Ⅳ・レーシング・カート
ぼくは、二階にある自分の部屋を出て、階下に降りて行く。昨晩からこの家には、ぼくひとりだ。
一階に住んでいる祖父母は、ただいま転地療養中…と言っても、同じ市内に住む伯母さんの家に行っている。
本当は、ぼくの現在の住所は、ぼくが育ったこの家ではない。夏休み前。ぼくの家族…父と母・それに弟は、新しく買った家に引っ越した。母の強い要望もあり、郊外の新興団地に、一軒家を買ったのだ。
(夜になると、明かりを求めて虫やカエルが集まって来る。田んぼの脇では、ホタルさえ飛んでいた。地方都市とはいえ街中の、「高度経済成長」の一番ひどい時期に育ったぼくには驚きだ。だって、ぼくの生まれ育ったこの近所は、「ドブ川」ばかりだったし、カブト虫やクワガタは、あの頃すでに、祭りの縁日で買うものだった。でも一歩郊外に踏み出すと…まだそんな時代だった。そんな自然も残っていた)。
本来は、ぼくもソッチの住人なのだが…「受験を控えたこの時期に、わざわざ転校することもない」という事で、むこうの家と・こっちの家を行き来していた。
そんな時、祖父と祖母が、相次いで体調を崩した。病院が近いという事もあって、祖父母はしばらく伯母さんの家にやっかいになる事になった。
でも、中学三年の男の子を、ひとりで野放しにはしておけない。両親は、交代でこちらの家に泊まっていた。
(弟は、むこうの学校に転校していたからだ)。
昨晩はいろいろな事情で、父も母も来なかったけど…だからといって、何かイタズラをするような子供でもなかった。
(ぼくには、くだらないヒマつぶしをしている暇はないのだ)。
ぼくは裏口から表に出る。出た所は、ブロック塀で仕切られ、クルマが二台、タテに駐車できるスペースがある。その後ろ半分ほどは、上が物干し場になっている屋根がある。
さらにその奥は、祖父お手製の物置小屋だ。木の骨組にトタンを張っただけの物だが、小屋とはいってもかなりの広さがあり、幼い頃のぼくは、ここで「秘密基地ゴッコ」をして遊んでいた。
祖父は最近まで、この家で八百屋を営んでいた。
(だから木製の「りんご箱」がいっぱいあるのだ)。
一階の、通りに面した部分は店舗になっている。
そして、物干し場の屋根を支えている壁には、ぼくの大切な宝物が立て掛けてある。壁際には、やはり「りんご箱」を利用した棚。
鈍い緑色の、キャンバス地の大きなシートをはぐと、赤いパイプ・フレームの「レーシング・カート」。
最近では「レーシング・カート」もポピュラーになってきたから、あまり詳しい説明はいらないだろう。早い話が、「競技用ゴーカート」だと思ってもらえばいい。
日本では一般に、「カート」は戦後、日本に駐留していたアメリカ兵が持ち込んだと信じられている。
(もともとの始まりは、「アート・インゲルス」さんというアメリカ人が、『第二次世界大戦』後、大量にあまった「発電機用エンジン」をパイプの車体に載せ、“go kart”…あえて訳せば「それ行けカート」って感じになるそうだ…という商標で売り出したのが始まりらしい。“jeep”という商標名が、ヘビーデューティー四輪駆動車の代名詞になったように、「ゴーカート」も本来は商品名なのだ)。
実際、多くの場合はそうなのだろう。でも、後出する「カート界の大御所」、「鈴木M」さん…ぼくの父と同世代だ…の場合は、チョット違った。
若き日のMさんのクルマ仲間のひとりが、アメリカ留学から帰国した際、「カート」を持ち帰った。それで「カート」の存在を知ったという。
でも、その仲間が四輪レースで事故死。『こんな事やってたら、いつかオレも死んじゃう』と思ったMさんは、カートに転向。
某有名自動車メーカーの研究所勤務だったMさんだが、上司をブン殴って退職。その後、自分でカートを造るようになったという。
その自動車メーカーとは、「人や物を運ぶものなら何でもやる」とう社是を掲げる、総合輸送機器メーカー「H技研」。
(だから、「二足歩行ロボット」や「飛行機」を造ってもおかしくない訳で…それが証拠に、会社名に「自動車」という文字はいっさい入っていないのを御存知ですか?)。
そして・その仲間とは、名著『がむしゃら1500キロ』の著者であり…
(復刻版が発売されたり…『赤いペガサス』など、モーター・スポーツ物の作者「村上もとか」先生によってマンガ化もされたのも、この頃のこと)。
「鈴鹿サーキット」で非業の死を遂げた、伝説の名レーサー「浮谷東次郎」氏だ。
(そんな仲間の一人に、大学の学友でもあった・とある大民間企業の御曹司がいたそうな。フツーなら、次期社長になるところだが…著名な創業者は、世襲制を嫌い、「会社を私物化しない」ことを旨とし、「縁故採用」禁じた。そこで・その人物が興したのが、モーター・スポーツ愛好家の間では有名な…少なくともアメリカ西海岸では、「ミューゲン」と発音される会社。最初は、モトクロス・バイク用のチューニング・パーツなどを製造・販売していたが、ちょうど・この時期、『マスキー法』などの排気ガス対策のため、50年ほど時代を先取りした「副燃焼室」機構を持つ初代「シビック」のレース仕様車を開発。国内ツーリングカー・レースに送り出した頃だ。個人の財力では賄えないほどの資金が必要なモーター・スポーツ界にあって、やはり大切なのは…「人脈」?)。
夏休み前までの半年間。ぼくの左の鎖骨には、金属製のピンが入っていた。
(「鎖骨」とは、両肩の前に、横むきに付いている骨だ)。
ピンが入っている間、ぼくはカートでの走行を自粛していたのだ。
(ピンが入っている骨を、再び骨折でもしようものなら大変だ。折れ曲がったピンを抜くだけでも、大手術となるだろう)。
