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DAWN

作者: 藤田緑

長く退屈な一日がようよう終わり、新宿駅から埼京線に乗って、赤羽で京浜東北線に乗り換えた。私の住む小さなマンションは赤羽から荒川を越えて三つ目の蕨市にあり、駅から徒歩十分の好立地だ。東京には家賃が高くて住めなかった。都内でペット可のマンションになんて、ハケンの分際で住めるわけない。ここだって私の給料じゃぎりぎりなのだ。

 蕨市の巨大な団地にはクルド人のコミュニティーがあり、通称「ワラビスタン」と呼ばれ、駅前通りを歩いていると、異国の不思議な言葉たちが風に乗って聞こえてくる。日本人より外国人の方が目立つような国際色豊かな街で、職場とは別世界に居るようで気分が変わり、結構気に入って住んでいる。

 マンションの鍵を開けてドアをそっと小さく開くと、ドアのすぐ内側にもう犬の鼻先があった。外で大声を出すと隣近所から文句が来るので、私は小さく開けたドアの隙間に急いで体を滑り込ませた。

「ジェリー、だめじゃんまたー。玄関に降りたらだめっていつも言ってるでしょ」

 声を弾ませながらも、犬に通じるはずがないのにと、自分で自分が可笑しくなる。私の愛犬ジェリーは雄のビーグルで十三歳。田舎の実家で飼っていた犬を、上京する時に無理矢理連れてきてしまったのだ。1DKの狭い部屋に閉じ込めるのは忍びないと思いつつ、ごめんごめんと心で詫びを入れながら、一人と一匹暮らしを続けているのだった。

そのジェリーが昼夜逆転して夜中に徘徊するようになり、やがて夜明け前に散歩に連れて行けと騒ぐようになり、どうしたことかと医者に診せたら認知症ですねとあっさり言われてから、もうかれこれ一年が経つ。医者に勧められるままに鎮静剤やサプリメントを試したが、ジェリーには全く通じず、夜中の徘徊を経て明け方の散歩までの時間を、私はうつらうつらとしながら耐え、万年寝不足の状態だった。

テレビのお笑い番組を見ながら夕飯をたいらげ、ジェリーを膝に抱いてネット配信の海外ドラマを見た。私の至福の時だ。これがあるから明日も頑張れる。ご飯はなくても良いが、海外ドラマとジェリーがいなければ一日を終わらせられない。

三日程前の、社員の金沢との会話を思い出した。金沢は廊下で私を呼び止め、非常階段の扉の外へと押し出した。他の社員に見られることを恐れているのだ。

「今度映画でも見に行かない? おごるからさ。食事もおごる。ハケンって金ないんでしょ?」

 額に汗を浮かべて早口で囁く。まるで私に恵んでやるとでも言いたげな口振りだった。人を物乞いか何かと思っているのだろうか。金沢に恵んでもらうほど落ちぶれちゃいない。彼の普段の仕事振りはハチャメチャで、しかもその尻拭いは全部ハケンに回って来くるのだ。社員の間で何と言われているか知らないが、尻拭いが自分たちに及ばない限りは害がないと思っているのだろう。私の直属の上司の遠藤さんも見て見ぬふりだし、苦しむのは私たちというわけだ。そして金沢は自分のミスの後始末をするのが、絶対に文句を言わないハケンなことに安心しきっていて、いくらでも大手を振って次から次へと私たちに無茶振りをしてくる。

「いえ、結構です」

 私も囁くような声で答えて口元に無理矢理薄い微笑みを浮かべてみせた。こいつには吐き気がするが怒らせたくはない。

「でも映画なんて見られないでしょ。飯もおごってやるって言ってんのに」

「見られないことはないですよ。ご飯も食べてますから大丈夫です」

 非常階段の上の階から女性社員が数人音を立てて降りてくる気配があって、それを見てあろうことか彼は逃げ出した。話の途中で突如向きを変え、階段を駆け下りて行ってしまったのだ。社員がハケンを誘うなんて不名誉なことなのだろう。金沢の立場じゃ尚更だ。私は唖然として立ち尽くしていた。

 ジェリーの頭を撫でてやりながら、彼の横暴をハケン仲間の大塚さんに相談しようかどうしようかと考えたが、少し迷ってやめにした。金沢との関係を今後どうするのか私自身決めかねてしまっていたからだ。付き合うというのは最悪だが、少し利用して金を使わせてやるのもいいかもという誘惑に負けそうになって、慌てて自分の弱い心を叩いた。最低だ。でも遊びたい。思いっきり遊んでみたい。お酒も飲みたい。毎月ぎりぎりの生活の中で、私は娯楽に飢えていた。奴と付き合って、もし大塚さんや他のハケン仲間にばれたら、呆れられて見捨てられるかもしれない。ここは黙っておいて、自分で対処した方がいい。

