霧日記 その2
MIST OF WAR ENo.0460の日記のログです
◆◇◆
誰にでも悪夢というものはある。見ている間はうなされるが、起きてしまえば忘れてしまう。それでも、思い出したかのように苦しめられる。オルノー・ドッコーニの場合、それは一人の男だった。七探偵、《捜索》の座に着いた今であっても、否、いつ何時であっても──それが推理の瞬間であってもだ──、その男の影から逃れられたことはない。
オルノーは父オルネン・ドッコーニから《捜索》の座を受け継いだ。世襲ではない。オルネンが姿を消し、オルノーが空いた座に着いた。座こそ同じではあるものの、二人のやり方は正逆だった。
オルノーの《探偵能力》は、探偵派閥でいえば理論の側に近かった。依頼人、あるいはその他の情報から多角的に状況を観察し、対象を探し当てる。基本に忠実、悪く言えば面白味のない、極めて一般的な推理形式を好んだ。
オルネンは違った。気づき派閥に居た彼は、依頼人の話の途中で捜索対象に気づく。酷い時には、依頼人と会う前から気づくこともあった。端的に記したメモを助手に預け、約束の時間に事務所を留守にすることも少なくなかった。腕は良かったが、彼はあまりにも気づきすぎていた。オルネンが仕事とは関係の無い情報まで気づいていることに同僚が気づくまで、そう時間はかからなかった。不誠実な仕事態度もあり、いつしか気づき派閥の探偵ですら、彼のことを疎ましく思うようになっていった。そして、彼は探偵協会から姿を消した。主を失った事務所からは、他の探偵の詳細な個人情報がファイルされた束がいくつも見つかった。彼は全てに気づいていた。
オルノーだけではない。その世代の探偵に聞けば、皆が口を揃えて同じ男を悪夢と謗るだろう。七探偵史上、最も探偵に嫌われた男。探偵協会から離反し、探偵に牙を剥く者。オルノーの父。
悪夢の消し方は知っている。陳腐なエディプスコンプレックスだ。陳腐とは、言い換えればお決まりの予定調和のことだろう。それでも構わなかった。父を倒し、悪夢を終わらせるためならば、三文芝居の主役になることも苦ではない。
◆◇◆
深い闇の中にあった。
ドッヂウォール本社ビルの地下。ドッヂウォールでも知るものはほんの一握りの、秘められた場所にある座敷牢。苦学生の下宿のような慎ましさと、政治犯を収容する牢獄のような剣呑さを併せ持つそれは、通称『小部屋』と呼ばれていた。
足を踏み入れたのは初めてのことだったが、想像していたよりもなんというか──ただの施設だ。拍子抜けするほどに。怪しげな武装教団の根城のようでもなければ、非合法の尋問部屋でもない。ドッヂウォールビルの地上階と同じ設計、同じ壁、同じ床。壁の白さは清潔感を演出する。窓がないことを除けば、ここが地下の秘密空間だとは誰も思わないだろう。
とはいえ、実験機ハイドラの格納所のような頑丈なセキュリティがあるわけでもなければ、物理的に脱出不可能な扉のない檻がはめ込まれているわけでもない。それでも部屋全体が非人道的な暗闇に閉ざされていれば格好がつくかもしれないが、実際はそんなことは無く、部屋に配置された小粋なインテリアや調度品の質はドッヂウォール職員寮のそれをはるかに上回っている。そのアンバランスが、小部屋の主の立場を暗示しているかのようだった。
室内に居るのは老人だ。ベッドに腰かけ、微動だにせず目を閉じている。顔に刻まれた皺はそれほど深くは無かったが、それでも年嵩のいった男だった。事前に聞いた年齢とも合致する。何故か室内でも山高帽を被っていること以外、ごく普通の老人に見える。