夏休み前に、左の鎖骨に入っていたピンは抜いてあった。今度の日曜は、久しぶりにカートの練習だ。カートはもちろん、公道を自走できない。当然ぼくは運転免許を持っていない。つまり、父か母にクルマで連れて行ってもらうしかないわけだ。
ぼくはカートを磨いたり、スパナやドライバーで、ボルトやナットを増し締めしたり…。
中学一年の秋のこと。ラジコンは決して買ってくれなかった父が、もっと高価なカートを買ってくれたのだ。
(もっとも当時は、今のように手軽で安い電動車はほとんど無く、ラジコンと言えどもエンジン車が主流で、はっきり言って、高価な「オトナのオモチャ」だった)。
あれは、中学一年の、夏休みも終わろうとするころ…
ぼくは、細々と貯めたお小遣いを握り締め、ヘルメットを押し込んだ大きなバッグを抱えて、早朝の電車に飛び乗った。
まだ、「東北新幹線」なんて、影も形も無かった頃。東京都郊外まで、片道二時間以上の列車の旅…と言っても、ぼくは旅行に出かけたわけじゃない。
東京都の西方。「立川市」。米軍「横田基地」のすぐ近く。当時、関東地方で唯一のカート・コース「武蔵野サーキット」へ、カート・ライセンスの実技講習を受けに行くためだ。
ちょうどカート・レースの統括が、それまで存在した「JKA(日本カート協会)」から、日本のモーター・スポーツの大元締めである「JAF(日本自動車連盟)」に移った時期。
その数日前の夕方。ぼくは「東京タワー」の近くにあるJAFのビルで、座学講習は受けてあった。
(今では「一日講習」が当たり前だけど…初期の頃は、「座学」と「実技」は、別々の日に行われていた)。
中学一年とはいえ、ひとりで東京に出て行く事くらい、ぼくには何でもない事だった。
幼い頃から、映画や演劇好きの父に連れられて、ぼくの家族は子供向け舞台を観に行ったりしていたし…
(その当時、朝の子供向け番組に、『おはよう子供ショー』というのがあった。その番組にかかわっていた「木馬座」という劇団が、『ピーターパン』や、「ケロヨン」で有名だった『ひきガエルの冒険』などの舞台を興行していたからだ。そして・その帰りには、たいていどこかの博物館…「交通博物館」とか、そういった類いの…を回ってから帰って来た)。
また、独身で子供のいなかった伯母さんに連れられて、横浜の親戚の家に「お泊り」に行ったりしていたし…
(伯母さんは、「不幸な世代」なのだ。「学徒動員」で飛行機を作っていた伯母さんの世代の女性には、独身者が多い。何しろ、適齢期の頃には、同世代の多くの男性が、「名誉の戦死」をしてしまった後だった)。
夏の朝焼けを見ながら、やがて「東北本線」の終点・北の玄関口「上野駅」に着くと、あの時ぼくは、ちょっぴり切なくなっていたはずだ。同級生の「上野T子」さんの事を思い出して…色が白くて、目がパッチリしていて、黙っているとお人形みたいな人だった。
小学校三年の時、T子さんはぼくの隣りに座っていた。ぼくは何かとチョッカイを出し、時には泣かした事もあった。
『どうして、あんなことしたんだろ?』
でも、四年生の時のクラス替えで、別々のクラスになってしまった。
そんな頃、廊下で・靴脱ぎ場で・校庭で、T子さんを見かけると、胸が詰まったような、言葉にすると「キュン」とするような気持ちになるのだった。
そして姿が見えない時でも、T子さんの事が頭に浮かぶようになって…やがて、思い出す回数や時間が増えていって…モヤモヤとした、ヘンな気持ち。
それが「恋」という感情だという事に気づいたのは、しばらくたってからだ。
そしてぼくの「片想い」は、あの時はまだ「現在進行形」だった。
とにかく、「上野」で降りて「山手線」。「新宿」から「中央線」で「立川」まで。電車を降りてからバスに乗る。「五日市街道」沿いには、屋敷森や雑木林など、「武蔵野」の面影がたくさん残っていた。
そして、「ヨコタ・エアー・ベース」のすぐ東側。田園地帯の中に、「武蔵野サーキット」はあった。
(すぐ隣りには養豚場があって、時おり風に乗って、あまり芳しくない臭いが漂ってくるけど…飛行場はすぐ近くだし・民家もまばらで、ここなら騒音もさほど問題とならないだろう)。
万年塀に囲まれた、一周500メーターほどの細長いコースだ。
受講生は、前回「座学」のとき顔を合わせたメンバーだし、講師も同じ千葉のYさん。
年の頃は四十前後。四角い黒縁のメガネに七・三分けで、スーツにネクタイの方が似合いそう。本業は何なのか知らないが、千葉のカート・チームの代表で、講師のほか、カート役員も務めている。レースも主催していて、ぼくのデビュー・レースとなった「筑波サーキット」のレースでは、たいへんお世話になった。
その後、身体が大きくなって、常にウエイト・オーバーに悩まされる事になるぼくだが…当時のカート・レースの最低重量は、ドライバーとマシン、合わせて110キロだった。
(足らない場合は「重し」を積まなくてはならないが、「ウエイト・ハンディ」のための加重は無い)。
カート自体の重さは50キロ前後だから、ドライバーは、装備重量で60キロくらいが理想となる。ただ、特に夏場のレース後は、体重が2~3キロ落ちてしまうなんて事もある。それで余裕をみて、「カーターは65キロがベスト体重」なんて言われていた時代だ。
でも、カートレース・デビューした中学二年当時のぼくは、まだまだ成長期の途中だった。身長も伸びている最中だったし、体重もずっと軽かった。
だいたい100キロを越す重量を計れるハカリなんて、身近になかった。車検でぼくとカートの総重量を計ってみると、規定より、わずかに軽かったのだ。
でも、Yさんは、「ジュニア規定」…18歳未満の選手の事だ…を即断で適用してくれ、車検をパスする事ができた。
まず軽く、実技走行についての注意事項などの講義を受けた後、コース脇のピットに整列する。と言っても総勢四人。