 ユニットバスでシャワーを浴びて十一時に布団に入った。ジェリーが布団に潜り込んできて足元にうずくまる。初夏なので夜でも蒸す上、犬の体温は高いので相当暑い。うつらうつらして一時間もすると、ジェリーが布団から出て部屋の中をぐるぐると歩き始めた。何が匂うのか隅々までくんくんと嗅ぎ回りながら移動している。私はジェリーに布団に戻るよう呼び掛けたが、効果はまるでなく、眠たさに負けて放置した。三時間ほど眠っただろうか、気が付くと犬が私の身体の上を転げ回っていた。

「ジェリーやめて」

 私は犬を手で払い除けた。すると今度は私の頭部の方へ来て、髪の毛を前足で引っ張り始める。伸びた爪が頭皮に刺さってすごく痛い。うめき声をあげながら枕元のスマホを見ると午前三時だった。明け方の散歩の時間だ。ジェリーの朝の散歩の催促はいつでも信じられないほど正確だった。

 私は溜息を吐いて起き上がり、ジャージとTシャツに着替え、ちょっと考えて薄手のパーカーを羽織り、パーカーのポケットにスマホを押し込んだ。まだ暗い中の未明の散歩は何が起こるかわからない。緊急時のために、スマホは欠かせなかった。ジェリーの首輪にリードを着けて、サンダルを履き、音をたてないように気を付けながらドアを開け、細心の注意を払ってそっと鍵を閉めた。私の部屋は一階の隅にあるからすぐに外へ出られる。

 ジェリーは勢いよく走りだして、三叉路の角の電信柱で長いおしっこをした。その間私は眠い目を擦りながら周囲の暗闇を見遣っている。星の見えない夜だった。夜目にも雲が分厚く垂れ込めているのがわかる。街灯の薄明りで雲がゆっくりと移動する様を放心して眺めた。マンションから三分程の所にあるスーパーの、敷地の外の草むらでジェリーがしばらく草の匂いを嗅いだあと、私たちは敷地内に入った。車が通れるように広くスペースを取った空間はがらんとして、昼間の人出が嘘みたいに静まり返っている。

 突然、ジェリーがスーパーの軒先に向かって走り出した。この犬は躾が悪くていつも好き勝手に走り出すので全く気が抜けない。ヴァウヴァウと高く響く犬の鳴き声が未明の闇に響き渡った。ジェリーが走り寄った軒先から何か黒いものが動いて私は小さく悲鳴を挙げた。ジェリーが飛び掛からないようにリードを強く引いていると、長く黒いものが起き上がった。人間だった。黒っぽい毛布に半身を突っ込んだまま、背中をスーパーの搬入口のシャッターにぴたりとつけて、やけに静かな目をしてこちらを見ている。無言だった。

「すみません」

 私は咄嗟に口走ってジェリーのリードを無理矢理引っ張り、背を向けて足早にその場を立ち去った。心臓がまだバクバクしていた。短髪に濃い眉が見えた。まだ若そうな男だった。何でこんなところで寝てるんだろう。そうかホームレスか。私は男の浅い眠りを邪魔してしまったのだ。

 三十分ほど散歩してマンションに帰り、ジェリーに朝ご飯を食べさせてから、少し眠った。切れ切れの睡眠が昼間の眠気を増幅させる。それでも耐えなければならない。ジェリーと自分、何とか生きていくために働かねばならないのだ。私がいくら働いたところで、何の役にも立たないし、誰のためにもなっていないだろう、それを思うといつも悲しかったが、ジェリーを放り出すわけにはいかないのだから、這ってでも仕事に行くのだ。この生活にもそろそろ限界が近づいていた。


「この書類をスキャンして共有フォルダに入れておいて」

 上司の遠藤さんがA4サイズの紙を数枚、机の上にはらっと置いた。

「これから全体会議で30分ほど消えるから」

 ずり落ちたマスクを鼻の上にあげてから、くるっと背を向けた彼女の長い黒髪から、ヘアムースのフローラルが一瞬香った。5センチヒールの踵をコツコツと軽快に鳴らして歩み去って行く。黒いタイトスカートの尻が一歩毎に左右に浮き上がるのが、女の私から見ても妙に艶っぽかった。