地下に特有の密閉された硬質さが、彼女の足音を反響させた。それでも老人は目を開かない。深く瞑想しているのだろうか。身動きもしない。音に気づいていないのか、それとも、外部に意識を割く必要が無いのか。
「どうかね、試験場でつけられた傷はもう治ったかね」
と。先に口を開いたのは老人だった。『小部屋』の前、鉄格子から五歩の距離。速さで負けるつもりはなかったが、出鼻を挫かれたことで気勢を削がれてしまう。焦りを悟られることは、これからの会話で不利を背負うことになる。動揺を見せてはならない。ならば、沈黙が答えか。
老人はにこりともせず、続ける。
「知っているとも。ヨケルヒルト・ヨケルギオーネ・ドッヂウォール。全てを手に入れた私に、何故自由だけが与えられていないと思う?」
名を呼ばれ、ヨケルヒルトはたまらず顔をしかめた。
初対面のはずだ。少なくとも、彼と顔を合わせた記憶はない。外界から隔離された老人が、社の資料を自由に閲覧する権限を持つ彼女よりも先に、顔も名前も知らないはずの自分の名前と過去を言い当てた。試験場でのダンスパーティー中の事故で、首から胸元にかけて大きな怪我を負ったことは、家族と一部の上役にしか伝えられていなはずだ。
思わず臍を噛む。老人の用いたトリックが理解出来ないことが悔しいわけではない。自分より速かったことが悔しい。
速さは最重要だ。最速を是とする彼女は切り替えも早い。ため息をつく、頭を振る、掌にYの字を三度書いて飲み込むような精神的スイッチを必要とせず──ヨケルヒルトは考えない。聖ヨケルギウスの教えにもあるとおり、邪念を回避した無心こそが最も””速い””と信じていた。
「……聞きたいことがありますの」
「お前さんの獲物は電磁鉄線通りの端の安アパートに住んでいる。この時間ならダガー工房だろう。飲んだくれている」
「どうして」
「愚問だ。重ねて申し上げるが、お嬢さん。何故私がここに閉じ込められているのか、聞いたことくらいあるだろう」
言葉の最中、ぴしゃりと遮られる。老人の主張はもっともだった。知りすぎた男。閉ざされた老人。探偵能力の強大さゆえ、自由を剥奪されてもなおその役目を果たせると判断された男。
今のは自分が悪かった。嘆息し、謝罪する。過ちを正すのは、速ければ速いほど良い。
「それもそうですわ。分かりきったことを聞くのは時間の無駄、つまりは遅い」
必要な答えは既に得た。目的を果たした以上、『小部屋』に留まる理由は無い。不愉快な老人とこれ以上言葉を交わす必要も。
「手早い仕事に感謝しましてよ。ヨケルギウスの加護を」
「生憎だが、探偵は噂話を信じない。神話も。探偵はただ、探偵神のみを信ずる」
神話。聖ヨケルギウスには旧避聖書があるように、探偵には探偵の神話があるのだろう。全く違う文化圏の神話が似通うことは珍しくないという。もしかすると、ヨケリスの獣のような幻獣の話も伝わっているかもしれない。探偵獣であるとか。
取り留めの無いことを考えていると、記憶の一つに引っかかるものがあった。おぼろげな違和感が輪郭を取り戻す。それが自身の探し物よりもスケールの大きな問題だったことを思い出すと、彼女はたまらず小さく苦笑した。即断を重視するあまり、その瞬間に思っていることの他がすっぽりと抜け落ちてしまうことがある。ヨケルヒルトの悪い癖だ。自覚はあっても、中々治せない。
神話、ヨケリスの獣。ドッヂウォールが社を上げて捜し求めている、純ヨケニウム結晶。そして、その重要参考人。わざわざここまで足を運んだのだから、聞いておくべきだろう。
「ついでに、もう一つよろしくて? ”ハード・ダガー”について」
「情報は全てある。が、それを与えるかどうかは私の判断だ」