社会人が二人に、高校生が一人。もちろんぼくは最年少。
目の前には、四台の講習会用カートが並べられている。車体はかなりくたびれた感じだが、レースにも使われている富士重工製「ロビン」エンジンを搭載している。
(「富士重工業」は、自動車の「スバル」を製造しているメーカーで、もともとは飛行機を作っていた「中島飛行機」。『大東亜戦争』中は、「ゼロ戦」なども製造していたのに…今でこそ世界に冠たる日本車だが、それはドイツと同様、先の大戦の敗戦国だからだ。戦後、「航空・宇宙産業」が大幅に規制されたドイツとニッポン。本来、飛行機やロケットを作るべき優秀な技術者の多くが、行き場を失い・自動車産業に流れた。そのおかげで、「自動車大国」となったのだが…五年・十年のブランクは大きかった。それで・いまだに〈注∶1970代・当時〉ロケットひとつすら、満足に打ち上げられないのだ)。
まあ、遊園地のゴーカートに毛が生えた程度だったけど…
(遊園地のゴーカートから、余計なボディーをはぎ取ったような代物だったから、「毛をむしった」といったところか)。
ぼくはドキドキした。とにかく、「レーシング・カート」初体験だ。
Gパンにバスケット・シューズ。Tシャツの上に、黄緑色に白のラインの入ったジャージの上着。
(父にもらった物で、胸には「JFA」…日本サッカー連盟…のワッペンが貼ってあった)。
メタリックがかった青の・おニューの「アライ」のヘルメットをかぶると、緊張感は最高潮。
(良く晴れた夏の日に、長ソデ・長ズボンにヘルメットまでかぶっていたというのに、『暑かった』という記憶がまったく残っていないのは、「緊張感」のほうが勝っていたという事だろう)。
シートに腰を降ろし、バイクのモトクロス用の皮グローブをはめた両手で、ハンドルを握る。
(ヘルメットとグローブは、この日のための新品だ)。
右足がアクセルで、左足がブレーキ。操作は遊園地のゴーカートといっしょだ。主流だった直結式ではなく、遠心クラッチ付きなので、あとはアクセルを踏み込むだけで走り出す。
最初はオートマチック自動車のように、うなりとエンジン回転を上げてソロソロと…青白い煙を吐きながら、右手を上げてコース・イン。
(別に右でも左でもかまわないのだが、片手を上げるのが「コース・イン」「コース・アウト」の合図。スピンしたり、マシン・トラブルなど、コース上で止まってしまった時は、両手を上げて後続車に合図する)。
まずは、一列縦隊になって慣熟走行。とくに先導はなく、先頭は口ヒゲをたくわえた二十代のおにいさん。ぼくは「しんがり」だ。
左回りの最終コーナー立ち上がりのアウト側から、反時計回りのコースに合流。約100メーターのメイン・ストレートに入る。
もちろん・ここは、アクセル全開。ペダルをいっぱいに踏みつける。
第一コーナーは、左・右と続くシケイン風のレイアウト。
最初の左を直線的に狙って、ブレーキング開始。軽くブレーキを残しつつ、右に回り込んで行くコーナーなので、直線の終わりで、ブレーキングを開始するポイントがつかみづらいカーブだ。
ここでどこまで突っ込めるかで、タイムに影響がでる。
(もちろん、突っ込み過ぎてもダメだ)。
右コーナーを小さくインベタ(「インべったり」。「カーブの内側に沿って走る」という意味)で回ると、すぐに一番奥の左「複合」コーナー。半径は大きいが、グルッと回ったカーブ。
立ち上がると短いが直線があるので、なるべくスピードをキープしたまま、脱出速度重視。
短い直線を全開で走ると、左・右・左と、連続コーナーが待っている。
「コーナー」とは言っても、カーブはそれほど深くない。「逆S字」といった感じ。
最初の左を直線的に、続く右コーナーのインを狙うようなラインで入って行く。その「右」は、スピードを乗せ、外側(つまり左だ)のタイヤに荷重が掛かるようにする。すると内側(つまり右)が浮き気味になるため、路肩にカートの1/3ほどがはみ出ても、何のショックも無く通過できる。
そこが上手く決まれば、次の「左」も同じ要領でクリアできる。「右」「左」と、路肩にはみ出しながら、直線に近いラインを走れるわけだ。
そこを抜けると、このコースで一番Rのきつい、右ヘアピン・カーブが待っている。
ここでのオーバー・スピードは禁物。じゅうぶんに減速し、きれいに立ち上がって行かないと、ここのコースでのキー・ポイントとなる次の最終コーナーで、無理が出る。
左回りに、正方形の三辺を回って行くような最終の「複合」部分は、ライン取りがむずかしい。
単独で走っているなら、最初の角のインをかすめ、次を大回りに回って、メイン・ストレート手前の最後のカーブのインに入る。スピードが乗っていれば、タイヤをキュルキュルと鳴かして、きれいなドリフト・アングルで立ち上がって行ける。
ここが決まるかどうかで、直線でのスピードの乗りが変わってくる。最もタイム差の出る場所であり、レースとなれば「勝負どころ」ともなる。
手前のヘアピンでモタついたり、インを差されまいと・ふたつ目を小回りすると、最後の三個目で、ラインを交差させる「クロス・ライン」に入られ、続く直線での加速競争となるのだ。
…とまあ、最初からそんな走りができたわけじゃないけど、レースでは、一周500メーターのコースを、速い人なら25秒前後で一周。平均速度で70km/hくらいだ。
ぼくはとにかく、みんなに離されないようにと集中した。
でも、クルマがボロいせいか、大したスピードはでない。遊園地のゴーカート経験者でも十分。
(それにぼくは、実走行未経験とは言っても、モノの本を読み漁っていた。「スローイン・ファーストアウト」とか、「アウト・イン・アウト」などの基本用語や知識は、すでに頭に入っていたし、自転車に乗る時は、いつも心掛け・実践済みだった)。