 広いオフィスは静まり返っている。社員が消えた室内には数人のハケンが取り残されたが、こんな時こそお喋りに興じる絶好の機会なのに、社員が会議に行ってしまうと決まって皆無口になる。何か言いたそうなのに言わない、言えない、押し潰されたような空気があって、声にならない声がこだまして、沈黙の気配は濃厚だった。

 会議って何を話すんだろう。何の議論なんだろう。私も人生で一度くらい、「これから会議だから」って言って消えてみたい気がするけど、一生言う事はないんだろうな。

 コピー機で書類をスキャンに掛けていると、会議室の方からどっと笑い声が上がった。何がそんなに可笑しいのか。一瞬妬ましさが込み上げて、そんな自分に屈辱を感じた。私は群れるのが嫌いだ。孤独を愛しているのだ。そんな自分に合っていると思ったのがこの仕事じゃないか。いちいち疎外感を感じていたらハケンなんてやってられない。だが最近は仕事もヒマで、ほとんどやることがなかった。こんなに毎日放っておかれたら鬱になる。自分たちが忙しい時だけ都合良く使って、仕事がないと知らん顔しててもいいと思っているのだ奴らは。機械じゃないんだから、私たちだって生身の人間なんだから。

 以前、夜中にツイッターを眺めていたら、ハケンの中年女性が「会社で男性社員の人たちにどう見られているかとても気になる」なんて呟いていて、馬鹿なことをと思っていたら、「全く気にしてないです」と即座に反応があり、そのコメントに追随して同じ「気にしていない」云々のコメントが、自動入力されたコピペみたいに画面に次々湧いて出てきて怖くなった。これはあれだ、誹謗中傷ってやつだな、誰かが投稿すると、俺も俺もと参入してくるが、罪の意識はないのだろう。私たちは空気みたいなものなんだから存在を主張しちゃいけないのに、この彼女イタ過ぎる。

 空気、そう、空気ってことは人間じゃないってことだ。東京五輪のおじさん政治家が女性蔑視発言とかして話題になってたけど、あれだって私は鼻白らんだ。怒りの声を挙げたのは、安定した生活を営み、世間に向けるべき「顔」のある女性たちだけで、「空気」である私たちはその女性の仲間入りすらできない、女性以前というわけだ。人権、人権って言うけど、ハケンの人権について誰か考えてくれる人はいないわけ? 人種差別とか表現の自由とか民主主義とかとか気候変動とかジェンダーギャップとかサステナビリティとか、難しい言葉ばかり並べてるけど、その中にはどうやらハケンの人権についての項目はないらしい。何故だろう? とそこまで考えたところで終業のチャイムが鳴った。

「お疲れさまー」

エレベーター前でぽんと肩を叩かれて振り向くと、大塚さんが大きな黒縁眼鏡をずり上げながら笑っていた。大塚さんは私と同じ三十五歳独身女で、地方から上京してきて一人暮らしの境遇も似ているので、なんとなく仲良くしている。大塚さんは明るくて今日も元気いっぱいに表情筋を上げて、仕事中のちょっとした出来事やら好きなタレントの話やらしているけれど、本当は何を考えているのかわからない。私たちはその気になれば、生活不安や将来不安、ハケンの抱える日陰者の陰鬱な気分を共有できるはずなのに、彼女はそういった事柄は一切口にしない。

いや、彼女だけではない、この会社で働くハケン数十人の誰一人として、自分たちの置かれたセンシティブな状況について、決して口にはしなかった。その空白が逆に危機感を際立たせているような気がするのだが、誰も言わない限り、私も口にするわけにはいかなかった。いっそ開き直って大塚さんに苛立ちをぶつけてみようかと思う時もあるが、たちまち引かれてしまうのはわかっていた。空気の読めない人になるのだけは避けなければならない。

 ダイレクトメールの封入作業に人が足りないと言われて応援に行き、ハケン仲間とわいわい作業に勤しんでいたら、金沢が三列くらい離れた自席のパソコンの陰から、こっちを見ていて目が合ってしまった。ああ、金沢。彼のことを忘れていた。金沢を利用するだけして遊ぶ計画を立てようと思っていたのに。誰にも知られないように密かに。その時ふいに、明け方のホームレスの男の顔が頭に浮かんだ。今夜も彼はあそこで寝ているだろうか。よし今夜の散歩時に、またスーパーの軒先に行ってみよう。何だか急にワクワクしてきて、私は張り切って手を動かし、単調な封入作業に没頭した。


