花園
クルトがハングリーベアの姿を確認した瞬間、クルトに向けて咆哮が放たれる。威嚇のための咆哮だったが、五年間薬草採集しかしてこなかった、獣との戦闘経験のないクルトはそれだけで何も考えることができなくなる。本能を抑制していた理性が吹き飛び、クルトは震える足を敵とは反対方向に向け、必死になって走り始める。
ドタバタと遠ざかる音を聞き、ハングリーベアはクルトを捕食対象と認識する。瞬時に四肢を地面に付け、猛然と走り始める。
「出口、出口!」
自分のとは別の荒々しい足音が聞こえ、絶体絶命の四文字がクルトの脳裏を掠める。
「死にたく、ない」
本能に突き動かされながら、毛と糞、さらには凝血した血が散乱する、でこぼことした床を一年間愛用している革靴で、滑らぬよう全力で踏ん張りつつ疾駆する。出口の光は未だ見えないが、洞窟に入ってから常に一直線に歩いてきたクルトには、この先に出口があるという絶対の自信があった。
「はっ、はっ、はっ」
極度の緊張により、普段よりも息が途切れるのが早いことを感じながら、クルトは迫りくる巨躯から逃げ続ける。だが、
――おかしい!もう出口が見えてる頃なのに全然ない!
走っても走っても、見えてくるのは赤茶けた壁と薄暗い空間。逃げるべき光の世界は一向に見えてこない。
「なん、で!」
肺が苦しみ、横腹が痛む。けれどもクルトの視界に出口は見えない。足の動きが次第に鈍くなっていく。振っていた腕も、徐々に上がらなくなり、正面を向いていたはずの顔は斜め上を見るように顎が上がっている。
脳に、体に、酸素を送ろうと必死になって繰り返していた呼吸も、すでにそこまでの激しさはない。
「こんなことって、ある?」
高齢者の朝の散歩時よりも遅い足取りで進む中、クルトは涙を流し始めた。
「たった一回。ちょっと違うところを見てみたいなって思っただけなんだよ?」
クルトの身を案じていたツルクの顔が、クエストに行く許可をなかなか許してくれなかったモルトの顔がクルトの脳裏に浮かんで消えていく。
「嫌、だよ......」
ステラの笑顔が、シャルの応援の言葉が、生への希望が、涙とともに流れていく。
「死にたくないよ......」
その言葉とは裏腹に、クルトの足はすでに止まっていた。ハングリーベアもその様子を見てか、追いかけるよりも追い詰める動きにシフトしていく。
クルトは膝から崩れるように地面に座る。絶望しきった光のない瞳が地面に転がる汚物をただただ映す。バタバタと騒がしかった空間に静寂が満ち、ハングリーベアの足音が微かな重圧となって洞窟内に響く。
「ガアウウ」
彼我の距離が一mまで詰まる。その瞬間、ハングリーベアは自身の体躯を支える四肢を曲げ、豪快に跳躍した。サイズ3m重さ約一トンの超質量が天井付近からダイブする。巨体が風を退ける音が外にも伝わり、クルトの鼓膜を震わせる。
「――う、うわああああああ」
――怖い!死ぬのは怖い!イヤだ!死にたくない!
虚空を映すクルトの瞳に生気が戻り、体の神経がピクリと跳ね起きる。上か落ちてくる超質量の重圧を気にもせず、刹那の間にクルトは前転で移動する。距離一メートル半、数にして三回の前転を繰り返し、クルトは即死圏内を脱出する。
直後に起こった地鳴りに姿勢を崩されながらも立ち上がり、クルトは正面からハングリーベアを見下ろす。ハングリーベアは潰したはずの獲物が目の前で自分を見下ろしているのを確認すると、プライドを傷つけられたのか爪と四肢を立て、牙をむき、再度襲撃の構えを取る。
――視界が、ぐらぐらする
即座に前転して立ち上がったクルトだったが、生まれついての三半規管の弱さ故に世界が歪んで見えていた。頭部が熱を感じ、酔ったように体がふにゃふにゃになったクルトは、ハングリーベアが突撃態勢をとっていることに気づけない。
「あえ?」
「ウアウ!」
クルトが態勢を崩し、壁に倒れこむのとハングリーベアが突進したのは同時だった。
クルトが元居た場所目掛けて襲い掛かったハングリーベアは、忽然と消えた人間の姿に目を丸くし、大きく開いた勢いよく閉じた。
「グゥ?」
急いで振り返り、周囲を見渡すハングリーベアだったが、獲物の姿は見当たらない。上を見ても、どこにもいない。ひっきりなしに辺りを見渡すハングリーベアだったが、やがてその場を去っていった。
「あ、危なかった......」
脅威が去ったのを確認して、クルトは安堵の息を漏らした。
壁の隙間、ちょうどヒカリゴケの生えていない箇所にできていた穴にクルトは落ちていた。
両手で入り口の穴溝にへばりつき体の大部分がどこに続いているのかわからない空洞に投げられている中でもなんとか落ちずに堪えていた。
――早く、上がろう。
懸垂をするように腕に、手に、力をのせ、自身の体を引き上げる。
ガラッ
はずだった。穴から肩より上が出始めた時、手元の地面が一斉に崩れだした。突然のことにクルトは一切反応できず、地面に顎を打って舌を噛み、声をあげることなく穴の奥底へと落ちていく。
かなりの時間が経った時、クルトは空中に投げ出され、光溢れる黄色の絨毯にその身を落とした。
「......ここは?」
相当な高所から落ちたはずなのに衝撃が一切ないことに驚きながらも、クルトはあたりを見渡した。その瞬間、彼の視界には大量のヒカリゴケが映る。
――花園だ
クルトは持ってきたバッグの中にむしり取ったヒカリゴケを袋にまとめて詰めていくが、先程も聞いた咆哮が突然近くで響き、その声のした方へ恐怖を抱きながらも視線を投げる。
「――――え......?」
クルトが向けた視線の先では、通常のハングリーベアの何倍もの大きさの熊と、青龍刀を持った大柄な女性が対峙していた。