紅い花
「ステラさん、ただいま」
迷宮でドロドロに汚れた服装のまま、クルトは外に出ていたステラに挨拶をした。
クルトよりも背の大きい女性に担がれたまま挨拶をしてきたクルトをステラは一瞬驚いたような顔を見せながらも「おかえり」と返事をする。
「と、とりあえず中に入りな。疲れたろ」
クルトの後ろにたつフィーネの姿に脳内で『?』が浮かび続けるステラだったが、クルトの疲れたような表情とボロボロの様子を見て早々に中に入れる。
フィーネとステラがすれ違う際、フィーネの眉間に一瞬しわができるが、それには誰も気が付かない。
「とりあえず、僕の部屋に行きましょう」
クルトはキョロキョロとあたりを見渡し続けているフィーネに声をかけ、すぐそこにあった自室の戸を開ける。キィという木製扉独特の音をたてながら扉が開いた。途端、クルトとフィーネの鼻腔を木の柔らかい香りがくすぐる。
「意外と綺麗にしてあるんだな」
意外そうに部屋をじっくりと見るフィーネ。
それに恥ずかしくなったのかクルトは慌てて椅子を引っ張り出し、フィーネを座らせた。
「まあ、一応僕は流れ者みたいなものなので......ここにはステラさんたちの好意で住ませてもらってるんです」
表情を曇らせてクルトはそう言った。
ふかふかのベッドに腰を落とし、クルトは軽くうなだれる。
「なるほど。クルトが彼女をさん付けで呼んでいるのはそういうわけか」
フィーネは静かに足を組み、顎に手を当てる。よれよれの服がフィーネの腕を滑り落ち、白くやわらかな素肌が覗く。
思案げな表情を浮かべたフィーネはその姿勢のまましばし固まり、目を閉じた。
「フィーネさん」
「ん?」
「あまり僕のことで考えたりしないでください。僕は大丈夫ですから」
フィーネの翡翠色の瞳とクルトの黒瞳が絡みあう。
クルトは頬が熱くなるのを感じながらもフィーネの視線からその目を逸らさない。
「私は別にクルトのことを考えていたわけではないぞ?」
クルトの脳内をフィーネの放った言葉が何度も反響し、一瞬にして耳まで赤くなる。
恥ずかしさでクルトは猛烈に外に出たくなるが、それを許すようなフィーネではなかった。
「まさか、私の意識でも独占したかったか?」
フィーネは意地悪な笑みを浮かべ、クルトとの距離を限りなくゼロに縮めた。
息つく間もないフィーネのたたみかけにクルトの心臓は爆発寸前にまで追いやられる。
「なんてな」
フィーネはそんなクルトの額を小突き、すぐそばにあった窓を開け放つ。
すでに暗くなっていた空を見上げ、少し冷たい夜風にフィーネは目を閉じる。
「クルト、ご飯だよ」
ステラがドアをノックした。それに返事を返してクルトは椅子から立ち上がる。
フィーネも開けたばかりの窓を閉め、クルトの後を追って部屋を出ていく。
食卓には、玄米とたくあん、猪肉の煮物が五人分並べられていた。
食事はステラ、クルト、ステラの愛娘フレアの三人で済ませることが主だっただけに、クルトは首を傾げた。フィーネを入れたとしても食事の量は四人前。明らかに一人分多かった。
「今日はお客さんが来るんですか?」
ありえない話ではないと思いながらクルトはステラに問いかける。だが、返ってきた言葉は予想だにしない一言だった。
「お兄ちゃんが帰ってくるのよ」
嬉しそうにステラはそう言った。その一言にフレアも喜びの色を見せる。
反対に、クルトの顔は少し渋く、フィーネは頭に? を浮かべる。
「そうなんですね。レンツさんとは4年ぶりに会うことになりますね」
豪放磊落。ステラの息子であり、フレアの兄のレンツという男はその言葉を体現したかのような人物だった。当然、誰にでも好かれる人の好さも持ち、どちらかといえばお父さん、と呼ばれる人間に相応しいと言えるレンツがクルトは少し苦手だった。
「お兄ちゃん、もう少しで帰ってくる?」
フレアは父親が帰ってくるということに大興奮し、椅子に座っても落ち着かず、足をバタバタさせたり、そこら辺をうろうろしたりと静かにできなくなる。
ステラも、普段とは少し違い、どこかそわそわしているような雰囲気を周囲に振りまいていた。
「あの、ステラさん。お話があるんですが」
クルトは緊張した面持ちでステラの目の前に座った。ステラの浮かれていた顔が一瞬にして真面目なものへと、ゆるりふわふわだった空気は一転してピリついたものへと変化する。
「どうしたんだい? いきなり改まって」
クルトは深呼吸を数度繰り返し、両の手を強く握ると、フィーネの方を見た。
翡翠色の瞳を彼女はステラの方に向け続けていたが、クルトにはそれだけで心のどこかにゆとりができる。
「ここを、出ようと思います」
はしゃいでいたフレアがクルトの方へバッと振り返る。フィーネがクルトの背中に視線を注ぐ。
そして、ステラが組んだ両手の上に顎をのせる。
「それは、そこにいる彼女が言い出したことかい?」
ステラはフィーネと静かに視線を合わせた。探りを入れるようにステラはじっくりとフィーネの瞳をのぞき込み、フィーネは何も悟らせないように無を装う。
二人が静かに腹の探り合いをする中に、クルトは小さく首を振って割って入った。
「違うよ、ステラさん。これは僕が決めたことで、彼女の考えはどこにも入ってない」
そういうなり、クルトは胸ポケットからあの赤い花を取り出し、机の上に置いた。
フレアの表情が子供特有の好奇心に染まり、花に手が伸びるが、それよりも早くステラがその花を目の前まで持ち上げる。
真剣な表情で花を隅々まで見るステラは、普段の温厚そうな彼女からは考えられないほど真剣で、緊張しているように見えた。
「その花さ、彼女と僕で倒した敵から出てきたんだ。僕と彼女はそれなりに植物に関する知識を有してる。でも、その花の正体が何かを知らないんだ。下手をしたら僕たちが最初の発見者かもしれない。
だから、僕はこの花についてフィーネさんと調べて見ようと思うんだ」
不意にステラがクルトの顔を見た。様々な考えの巡るステラの脳内は今、究極の選択を迫られていた。
「その花は......」
ステラが口を開くが、その声はどこかためらいを帯びたものだった。
ステラの視線は下を向いたまま。
初めて見る困り顔のステラにクルトは困惑する。
「ステラさん?」
「......クルト、その花はね――」
覚悟を決め、ステラが口を開いた直後、ガチャリと台所にある扉が開き、茶色の髪を短く切りそろえたボディビルダー並みの筋肉で全身を覆った男――レンツが入ってきた。
彼は台所に入り、ステラの座る方を見、その机に置かれた真っ赤な花をその視界に入れる。
「ただいま――ってその花! 母さん、まさかまた迷宮に潜ったのか!?」
目を極限まで開き、巨大な荷物をその場に投げ捨て、レンツはテーブルの上に置かれた花を持ち上げた。
「僕たち以外に、花を、知ってる......」
クルトとフィーネは雷にでも打たれたかのように硬直した。
レンツはまじまじと花を見つめ、落ち着いたのか席に着いた。
簡単に終わらせる予定だった話は、予期せぬ花の存在と、それを知る二人の高位冒険者の参加によって長丁場へともつれ込む。