 その日の夜明け前、ジェリーに起こされ、私は重い瞼を擦りながら、パジャマから服に着替え犬を連れて外へ出た。この時間帯の夜気は涼しく、肌に心地良かった。私はジェリーをスーパーの敷地内に引っ張って行って、搬入口の軒先を覗いてみたが、そこには誰も居なかった。私に見られたことで彼は寝場所を変えてしまったのだろうか。気乗りしなかったお見合い相手にすっぽかされたような妙な気持ちで、私は手早く散歩を終え、家に帰って寝た。その日から私のホームレス探しが始まった。

 毎日、昼間は適当に働いて金沢を適当にいなし、今夜起こることを期待して家に帰った。いつもより早目に床に就き、ジェリーが私の上を転げ回り始めると、期待を込めて目を覚まし、犬を連れてそっと家を抜け出す。未明の世界は昼間の気怠い空気を償うように冷たく冴え渡り、夜の底に沈み切っている。私はスーパーの敷地内を歩き回り、灯りの消えた自販機や、駐車場のカート置き場の陰、敷地内をぐるっと囲む植え込みの間などを丹念に見て回った。冷蔵庫の巨大なモーターがジージーとなる音だけが、暗闇に響いていた。四時を過ぎると明るくなってしまうので諦めた。夜が明けた途端に世界はリアルを取り戻して、目の前に無情に広がっていく。

五日目の明け方、屋上駐車場へと続くスロープの入口に差し掛かるとジェリーが吠え始め、黒い人影がさっと起き上がった。足元には小さなリュックがひとつ投げ出されている。リードを引きながら私が軽く会釈をすると、前回会った時は静かだった目に微かに怯えの色が走った。私ははっとしてすぐその場から離れた。彼は人に見られるのが嫌なのだ。人に見られると男は場所を変える。人目を避けて存在を消したいのだ。つまり彼は無だ。「空気」だ。私と同じだ。空気であることを耐え難く感じる私は、自尊心が強いのだろう。男が「空気」であることをどんな風に感じているのか無性に知りたくなった。

 次の日も、その次の日も私は彼を探し回った。屋上へ続くスロープにはもう男は居なかったし、搬入口にも居なかった。また姿を消してしまった。よし、それなら捕まえてやろう。危害を加えるわけでもないのに、逃げ出すなんて失礼ではないか。こうなったら絶対捕まえてやる。ジェリーをけしかけてちょっと驚かせてやってもいい。そう思ったらなんだかぞくぞくした。

 次に男を見つけた時には、男はスーパーの表側に回って、灯りの消えた玄関の軒先の植え込みの陰に倒れるように寝転んでいた。凶暴なジェリーが駆け寄ってヴァウヴァウヴァウと高い声をあげた。ジェリーに吠えられて彼は気弱そうな苦笑いを浮かべ、毛布を引っ掴んで走り出した。その背中を見て、思わず呼び掛けそうになった。男と切実に言葉を交わしたくなっていた。昼間の派手なネオンサインの消えたスーパーの表玄関から、人けのない店内が奥まで見通せて、その無人さに気の遠くなるような思いで、この刹那の寂しさをあの男と共有できないことが無性にもどかしかった。


 一週間後、私がカレーパンを二つ用意して、男探しに臨んだ日、最初の日と同じスーパーの搬入口の軒先で男を首尾よく発見した。ジェリーに吠えられて、彼はすぐさま毛布とリュックを掴んで立ち上がった。

「待ってください」

 ポケットからカレーパンを取り出して男の鼻先に突き付けた。

「朝食を一緒に食べませんか」

 男はふいを衝かれたように押し黙って、じっと目の前のカレーパンを見詰めている。

「一緒に食べようと思って探していました」

 男の黒々とした目が私の目を初めて覗き込み、私はたじろいで瞬きが早くなった。背丈は私より頭ひとつ上で、痩せた体に黒っぽいTシャツとよれて皺になった萌黄色のジャージが張り付いていた。顔は蒼白で、太い眉の間に皺を寄せて真剣な顔でカレーパンを凝視している。