四人の中で、ヒゲのおにいさんはけっこう速くて、だんだんと離れていったけど…あとの三人は、ほぼダンゴ状態。
数周の後、Yさんの振るチェッカート・フラッグで、最初の走行は終了。
「フ~!」
次は「模擬レース」。ぼくたちは、二列隊列を組んで走り出す。
でも講習会というものは、速さを競うものじゃない。一番の目的は、走行に慣れ、そのスタート方法を知るためだ。
カート・レースのスタートは、アメリカン・スタイルの「ローリング・スタート」でレースが始まる。
二列の隊列を組んで走り出し、スタート・ラインを横切った瞬間からレースが始まるが…隊列が乱れていれば、さらにもう一周。
(一本指を立てた手を上げて、後続車に合図する)。
四台じゃ乱れようもないが、Yさんはそのへんの練習のため、あえて「あと一周」の一本指を示す。
数周「ローリング・ラップ」を繰り返した後、「日の丸」の旗でスタートだ。
まあ講習会とは言え、走り出せばそれなりに熱くなるもの。
二回の「模擬レース」の結果は、二回ともヒゲのおにいさんの独走。二番は二回とも、長髪のおにいさん。ぼくと高校生のKさんは、一勝一敗。
(後にこのKさんとは、『富士グランチャン・レース』を観戦に行った時、偶然、グランド・スタンドで再会した)。
たったの四人だから、進行もスムース。最後にYさんの総評の後、講習会の終了証を受け取る。
(あとは、必要書類や顔写真を、申請料金と共に送って、ライセンスの申請をするだけだ)。
夏の夕方近く。荷物をバッグに詰め込んで、再びぼくはバスに乗る。
こうしてぼくは、めでたく、ぼくの街で二番目となる「JAFカート・ライセンス」を手にしたのだ。
(ぼくより少し前にライセンスを取ったのは、同じ街に住む高校生。Yさんの紹介で、ぼくはTさん兄弟…社会人だったお兄さんの方も、すぐ後でライセンスを取ったのだ…と知り合う事になる。ぼくはやがて、メジャーである、通常のカート・コースで行われる「スプリント・タイプ」に主眼を置いたが、Tさん兄弟は、四輪のレースが行われる「ツクバ・サーキット」での「エンデューロ・タイプ」…空気抵抗を減らすため、あお向けに寝そべったドライビング・ポジションのマシンを使う。その姿勢から、別名「スリーパー・タイプ」とも呼ばれる…をメインに進んでいった)。
でも、ここからが大変だ。ヘルメットとライセンスくらいなら、お年玉やお小遣いの節約で何とかなるが、肝心のカートがなくては、何も始まらない。
モーター・スポーツで一番大切な事は、「まず、スタート・ラインに並ぶ」事なのだ。
『さて、どうしよう?』
でもぼくには、何のアテもなかった…。
* *
カートのライセンスが取得できる年齢「12歳」以前のぼくの興味は、前述の通り、「ラジコン・カー」だった。でも、ただ走らせる事ができればいい…なんてものじゃなかった。ぼくはレースに出場したかったのだ。
あの頃のぼくの愛読書のひとつは、『ラジコン技術』。
でも、小学生の子供には、記事の内容はむずかし過ぎて、ぼくはただ写真を眺め、値段を見てはタメ息をついていた。夢ばかりがふくらんで…でも、「完成車」なんて「高嶺の花」。
プラモを買ってもらいに行った時、そこの店員さんから、ラジコンについての説明を受けた父の答えは“NO”。「絶対無理」な雰囲気が漂っていた。
そこでぼくは決心した。こうなったからには仕方ない。
『自分で作っちゃおう』
ぼくは、そう思った。
だいたいぼくは、『図工』の時間の「工作」ともなれば…プラモデルの部品を流用したり…自動車ばかり作っていた。
(「プラモ好き」は、自分で作れなかった幼稚園生のころ以来。父が組み立ててくれているのを、隣りからジッと見ている記憶がある。ただ、戦闘機は好きだったけど、形が単調なロケットや旅客機などには、ぜんぜん興味が湧かなかったし…戦車は大好物だったけど、重機やトラックなどの「働く自動車」にも、まったく関心が無いタイプ。どういうワケか、ハジメからして、最先端のレーシング・カーやスポーツ・カーが、ぼくのツボ)。
プラモにしたって・この頃には、最初から「設計図」無視の『魔改造』(?)仕様。「溶接だ」と言っては、『半田付け』用の「ハンダ鏝」で、プラスチックを溶かして接合したり、ローソクであぶって変形させたり、パテもり・プラバン・ガムテープ貼りなど。そんな事ばかりやっていて、結局いつも完成しなかったものだ。
(「マメだけど大雑把」な性格は、生まれつき)。
そんな、小学校・高学年のころ。ぼくの街の中心部をはさんで、東寄りのぼくたちの「縄張り」の正反対。西側にある模型屋さんの裏手に、「スロット・カー」のサーキットがあるという『一大発見』をした事がある。
(本屋・古本屋・模型店めぐりも、重要なぼくたちの「任務」だった。だって、後の「ネットで通販」なんて世の中じゃない。「どこに・どんな在庫があるか?」。実際に足を運んでみなくちゃ、わからない。どちらにしろ、法制度も確立していなかった時期。黎明期の「通信販売業」なんて世界には、あやしい詐欺まがいの業者も数多横行していて、信用がおけない。だから・まだまだ、良い中古車・貴重な古本なんて、「巡り合わせ」の時代。『オート・スポーツ』誌の創刊号を手に入れられたのも、そんな地道な「活動」のおかげなんだろうけど…あの頃とは逆の意味で、あくせくとした「ネット・ワーク社会」の今・現在。思い返せば…ある点ではノンビリとしていて、『良い時代だったな』とも思う)。
ここで話は、少し脇道にそれるけど…「スロット・カー」とは、コースの各レーンに沿って掘られた溝に、マシン前端・下部の突起を差し込み…鉄道とは反対の理屈で…レーンに沿って、コースを疾走する。
