」という関係が嫌いだった。「先輩」は永遠に「先輩」であり続け、「後輩」はいつまでたっても「後輩」だ。気が遠くなる。「実績」や「実力」は別として、「人間関係」は常にイーブンであるべきだ)。


 そしてぼくは三年生になった。もう先輩はいない。

 それに、ケガをした後だし、いちおう受験前。時おり、父がヒマな日曜にカートの練習に行くだけで、「開店休業」状態。

 でも、そんな状況にジッとしていられるぼくではなかった。それで、顧問の先生に顔も忘れられていたけど…もっとも、初老の・その男性教諭、陰では代々「人斬り以蔵(いぞう)」なんて呼ばれていたけど、剣道ができるわけでもなく、めったに顔を見せなかった。


(「人斬り以蔵」とは、幕末の刺客(テロリスト)剣客(けんかく)「岡田以蔵」のこと。ぼくの両親と同世代の先生の苗字は「岡田」なのだ。ただそれだけの理由だ)。


 それでぼくは、剣道部に復活したのだけど…今さら戻って来たところで、レギュラーのラインナップは決まっている。


 先鋒(せんぽう)の「ナオッピ」。

 次鋒(じほう)の「H沢くん」。

 中堅の「ノブユキ」。

 副将の「カトンブ」。

 大将は「ホーチャン」。

 そして個人戦は「マスケー」。


 それぞれに個性的な陣容だった。


 先鋒の「ナオッピ」は、小柄で動きが素早かった。

 中堅の「ノブユキ」は、手堅い戦法で中を締める。

 副将の「カトンブ」と大将の「ホーチャン」は、大きな身体で押しまくる。

「マスケー」は、突拍子もない動きをする「意外性」があった。


 ぼくは、その一角に食い込む自信はあったけど…次鋒を務めるH沢くんは、あまり上達していなかった。身体も細いから、押しも弱い。はっきり言って、「つば競り合い」で本気で押したら飛んでいってしまう。奇声を上げて竹刀を振り回すが、すぐに息切れだ。


 発明王「エジソン」の言葉に、「99パーセントの努力と、1パーセントのひらめき」というのがある。

 日本の教育では、これを曲解して、努力すれば何かが生まれてくるように教えているけど…本来の意味は、「1パーセントのひらめきの無い奴の99パーセントの努力は、すべてムダになる」という事らしい。

 たしかに、才能のある者が努力してこそ・才能のある物に努力してこそ、報われる…というものだ。


(成長してから思う事は…もっとも罪な事は、「才能」とまではいかなくても、「適正」のある人間が、その道で努力しない事だ…と思うようになった。スポーツや芸術など、才能のある人間と凡人では、スタートからして違うのだ。望んだところで、誰でもができるわけじゃない。「持たざる者」からすれば、「生まれながらに持っている人間」がその道に進まない事は、ほとんど犯罪に近い行為だ)。


 でも…


『じゃあいったい、ぼくにはどんな才能があるの? だいたいぼくに、才能なんてあるの?』


「やればできる」なんて言葉は、成功した人間が吐くセリフだ。でも…


『できるかどうか…とにかく、やってみなくちゃ、わからないよ』


 なにしろ、努力した者が報われる「年功序列」の世界。


(学校教育には、そういう面があってもいいと思う)。


 それにH沢くんはとてもイイ奴で、ぼくとしても、特に不満はなかった。


(大人になってから感じる事は…歳を取るということは、それだけ選択肢の数が減ることだ…と感じるようになった。後年、多くの求人に年齢制限の項目は記載されなくなったが、たとえばスポーツ。そりゃ、まったくやった事がないものを始めれば、ゼロよりは進歩するだろうけど…今さら「プロを目指します」なんて言ったって、ぜったい無理なことは、自分が一番わかってる。つまり…「やらなくてもわかってる」ものばかりが、増えていくようになるものだ)。


 近々、他校との練習試合も予定されていた。それには、ぼくも出場する。


「ヒャ~!」


 体育館と校舎をつなぐ渡り廊下。その中ほどにある水飲み場。ぼくたちはめいめい、蛇口をいっぱいに捻り、頭から水をかぶる。

 稽古が終わると汗ダクだ。この暑い中、「(メン)」をかぶって、「(ドウ)」や「垂れ(タレ)」などの防具を着込んでいるのだ。


(剣道部員は、特に「朝練」をした後は、みんなに嫌われる。「篭手(コテ)」をはめていた手の臭いなど、なんど石鹸で洗っても抜けきらない。放課後や、今日みたいな日はいいけれど…)。


『?』


  頭から水を(したた)らせながら顔を上げると、体育館の向こう側、学校の一番外側の外周路を歩いて行く、女の子の一群が見えた。

 女子のバスケ部員。ぼくは目を凝らす。


『!』


 M・Kさんだ。

 ぼくはみんなに視線の先を読まれないよう、メンをかぶる時に頭に巻いていた手拭いで顔を拭きながら、彼女の姿を追っていた。


「M・Kさん」


 特別美人というわけでも、スタイルがイイというわけでもなかったけど…ぼくとM・Kさんは、二年生の時、同じクラスだった。


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