「毒なんて入ってませんよ。ほら、私も食べます」

 ポケットからもう一つのカレーパンを取り出して、振りかざしてみせた。その時、男の低い声音が聞こえた。

「ありがとうございます。でも人に恵んでもらいたくないんで」

 男の声が聞けたことに何だか感動して、私はしばし嬉しさを噛みしめて黙っていた。逃げられないように慎重に言葉を選ぶ。

「恵むつもりなんてないですよ。一緒に食べたいと思っただけ。私もこんな時間に犬の散歩なんて小腹が空くといつも思ってたんで。食べるきっかけを探していたんです」

 その時ふと、学生時代に行ったモロッコで、道端に蹲る母子の前に小銭を置いていく人々の姿が頭を過ぎった。イスラム教では持てる者が持たざる者に恵みを与えるのを「喜捨」と呼んでいて、施すことで徳を積むことができると言われている。貰う方も当然の権利としてお礼も言わずにそれを受け取る。何も考えていなかった私は、周囲に従って一緒に小銭を与えていた。だがあれは私にとってまさに恵みの感覚だった。ではこれは? このカレーパンは何になる? 金沢の下卑た笑いが頭を掠めた。

 私はよくわからなくなって、ジェリーのリードをそろそろと手繰り寄せて手の平に巻き付けてから、男の傍らに行って黙って腰を下ろした。ジェリーは大人しくなってアスファルトの上に腹ばいになっている。

 男はしばらくためらうように私を見下ろしていたが、やがてそっとその場に腰を下ろした。両膝を立てて腕を足の前で組んだ姿勢で俯いている。私は逡巡するのをやめ、頭を空にして思い切ってカレーパンを差し出した。

「どうも」

 男は軽く会釈して受け取った。両手にカレーパンを握ってしばらく見詰めている。私は男に構わず自分の分の袋を破ってパンに噛り付いた。

「結構おいしいですよ。コンビニのだけど」

「はい」

 男は私の手元を横目で見遣ってから、おもむろに袋を破って口を付けた。男の突き出した喉仏が上下するのを確認してから私は言葉を継いだ。

「眠る場所、毎日変えてるんですね」

「人に見られるのが嫌なんで」

「昼間はどうしてるんですか」

「駅に居ますよ」

「なるほど」

 男がカレーパンを咀嚼する音が闇に響いている。不快さはなかった。

「外で眠るってどんな気分ですか?」

 言ったそばから、頭の中にまずいという言葉が点滅したが、後の祭りだった。男は食べるのを止め、気まずそうに黙り込んだ。

「あ、別に答えなくていいから」

「楽しくはないですよ」

 男が突然私に向き直った。

「なんでこんなことするんです?」

「なんでかわからない。なんとなく」

「別に同情してもらわなくていいんで。俺は平気ですから」

 カレーパンを食べ終わった男は空になった袋を持て余し、ジャージのポケットに突っ込んで、膝の上の屑を払った。

「同情なんかじゃないんです」

 自分とどうやら同年配らしい男に敬語を使うべきかタメ口をきいてよいのか迷いながら、私は慌てて否定した。

「じゃ、何です?」

「ただ、何て言うか、喋りたいと思ったから」

 男が私の横顔をじっと見詰めているのを感じて私は緊張した。

「家はないんですか?」

「はい」

 しばしの沈黙の後、男がポツリと呟いて、また腕を足の前で組み、膝の上に顎を乗せた。その防御にも見える姿勢を見て、男がまた押し黙って口をきいてくれなくなるのを私は恐れ、言葉を継いだ。

「うちで良ければ寝てもいいけど。シャワーも一応浴びられますよ」

 我ながら自分の言葉が信じられなかったが、言ってしまった後はそのアイディアに胸がざわついてきて、私は期待を込めて男の顔を見た。神経質な私は、いつも除菌シートを持ち歩き、液体のアルコール消毒に加えて、何かを触る度に除菌シートで手指を拭う生活を続けていて、安全に寛げるのは自分の部屋の中だけだと思っていた。その部屋に見知らぬ男、しかも路上で寝ている人間を入れようというのか。そんなことをしてどうする? でもその思い付きは私の頭を痺れさせ、私は思考停止に陥った。

 顎を膝に埋めている男の表情は見えなかった。頭が僅かに左右に揺れているように見えた。たっぷり二分は経過したと思われる頃、男の低い声が響いた。

「どうしてそんなことを?」

 私は迷って今の自分の気持を表す言葉を必死に探したが、何をどう言ってもわかってもらえない気がした。

「何て言うか、誰かに家に居てもらいたいんです」

「俺は自分のことは喋りませんよ。喋りたくない」

「いいですよ、別に。警察に届けたりしないから」

 私は立ち上がり、ジェリーのリードを少し緩め、男を促して歩き始めた。振り返ると男がゆっくりと立ち上がり、毛布とリュックを手にするのが見えた。私は内心ほくそ笑んでスーパーの敷地を出、マンションに向かって歩いた。男がだいぶ距離を取ってついてくるのが見える。自分でも何をしようとしているのかわからなったが、不思議と怖くはなかった。ただ嬉しさだけが込み上げて、玄関先でジェリーの足を拭くと、男を部屋の中に招き入れた。