(溝の両脇には、電気が流れる金属プレートが、レーン一周に渡って貼ってあり、マシンの突起の両側から垂れた金属ブラシを通して、電動機に電流が流れる仕組み。ただし、各コーナーの角度に合わせて、「加速のみ」のコントローラーのスイッチを、適時オフにして減速しなくては、オーバー・スピードで突起が溝からはずれて、コース・アウトしてしまう)。
とにかく、ぼくたちにしてみれば、自分たちの街に・こんな場所があったなんて…敷地の広さは20畳ほど(?)の6レーン。本格的な規格のコースは、もう「大事件」。
(この時代、「スロット・カー」は、大人も楽しむホビー。『オート・テクニック』誌などにも、1ページほどの専門・専用コーナーが設けてあったほどだ)。
もっともぼくには、「スロット・カー」に関して、それなりの知識も経験も、すでにあった。
最初の出会いは、幼稚園の頃。父がクリスマス・プレゼントに、ぼくたち兄弟のために家庭用玩具の2車線オーバル・コースの「スロット・カー」を、買ってくれたからだ。
(ぼくは、よほど嬉しかったのか、夕方、早い冬の陽が落ちた頃。裏口から帰宅した父が、「そこでサンタさんにもらった」と言って、大きな包みを抱えていたのを憶えているけど…残念ながらぼくは、その頃には・すでに、『サンタなんていない』と気づいていた「マセガキ」だった)。
その後、小学生も中学年になった時には、外国製の4レーンのスロット・カーも、買ってもらっていた。
(これなら友達も交え、4人で競走できる)。
そんなワケで、スンナリとそこに入って行けたけど…まず必要なのは、車体と電動機。
(高度な人になると、モーターのコイル線を巻き直してチューン・アップするらしい)。
そこに別売りのボディーを、お気に入りのカラーリングに塗装して載せる。
(ぼくは透明アクリル板で、「カンナム・マシン」風のカウルを自作したりもしたけど…縮尺ピッタリの「ニッサン・サニー」のプラモのボディーは、ほぼ無改造で艤装オッケーだったりしたものだ)。
自分でスロットルのコントロールは必要だけど、後の時代の「ミニ4駆」のノリに近い。
(タイヤはスポンジみたいな材質で…硬さによって、オレンジ色などに色わけされていて…数種類のコンパウンドがあった)。
ぼくたちのグループが出入りするようになった頃には、すでに同年代の・地元の一群がいた。
むこうのリーダー格は、『医者の息子?』みたいな秀才タイプ。頭の良さそうな、背も高い男子。
(たぶん、同学年くらいだ)。
タイヤも色別に、きちんと箱にまとめていたりと、気合いが入っている。
「ライバル視」はしていたけど…特に大会が催されるわけでもなく…お互い、「敵対心」みたいなモノは持っていなかった。今となっては、『良い思い出』だ。
と、「脱線」が、かなり長くなったけど…
そこでぼくは、コツコツと節約したお小遣いを持って、行きつけの模型屋さん「○エス模型店」に行っては、必要と思われる材料を買い集める。
(いつの頃からか、特別・用事が無くても足を運ぶようになった。プラモの箱を手に取ってみたり、カウンターの奥に陳列されたラジコンを眺めたり。けっこう長い時間、ウロウロしていたものだ。ぼくはただ、そこにいるだけで満足だった)。
メーカー直販でタイヤを買ったり、プラバン(プラスチック製の板だ)でボディーを貼り合わせたり…ほとんど「図工」のノリだった。
「サンワ」の操縦機までは買った。かなり形になってきた車体に、受信機とサーボ・モーターを搭載。『鉄人28号』の正太郎くんのように、コントローラーのスティックを操作してはフロント・タイヤを切ってみる。あとはエンジンと駆動系回りだ。
ぼくはソイツが走り回る日を夢見ていた。
のちに名を残したり、有名になる発明家や技術者なら「幼くして、独学で○○を作り上げた」とでもなるところなのだろうが…ぼくのラジコンが走り回る日は、ついに訪れなかった。何の未練もなく、いっさいを放棄したからだ。
でも、ぜんぜん後悔していない。だってぼくの関心は、まったく違うものに向けられていたから…
それが「レーシング・カート」。
(でも、「kyosho」や「アソシエイテッド」、「エンヤ」「OS」「ハイネス」なんて名前を聞くと、今でもチョット懐かしくなる)。
でも、走らなくて正解だったと思う。
「強度計算」や「材料力学」なんて知識は、まったく無かった。そんな事をぼくに教えてくれたり、アドバイスしてくれる人もいなかった。
(それ以前に買ってもらった「Uコン飛行機」…凧のように、金属ワイヤーを自分で持って飛ばす、エンジン飛行機だ…それも、けっきょく飛ばず終い。エンジンに点火プラグが必要な事も知らず、エンジンを始動できなかったのだ。もっとも、図面の読み方も知らずに、適当に組上げた木製骨組み・紙貼りの機体はベコベコで、まともには飛ばなかっただろう)。
ぼくの父は、完全な文系型の人。
ただ、「新しいもの好き」で、マイカー・ブームのはしりとなった「ニッサン・サニー1000」を買い、あちこちドライブに行ったりはしたけど…。
(そんな御時世もあってか、60年代後半。「ドライブイン・ブーム」が巻き起こった。街道沿いに「ドライブイン」が建てられ、「ドライブイン」と改名する食堂も多く、休日などには「今日はあそこのドライブインまで」みたいな感じで出かけて行ったものだ)。
まだオープン・リールだった頃の、図体のデカイ高価なビデオ・カメラを買っては、母にブーブー言われたりもしたが…
機械・工学的なものには、まったく向いていない人だった。
たぶん、行き当たりばったりに作られたぼくのラジコンは、まっすぐ走る事さえままならなかったはずだ。
(もっとも実物の四輪車でも、当時はまっすぐに走らなくて手をやく事が多々あったようだ。路面の凹凸などに影響されず、まっすぐ走る事は、意外にむずかしい事らしい)。
