0.プロローグ
昔、祖父から聞いたことがあった。
この世界には魔道書と呼ばれる書物が存在すると。
世界の三割程しか存在しないという『魔力』を持つ人種の中でもさらに稀有な能力と異常とも言われる魔力量を持った魔法使いが、自身の知恵と魔力と命を懸けて作り出した魔法使い自身ともいえる代物。
書物の力は様々。大きく分類すれば攻撃に特化した物や防御に特化した物、回復に特化した物などそれぞれある。
天才が作りし書物とはいえ性能も三者三様に違う。いわゆる失敗作と言われる使うことすら出来ないものから、死者を生き返らすことの出来ると噂される奇跡の産物と様々。もし手にすれば世界を支配出来るらしいと大げさな物まであるとか。
それらは書物と銘打っているが、全てが書物の形にとどまっているというわけではなく様々な形を取ることがある。
例えば剣のような武器、例えばネックレスのようなアクセサリー、例えば水晶のような宝石。
例えば――。
(嫌だ、死にたくない……)
ガラスの破片で切ったのか、左腕から流れる血で服を朱色に染め上げる金髪の少女が痛みで呻き声を上げながら壁に体を寄りかからせた。出血が多いせいか視界がぼやけ頭がくらくらする。
いや、そのせいだけではない。呼吸と共に吸い込む咽るほどの煙と、目の見える範囲全てで上がっている火の手が少女の酸素を奪っていく。
だが意識が朦朧としかけているものの、この舞い上がる火の粉の中を自力で逃げられないこともない。
――だが、それは出来ない。
ただの火事ならば怪我覚悟で近くにある窓を割って外に飛び出せば最低限の安全は確保できるし、助けを呼んでこの炎を消火する手立ても得られる。
しかし少女のすぐ傍には煙を多く吸い込んだのか意識の無い父と母が倒れ、そして姉がまだ家のどこかにいるはずなのだ。
家族を置いて自分だけ逃げるわけにはいかない。それでも怪我をしていようが力ずくで両親を窓から外に出し、その後姉を探しに行く方法は混乱する中でも考えに考えた。時間がかかる分姉の身が心配でならないが、考え得る中でも最善の手段。
――だがそれも叶わない。
怪我をしているから? 非力な少女だから? 時間がかかるから?
そんなものは全て関係ない。問題はただ一つ。
――アレが目の前にいるからである。
「ひっ……!」
少女のぼやける視界の向こうで雄叫びを上げるように両腕を広げ天井を眺めていたそれが、不意に少女へと振り返る。
先程彼女の頭の中で反復していた魔道書の説明。それの最後が彼女と完全に対峙した。
魔道書には様々な形がある。例えば剣のような武器、例えばネックレスのようなアクセサリー、例えば水晶のような宝石。
例えば――目の前にいる鬼にも似た『生物』の形を模した炎の塊。
渦巻く炎で形成された鬼に顔はないが、頭頂部の角、大口から覗く鋭い牙が時折揺らめく。
獲物を見つけた炎のオーガはゆっくりと床を塵芥に変えながら一歩一歩少女へと近づいた。
迫り来る危機によって朦朧とする意識が逆に取り戻されたが、今度は恐怖で足が動かない。死がそこまで迫っているというのに……。
「何してるの、早く逃げなさい!」
鬼の手が伸びる寸前で少女の体が突き飛ばされた。だが僅かに炎の指先は少女の左腕を掠め、肌を焼いていく。火傷の激痛に顔をしかめながらも、少女は再度体を壁に寄りかからせながら立ち上がる。
「お姉ちゃん……」
行方の分からなかった姉がすぐ前に自分を守るように立っていた。服の所々が焦げ、右半身が煤に汚れていることから今までどこかで気絶していたのだと分かる。
しかし姉が合流したならばすぐに二人で両親を抱えて外に逃げることでまだ全員が助かる望みが――などと甘い考えがこの状況下で通用するはずがない。
両親は先程まで自分が立っていたすぐ傍にいた。そして、そこには炎のオーガがこちらを向きながら立っている。
「お父さんとお母さんはお姉ちゃんが助けるから、あなたは逃げなさい」
「そんなのお姉ちゃん一人じゃ……」
「大丈夫。すぐに追いつくから」
「嫌だ、お姉ちゃん……」
「いいから言うことを聞きなさい!」
いつも笑顔を絶やさなかった姉から発された聞いたことのない怒声で少女の体が小さく跳ねる。
だが、すぐにいつもの優しい笑顔が少女に向けられた。
「お姉ちゃんが約束破ったことあった?」
この炎の中、まだこれ程まで水分が残っていたのかと思うほど大量の涙が瞳から零れ落ちる。
「……ない」
「ほら、走って。振り返っちゃ駄目よ」
死の間際に立たされているにも関わらず出かける妹を送り出すような穏やか声。
少女は体の動くままに走った。焼け焦げ崩れ落ちる壁や屋根をかいくぐり、十数秒後には外に出る。夜の澄んだ新鮮な空気に焼けた喉を傷めながらも、姉に言われた通り全力で走る。だが左腕の怪我と出血、全身の火傷によってものの数分で足に限界を迎えその場に力無く倒れ込んだ。
――直後、少女の鼓膜に激痛が走る爆発音が響き渡った。
あの夜から定期的に見る過去の惨劇は、忘れることのない少女の復讐心を駆り立てる。
自分さえいなければ姉は生きていたのではないか。自分が恐怖に囚われなければ両親を助けられたのではないか。そんな後悔が毎日のように渦を巻く。
だから決めたのだ。自分を育ててくれた両親、身代わりになった姉の仇を取ると。あの化物と呼べる魔道書を全てこの世から消し去ると。
そのためには力と権力がいる。
魔道書を相手に後れを取らない力。誰よりも魔道書に触れ、魔道書を焼くための力が。
少女は包帯で肌が見えないほどに巻かれた左腕を右手で握りしめながら対峙する対戦相手を睨みつける。
「それではこれより最後の試験を開始する。双方準備はいいか?」
銀髪の少女は試験官の声に反応して、腰に取り付けたホルダーから白い杖を取り出し前へ突き出す。
(だから私はここに来た。この王立魔道図書アカデミア――『イシュティアル』に!)