 シャワーを浴びている間に布団を敷くからと男を促し、ユニットバスの使い方を説明してタオルを胸に押し付けた。男は無言で毛布とリュックを上がり框の隅に置くと、大人しく私の指示に従ってユニットバスに入った。暫くするとお湯を流す軽快な音が聞こえてきた。私は急いで自分の布団からできる限り離した位置に薄い布団を敷き、シーツで覆って夏掛けを用意した。男が入った時のままの服装で、濡れた髪をタオルでごしごし擦りながらユニットバスから出てきた。

「お名前は?」

 黒目がちな目を真っすぐ私に据えながら男は何も答えない。名乗らない気だ。無理もない。

「私は末永真希といいます。よろしく」

 努めて明るく言うと、初めて男は唇の端を軽く上げて笑顔に見えなくもない表情を作った。

「シャワーをどうも」

「いいえ」

 ジェリーは四肢を張って突っ立ったままポカンと男を見上げている。二人だけの空間だった部屋に入り込んだ闖入者に、吠えるのも忘れて見入っている。私は男に布団に入るよう促した。


 夢の中で、私はテレビを見ていた。これはどこかで見たことある。そうだ、数日前にテレビのニュースで見ていた光景か。新宿駅の南口で、通りに見知らぬ男が一人あぐらをかいて座っている。赤いパンツ、白い長袖シャツ、頭にはニット帽。目立つ服装だ。顔は俯けていてよく見えないが服装からして若そうだ。両手を挙げて段ボールの板を一枚掲げている。黒いマジックで殴り書きされた文字。「いろいろ困ってます。助けてください」。忙し気に通り過ぎる人々はほとんど見向きもしない。新宿はいつも忙しい街だ。時々、そう百人に一人くらいが、彼の前に置かれた空き缶の中に小銭をそっと入れる。中には千円札を入れる人もいる。サラリーマン風の男たちや綺麗に装った女たち。行政が助けられるので支援を受けるようにとテレビは伝えている。あれは施しではないな、単純な好意だ。でも施しに見える。私なら入れるだろうか、と私はテレビの画面を見ながら考えている。入れないだろうな、私は通り過ぎる百人の中の一人だろう。何だか寝ているのに起きているみたいな感覚だ。それにしても気持ちがいい。

 七時のアラームで私は飛び起き、テーブルを隔てた向こうに敷いてある布団に夕べの男の伸びた姿を認めると、しばらく放心したが、やがて嬉しさが込み上げてきた。

 着替えてからコーヒーメーカーでコーヒーを淹れてトーストを焼き、ヨーグルトを二つの器に分けた。私が張り切ってささやかな朝食の支度をするのを彼は見ていたようで、私が目を遣るとむっくりと起き上がった。

「私は仕事があるので先に食べちゃうけど、コーヒーを温めてあとでゆっくり食べてください。それからその服は汚れてるから洗濯機に入れておいて。それからお昼には冷蔵庫のもので好きなものを適当に食べてください。インスタント麺もそこにあります」

 私が電子レンジの上の棚を指差すのを男は視線で追ってから「どうも」とまた軽く頭を下げた。

「仕事から帰るのは大体六時半頃だと思う。それまでテレビでも見てゆっくりしていて。晩御飯は私が買い物をしてきて、何か適当に作るから。そうか、買い物があるから帰りは七時頃になるかな。我慢できなかったら晩御飯も適当に食べていいけど、そんなに食材ないし…」

「どうか」

 私が喋り続けるのを男が手を挙げて遮った。

「どうか、もうやめてください。わかりましたから」

「はい」

 喋り過ぎたかと後悔しながら、私はショルダーバッグを肩にかけて、ジェリーの頭を撫でた。

「この犬と仲良くやってくださいね」

 男は横を向いたまま答えない。私は仕方なく靴を履いて玄関を出て鍵をかけた。一体何をやっているんだ私は。こんなにも大胆な人間だったっけ。

 その日は一日中仕事が手につかず、大塚さんの問いかけには上の空、エレベーターを降りた所に居た金沢の手招きも無視して駅へと急いだ。家の近くのスーパーで食材を物色してカレーライスとサラダの夕飯を思い付き、手早く買い物を済ませてマンションの扉に手をかけると、鍵は閉まっていなかった。ジェリーが飛び出してきたが、男の荷物や靴はなくなっており、部屋の隅に布団がきちんと畳まれ、テーブルの上はキレイに片付けられていた。