そもそもの始まりは、『レッツゴー・カーティング』という本を、古本屋で手に入れた時からだ。
(今でも『オートスポーツ』というモーター・スポーツ専門誌を発行している「三栄書房」発刊の「カート入門書」だ)。
ぼくのその他の愛読書は、『オートスポーツ』に『オートテクニック』。それに『ザ・モーター』という雑誌だった。
(だいたいぼくの両親は、「本を買う」と言えば、こういった雑誌でも、何も言わずにお金をくれた。ただし、弟が『ピット・イン』という自動車雑誌を買った時には、没収されていた。ヌード・グラビアがあったからだ。だからぼくは、「永井豪」先生のマンガ…『ハレンチ学園』を買った時には、表紙カバーを裏返しにしておいた。後に成長したぼくに言わせれば…「大人になるということは、親に言えないことが増えていく」ということになる)。
そんなぼくだから、12歳からカートのレースに参加できるという事は知っていた。
でも、遊園地のゴーカートは大好きだったけど、具体的な事はよくわからない。ぼくに道を示してくれたのが、その本だ。ぼくは、擦り切れて、セロテープで補修しなくてはならないほど、肌身離さず持ち歩いては、読み漁っていた。『レッツゴー・カーティング』は、あの頃のぼくのバイブルだった。
『自分が実際に乗る方が、面白いに決まってる』
それにぼくは、家に篭りっきりで、こちゃこちゃやっているような子供でもなかった。
隣りの家は自転車屋さん。小学校・高学年になったぼくは、クラスで一番最初に、「5段変速」「セミドロップ・ハンドル」の自転車を買ってもらった男だ。
(同級生たちも、次々にニュー・マシンを手に入れたこの時代。豪華装備の自転車が、各メーカーから競うように発売された。「デュアル・ライト」に「フラッシャー」。ギヤ変速レバーなど、オートマチック自動車のギヤ・セレクターを模したような代物だったり…「チョッパー・タイプ&サイドカー付き」なんてのもあった。あの当時は、それが自然な時代の流れだと思って、何の疑問も持たなかったけど…ほんの一瞬の出来事だった。今も昔も、あの一時期を除き、そんな「遊び心」のある自転車は皆無。寂しいかぎりだ。たぶん、そんな時期に子供時代を過ごせたぼくは、幸運なのだろう)。
最初はフラッシャー付きに羨望のまなざしを送っていたが、ぼくは「走り屋」志向。スピード・メーター以外は必要ない。
近所の「三角公園」が溜まり場で、市内のまん中にある「八幡山」の競輪場脇からの急な下りで「最高速テスト」。
未舗装路で「モトクロス・ゴッコ」をしたり、近くの商業高校は、格好のサーキット。校内を廻る通路をコースに見立て、レース開始。
(でも一度、その学校に勤務する先生のクルマとクラッシュしそうになった仲間がいて、その学校から苦情がきて以来閉鎖)。
徒党を組んでは先頭を切って、近所を走り回っていた。
(多い時は、クラスの男子ほぼ全員…中には・家にある、今で言うところの「ママチャリ」参加の奴もいたけど…15人ほどが集まった)。
そうこうするうちにぼくは、カート・ライセンスが取得できる年齢、「12歳」になっていた。
(でも、ラジコンの何倍もするカートなんて…ましてや中学生。アルバイトだってできやしない)。
そんな時、ライセンスを手にした夏休みが明けた、九月の某・日曜日。
ぼくたち一家は、車で「東京」方面へ出かけたついでに、『全日本カート選手権』が行われている「武蔵野サーキット」へ立ち寄った。
父としても、息子がわざわざライセンスを取りに行った「レーシング・カート」。どんなものか、見てみようと思ったのだろう。
機械オンチの父とはいえ、クルマやドライブは好きだったし…息子の影響で(つまり、ぼくの事だ)、「筑波サーキット」を皮切りに、「富士スピードウェイ」の『グランドチャンピオン・シリーズ』、果ては「鈴鹿サーキット」でのレース観戦まで経験済みだった。
だいたい、「東北自動車道」も完全に開通していない時代…やっとぼくの住む街まで到達した頃だ。
(できたての頃、わざわざ一区間だけ、父の運転で高速を走りに行った事がある。でも、パトカーに止められる。「加速レーンで加速して、進入路では…」みたいに注意を受けていた)。
まだ・そんな頃。『富士グランチャン』ほぼ全戦を、カバーした年もある。
「旅行・ドライブ好き」の父母のおかげだ。この辺の事情については、後で述べる事にするとして…
『ス・スゴイ!』
実のところ、ぼくだって「生」のカート・レースを見るのは、この時が始めてだった。
『ハ・ハヤイ!』
四輪のサーキットと違い、まじかで見ているせいもあるだろうが、クルクルと、目が回りそうだ。
(狭いコースだけど、軽量で運動性の良いカート。タイヤをドリフトさせながら、すごいスピードでコーナーを抜けて行く)。
父は…眉間にシワを寄せ、真剣な顔で見入っている。
(ぼくは…たしかに『スゴイ』とは思ったけど、『そのうち、いつかは…』くらいで楽観的だった)。
後年、父が語ったところでは、このとき父はその迫力に圧倒され、『うちのムスコには絶対できない』と思ったそうだ。
だいたい父は、自分の事に忙しくて、自分の息子の事をよく見ていなかった。ぼくについて、父が知らない事や・勘違いしている事は、たくさんある。
ぼくは、「猪突猛進」型の「おばかさん」じゃないだけだ。初めから、手放しで飛び込んで行くようなマネはしない。最初は周りをウロついて、様子を観察しているのだ。そんなところが、「引っ込み思案」に見えたのだろう。
たしかにぼくは、小学校・高学年まで、家で「GIジョー」で遊んでいるような面もあった。
(でも、ただチョットばかり、ほかの子供より「夢見がち」なだけだ)。
「GIジョー」とは、アメリカ兵のフィギュア・モデル。早い話が、男の子向けの「着せ替え人形」だ。
(後に日本の玩具メーカーが製造するようになったが、もともとは“MADE IN USA”…「?」。オリジナルには頭髪の色も数種あり、とにかく「外人」という顔をしていた)。
歩兵からパイロット、果ては宇宙飛行士バージョンまで、さまざまなバリエーションがあった。
(「GIジョー通」を自認していたぼくだが、そのシリーズの看護婦バージョン「GIナース」というのがあった事を知ったのは…大人になり・そういった物にプレミアがつくようになった、つい最近の事だ)。
小さい頃から、「戦争ゴッコ」「スパイ・ゴッコ」「忍者ゴッコ」「刑事ゴッコ」が大好きだったぼく。
(『ゼロ戦ハヤト』に『コンバット』。『忍者部隊月光』に『0011ナポレオン・ソロ』。『仮面の忍者 赤影』や『カゼのフジ丸』…等が、ぼくの大のお気に入りのテレビ番組)。
それに、小学校・入学以前は、「コスプレ」大好きな子供だった。
野球帽に、スパイや刑事のネクタイに見立てた手拭いを首に巻き、忍者のように背中にカタナをしょって、腰にはガン・ベルト。黄色い長靴をはいて、『ララミー牧場』などの西部劇で登場するライフル銃を持ち、近所を闊歩していた。
『忍者部隊 月光』のヘルメットを持っていたし、『ゼロ戦ハヤト』のヘルメットをかぶって、遊園地のゴーカートに乗っている写真が残っている。
なんでも…ぼくは、全然おぼえていないのだが…幼稚園にも上がる前、「二挺拳銃」のガン・ベルトを巻いて、バスに乗り、小児科まで行ったそうだ。
(ぼくもぼくだけど、まだ物心つく前だから仕方ない。そんな子供を平気で連れて歩いてた母の方こそ、大したものだ。だって「二挺拳銃」をブラ提げて歩いてる子供なんて、ぼくは見た事ないよ)。
そんなぼくだから、「GIジョー」大好きになるのも当然だ。
ぼくと「GIジョー」との出会いは、幼稚園生の時。今でもおぼえている。
たぶん、横浜の親戚の家にでも行った時だろう。都内のどこかのデパートの、オモチャ売り場。たまたま・そこで、本邦初公開…「GIジョー」の「お試し会」みたいなものをやっていたのだ。
広い台の周りに陣取った子供たちに向かって、男の店員さんが「さあ、さわってごらんなさい」といった感じで、裸の「GIジョー」と装具一式を手渡してくれる。
(ぼくの周りは、ずっと年上の小学生ばかり。ぼくはそこの隙間から、チョコンと顔を出していた)。
ぼくの前にも、「GIジョー」一体が差し出される。でもぼくは、周りに圧倒され、ただ眺めているだけ。そのうち、ぼくの隣りにいた小学生が、ぼくの分まで持っていった。それがぼくの、「GIジョー」との出会いだった。
そして・その後すぐに、ぼくは最初の自分の「GIジョー」を手に入れた。
(ぼくと弟が所有したトータル数は、たぶん「一個分隊」くらいにはなるだろう)。
最近、聞いたところによると…あの当時、「GIジョー」を持っている子供の家庭は、まあ裕福な部類に入るのだそうだ。
そうかもしれない。近所の遊び友達で「GIジョー」を持っているのは、ぼくたち兄弟と、ぼくの家のすぐ向かいにビルを建てた、起業家を父に持つ友達だけだ。
ぼくの家は両親が共働きで、祖父も商売をしていたから、ぼくの家には「GIジョー」がいっぱいあったのだろう。
今、あの当時の「GIジョー」が完全な形で残っていれば、一体・数十万円だそうだ。
(ちなみに「GI」とは、“Goverment Issue”―軍規―という意味。「GIジョー」とは、男のアメリカ陸軍兵士を指し、「デミ・ムーア」さんの映画にもあるように、女性は「GIジェーン」と呼ばれる)。
それから間もなく、ぼくと父は、再び「武蔵野サーキット」近辺にいた。
「ドリフターズ」の『東村山音頭』で有名になった…あるいは、日産「村山テスト・コース」のある、東京都・東村山市のあたり。
夕闇迫る頃、最初に訪れたのは、「新青梅街道」沿いにある自動車用品屋さん。ここでは、この店の名を冠したカート「NAC」を販売していたのだ。
(このカートは、前出、「カート界の大御所」鈴木Mさんの設計・製作によるものだ。鈴木Mさんは、後の「F―1パイロット」鈴木Aくんの父君で、ぼくとAくんは同い年。後にMさんの店に出入りするようになるぼくは、浪人時代、Mさんのショップで住み込みのアルバイトをしながら、予備校に通った事もある)。
ここで応対に出てくれたのが、ぼくのデビュー・レースとなった「ツクバ」のシリーズで名を馳せ、その後、全日本選手権でも活躍する事になるS田さん。二十代前半の、感じの良いおにいさん。
いろいろと話を聞いて、ひとまずそこをあとにする。ぼくの頭の中には、その「NAC」や、「ヤマハ」のマシンがあった。
オートバイ・メーカーの「ヤマハ発動機」が、チルト式ステアリング機構を装備した初めての市販カート「レッド・アロー」を発売した年だ。
(その時から現在まで、「ヤマハ」は一貫して、リーズナブルな価格の市販カートを市場に提供し続けている。「継続は力なり」。今さら他のメーカーでは、このコスト・パフォーマンスは実現できないだろう)。
そして、それから数年後。ヤマハは名機「KT100S」エンジンを世に送り出す。
(モーター・スポーツの発展に、多大なる貢献を果たしたエンジンを挙げるなら…ぼくの個人的な意見だが…当時、「フェラーリ」以外のF―1チームの“ORIGINAL EQUIPMENT”=標準装備化していた「コスワース・エンジニアリング」製「フォード」の“Double Four Valve”エンジンと、この「KT100S」のふたつだ)。
次に、「武蔵野サーキット」を訪れてみる。
ここのコース・オーナーのNさんは、ショップも併設していたからだ。ライセンス講習会の時に、多少面識もできたし…それに、ここのクラブには、「カート界のプリンス」と呼ばれる「鈴木T」さんが所属していた。