ああ、やっぱり。行ってしまった。私は泣き出したい気分で食材を床の上に置き、ペタっと座り込んだ。何が悪かったのだろう。世話を焼かれるのが嫌だったのか。私はただ、あの人にここに居て欲しかっただけだ。あなたも一人なんでしょうと、叫びたくなるような相手に、傍に居て欲しかっただけなのだ。ひどく憂鬱な気分になって自分を恨み、投げやりな気持ちを抱え、流しの脇のかごに、洗われ積まれた食器たちを憎んだ。


 遠藤さんがメールで指示してきた仕事は、またもや単調なデータ入力だった。私の存在を時々思い出すだけでも、遠藤さんは他の社員よりまだマシな方だ。完全に忘れられ、二週間も放って置かれるハケンも中には居るのだ。一日のうちたった三分の一なのに、永遠にも感じられる八時間労働を機械的にこなしながら、頭の中には常に出て行った男の顔がちらついていた。私はもしかしたら、一人の人間の気持を深く傷つけたのかもしれない。普段から人一倍傷つきやすく、毎日毎日、五分に一回は傷ついている私が、人の痛みがわかると思っていた私が、名も知らぬ人の、一晩部屋に泊まってくれた人の、尊厳をひどく傷つけた。彼は驚き呆れているかもしれない。やはり私がすることが、他人への施しのように彼の目には映ったろうか。いや、断じて違うのだ。私は彼と同じ「持たざる者」だ。空気だ。

ひょっとして、私は弱く薄く儚く、何も持っていない自分が嫌で、自分より弱い者を助けることで、失った自尊心を取り戻そうとしたのか、優越感に浸る快感を得ようとしたのではないか、という自分に対する不信が頭をもたげた。私のしたことは自己肯定感を得るための単なる偽善に過ぎなかったのか。偽善と慈善。ネットで調べるまでもなく、違いは明らかだ。偽物の善と慈しむ心。他人を助けることで快楽を得、幸せになろうとすることを、私は蔑んでいたはずだ。それなのに。考える前に体が動いて口が喋ってしまっていた。傲慢で身勝手な振舞いだったろう。それともその無邪気さが男を傷つけたのか。

 彼は施しを受けたと思ってプライドがずだずだになったのだ。もう立ち直れないかもしれない。二度と人を信じず、ますます人を遠ざけるようになったかもしれない。そしてその原因は私が作ったのだ。私の仕事も人生も、夢見た理想とは遠くかけ離れてしまっていた。日々の張り合いも未来への展望もない。せめて一人になることから逃れようとして、行動を起こしたことの結果がこれだ。どこかに、何かに寄り掛かりたいが何もない。弱すぎる。最悪だった。存在が無く、ものの役にも立たない上に、無遠慮に人の心まで切り裂く偽善者なんて。もう情けなくて恥ずかしくて生きてはいられない。生きていたってつまんない。この世から消えてなくなりたい。息をするのも苦しい。

 でも消えてなくなる前に、男にひと言謝りたい。謝らせてくれるだろうか。もう二度と口をきいてくれないかも。あのスーパーにはもう現れないかも。私は結局、彼の安息の場所を奪った単なる略奪者に過ぎなかったのだ。

再び男を傷つけることになったとしても、私はまた強烈に男に会いたくなっていた。


 定時の六時を過ぎて、エレベーターでロビーに降りたら、またもや金沢が私を待ち構えていた。早く帰りたくて気持ちが急いていながら、彼に腕を掴まれると抵抗できず、エレベーターの陰の通路に連れて行かれた。

「末永、なんで俺と口きいてくんないの?」

 掴んだ力が強くて、私は思わず「痛い」と声を漏らした。

「別にそういう訳じゃないけど。でも金沢さん、私と話す時、いつも隠れますよね?」

 金沢が腕を離して押し黙った。破裂しそうな心と頭のせいで、私は言わなくていいことまで口走った。

「会社の人に見られると困るんですよね?」

「この会社に俺の居場所はないんだ。俺のことなんて誰も気にしちゃいないけど、ハケンにちょっかい出してるのバレたらさらに呆れられる。わかってくれよ。俺を助けてくれよ」