(鈴木Mさん・Aくん親子とは、血のつながりはない)。
鈴木Tさんは、ぼくの愛読書『レッツゴー・カーティング』にも特集が載っていて、なんでも、中学生のデビュー・レースから優勝してしまった人らしい。
夏の名残りの暑さも、陽が落ちると心地好い涼しさへと変わる季節。すっかり暗くなった頃、「武蔵野サーキット」へ。
都内方面から「五日市街道」を西進し、「横田基地」の手前で旧道に入るとすぐの所に、「武蔵野サーキット」はある。
(そこから先に数百メーター。「基地」にぶつかった所で、道は直角に左に折れ曲がるのだけど…『たぶん「ヨコタ」ができたので、こんな道になり、新道が作られたのだろう』と思っていた。基地の金網のフェンス沿いに走る・その箇所は、「片岡義男」氏原作の映画、『スローなブギにしてくれ』のワン・シーン…「白いムスタングが走り去る」場面で登場した)。
道路ぎわにある、コース利用者用の、広い砂利敷き駐車場のドまん中には、Nさんの工場がある。
(街の鉄工所といった風情。Nさんはここで、自前の車体を作って販売していた事もある)。
その少し奥。コース手前右側には、農家風の自宅。
(二十代後半のNさんは、ここに感じの良い御両親と住んでいる)。
そのさらに奥の右手。コース脇に建てられたプレハブが、「ショップ」兼「走行受付」になっている。
そこには、発売されたばかりの「ヤマハ」のカートが展示されていた。でも…初のヤマハのマシンには、まだ色々な点で「?」が付くらしい。
「ふう~ん?」
ズブの素人のぼくには、何がどうなのか、よくわからない。
それより、ぼくの視線の先には…茶色のソファに腰を降ろした、細身で早口・「あまり外観にはこだわらない」といったタイプのNさんの長髪。今日もボサボサだ。
(この当時、「長髪」と「Gパン」は、若者の象徴だった。「拓郎」「陽水」「かぐや姫」に代表されるように、「フォーク」にだって、それらは必需品だった。若者は、「ロック」系か「フォーク」系のどちらかに大別され、日本のフォークと言えば、この三大勢力のどれかに属していた。「ロック党」と「フォーク党」は、時として喧喧囂囂としていたが…ぼくはフォーク・ソングも好きだった。ちなみにぼくは「吉田拓郎」派)。
そんなNさんが薦めてくれたのは…ヤマハの「MT100」エンジンを搭載し、Nさん・お手製のチャンバー付きで、ほぼヤマハの市販車と同価格のマシン。
父とNさんは、けっこう話し込んでいる。どうやら父には、「その気」があるようだ。
(この時の事を思い出すと、幼稚園に入る前の記憶が蘇る。たぶん、入園試験の最後の面接の時だろう。応接間のような部屋のソファで、父母が、おそらく園長先生たちと話をしていたのだが…ぼくはその横で、弟と二人、ソファの上で戯れていた。市街地の中心部にある、「教育熱心な親が子弟を通わせる」幼稚園だそうだけど…ぼくは、そこに行くことになった)。
タイミングとしては良い時期だった。
「オイル・ショック」の直前。「日本列島改造計画」なんてものがブチ上げられ、世の中が好景気に沸いていた頃だ。大したレースでなくとも、優勝者に外国製エンジンが賞品として提供されたりしていた。
そして…「学校の勉強はちゃんとすること」が条件だった。
(でも大丈夫。ぼくは「勉強しない事を自慢する」ような人間じゃない)。
ラジコンはしょせんオモチャだけど、カートは違う。
(とにかく父は、『モーター・スポーツ』を、「スポーツ」として認めてくれたという事だ)。
ぼくの初めてのカートは、イギリスの老舗“ZIP”社の入門モデル「スカンジナビアン」に決定。
そしてぼくは、そのチームの「みそっかす」となった。
ちなみに前述のT子さんとは、そのすぐ後の晩秋の頃、ケリがついた。
『こんなこと、だれにも相談できないよ』
「天才ほどよく悩む」なんて言うけれど、確かにそうかもしれない。ただし、悩む次元が違う。
それにぼくは、まだ大した人生経験も無いくせに、「悩み」だの「悩む」だのなんてセリフを口にする奴が、大嫌いだった。
そしてぼくは一人でも…いやむしろ、一人で事を起す人間だったし、自ら望んだ事は、白黒はっきりさせなくては、気の済まない質だった。
「行動あるのみ!」
ぼくは決心した。
でも、どうしてあの時期だったのか…? T子さんを想い始めて四年近く。気分的に煮詰まってきたから?
とにかくぼくは、生まれて初めて「ラブ・レター」を書いた。
『いったい何を書いたのか?』
ロクに下書きもしなかったので、内容はまったく思い出せないけど…。そしてぼくは、早朝、ソイツをT子さんの家のポストに投げ込んだ。
(T子さんの家までは、徒歩で10分もかからない。住所を調べるより、そっちの方がよっぽど手っ取り早い)。
数日後の放課後。ぼくはT子さんのクラスの女の子に呼び出される。用件はわかってる。自分で蒔いた種だ。
一階と二階の間。西陽の差し込む階段の踊り場。木造校舎がすべて取り壊されて、すっかり新しい校舎になった頃。
T子さんは、ひとりで来てくれた。二階の方から降りて来た。
「手紙くれた?」
『うん』
ぼくはうなずく。小学校四年のクラス替えで別々のクラスになって以来、今まで・ひと言も言葉を交わした事がなかった。
しばしの沈黙のあと…
「好きじゃないの。ごめんなさい」
彼女はそう言うと、クルッときびすを返して、二階に走り去った。
「…無言…」
ぼくの四年越しの「初恋」は、そこで終わった。
(あとで知った事だが、あの頃T子さんは、ひとつ年上の、同じ「合奏部」のセンパイと付き合っていたそうな…)。
でもぼくは、なにも後悔していない。やるだけの事はやったのだ。
はっきりと言ってくれた彼女に、むしろ感謝の気持ちが残った。