 そうなんだ。この人にも居場所がないんだ。可哀相に。自分の居場所を持っている人を、私はほとんど知らない。ふいに世界中の人々が、誰かに助けを求めて両手を空に突き出している様が頭に浮かんだ。

「助けられないけど、よくわかりました」

 私は手を伸ばして彼の肩に手を乗せ、軽く二、三度叩いた。今の私にできる精一杯の励ましのつもりだった。

「私がよくわかったということを、どうか覚えていてくださいね」

 金沢に背を向けて走った。彼が私に話しかけてくることはもうないだろうという気がした。


 再び夜中に彷徨い歩く日々が始まった。三時にジェリーに起こされる前、二時にはアラームをセットして起き、寝ているジェリーを叩き起こしまでして外へ出た。スーパーの敷地内をくまなく見て回っただけでなく、敷地外も住宅街も、駅にも行ってみたが、男の姿は無かった。気の滅入るような霧雨の夜には、頭から雨に濡れながら、空を見上げる男の姿を想像して胸が苦しくなった。

 十日程経ったろうか。大通りに面したカフェ裏の灯りの消えた軒先に、ジェリーがさっと走り寄った。今度は吠えなかった。黒い物体がむっくり起き上がり、黒目がちな双眼が私を見上げた。

「あっ」

 探していたくせに、いざ見つけたとなると驚いて、緊張のあまり私は思わず後退った。

「こんばんは」

 思いがけない明るい張りのある声が響いて耳を疑う。

「あのう」

「この前はありがとうございました。すっかりお世話になっちゃって」

「そんなこと」

「ちゃんとお礼を言わなくちゃと思ってました。見つけてくれてありがとう」

 言葉が出なかった。男に感謝されている。では私に怒っていたのではなかったのか。私を信じてくれていたのだろうか。本当に? 胸に黒く渦巻いていた潮がすっと引いていく。涙がひと筋、頬を伝って顎から零れ落ちた。

「ひどいことをしたんじゃないかと思ってたんですけど」

「なんでですか?」

「だって」

 私は涙を手の平で拭った。

「あなたのことを傷つけたと思って」

 男は驚いたように目を見開いた。

「傷ついてなんていないですよ。嬉しかったですけど。どこの誰ともわからない人間を家にまで入れてくれるなんて」

「私がそのう、上から目線だったかなって。別にあなたを助けたかったとか、そんなんじゃないんです。人を助けたりなんてできない。そんな人間じゃないんです。うまく言えないけど私とあなたは同類だと思ったから。知り合いになれないかなって思っただけなんです」

「恵んでもらったてこと? 最初はそう感じたけど、思い直しました。俺の方で人の善意を受けられるような人間じゃないなって思ったんで」

「そんなことないです。それは私です」

 私と男はしばしの間、薄闇の中で互いに見つめ合った。ふーっと安堵に似た長い溜息が我知らず口から零れた。

「少し座ってお話していいですか」

「どうぞ。ここで良ければ」

 男は自分の隣のアスファルト上を軽く叩く。私はジェリーのリードを手繰ってから男の隣に腰を下ろした。そして私たちは話をした。いや、私が話をして、男はひたすら耳を傾けてくれた。現在の仕事の不満や不安定な生活のこと、あなたを傷つけたと思って、死にたいと思うほど自己嫌悪に陥っていたこと。あれからずっとあなたを探し回っていたこと。謝りたいと思っていたこと。

「死にたいなんてなんで末永さんが? よく言うなあ。でももし死にたいなら俺が一緒に死んであげますよ」

 男が軽く微笑んで腕を組んだ。両脚は毛布の上に投げ出されていて、ひどく寛いだ様子だ。こんな姿は初めて見る。一緒に死んであげる? 死にたくなったら、この人が一緒に死んでくれる? 嬉しいような照れ臭いようなこそばゆい感情が胸に湧いてきて、急にテンションが上がった。

「ううん、死なない。そう言われるとかえって生きてたくなるな」

「何ですかそれー」

 思いっきり笑ったら、笑い声が男の笑いと重なり、低音と高音の綺麗なハーモニーを作って闇に吸い込まれていった。連なる屋根の上に広がる空が白っぽくかすみ始め、小鳥の囀りが聞こえてきた。東の彼方から一条の光が差し込んできて、私たちの顔を照らした。世界が再び輝き出した。私は一瞬、幸せだと思った。

 




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