意外といえば意外な回答だった。尋ねるよりも先に答えを取り出し、人を食ったような態度で弄ぶことを好む悪趣味極まりない下卑た性格で、探偵という人間は全てそうだと思っていたが、性急(速い)だったかもしれない。
とはいえ、交渉は彼女の好みではない。生来のせっかちな性格からしても、むしろ苦手な部類だ。それでも、やるしかない。ドッヂウォールの令嬢として叩き込まれた社交術を発揮し、必要な情報を吐かせる。目的を達成するために最速の手段を選ぶのは当然のことだ。
「夢はあるか?」
「……何のことでして?」
「夢の話だ。君は持っているかね?」
いくつか想定していた中に存在しない単語の登場に、思わず尋ね返す。あまりにも突飛で、話題が飛躍しすぎている。社交性が欠け過ぎている、とヨケルヒルトは心中で悪態をついた。
困惑しきりの彼女のことなどお構いなしに、老人は続ける。
「私はある。夢──全てを見通すこの瞳を持ってもなお、見通せぬもの──夢が」
一方的な物言いだ。どうやら形式上は問いかけだったものの、会話をするつもりはないらしい。懺悔めいた独白からは、やはり欠けた社交性が感じられる。孤独、と言い換えても良いだろう。
あまりにも知りすぎているため自由を与えることが出来ない男。七探偵、《捜索》の座だった男。古巣を捨て、今はドッヂウォールお抱えの闇探偵、《名追い人》のオルネン。オルネン・ドッコーニ。誰とも対等に夢を語ることが出来なかった、当代最強の探偵の孤独は、かすかに、しかし確実に絶望を孕んでいる。
「”ハード・ダガー”は近くには居ない。探そうとしても難しいだろう。まずはサクラ・ブレイクバーストスピードを当たりたまえ。それが君にとって最速の道だ」
ふいに正気に戻ったかのように、淡々と回答するオルネンの姿は、心なしか宣告よりも老けたように見えた。
「あなたは……一体何を望んでおりますの?」
求めた情報のことなど、最早頭に無かった。純ヨケニウム結晶も、”ハード・ダガー”も今は全く価値が無い。この瞬間、ヨケルヒルトが最も望んでいるものに比べれば。熱に浮かされるような高揚感に包まれながら、彼女は問いかける。
いつの間にか、老人の──オルネンの目が開いていた。相対する者へと視線を向けるその瞳は、禍々しく緑に輝いている。およそ人間のものとは思えないが、それに似た輝きを、ヨケルヒルトは思い出していた。
試験場でのダンスパーティ。エンジンを下ろされ、エネルギーの枯渇を慟哭するかのような輝きに包まれながらも、なお身じろぎをやめないウォーハイドラ。 ヨケルヒルトの記憶。脳裏に焼きついた光景。尋常ならざる輝きの中、人知を超えた力で敵を穿つ。かつて彼女自身を撃墜した、古傷の原因にして張本人。サクラ・ブレイクバーストスピードの姿。
オルネンの瞳とハイドラの咆哮。連想される共通点は一つ。人の理を超えた化け物が放つ光だ。
「望みか……簡単だよ、お嬢さん。簡単なことだ。だからこそ、夢とは難しい……」
ドッヂウォールの保管する資料には、オルネンの過去が記されていた。名声を捨て、組織を捨て、同じ道を歩み探偵となった息子すら捨てた彼の夢。霧の立ち込める残像領域にあって、その先の景色すら見通す強大な探偵能力を有しながら、夢を見続ける男。
「気づかせて欲しいだけだ。この私に、敗北を」
地下の小さな部屋の中で、老人は空を見上げていた。
◆◇◆
残像領域には、いくつもの顔が存在する。顔と名前は表裏一体であり、当然ながらいくつもの名が存在した。
企業連傘下にある企業は、いくつかの企業で集まりを作ることが多い。平たく言えば派閥だ。同じ派閥同士、本社機能をまとめてオフィス街を形成する。そういった街は各地に存在するが、ドッヂウォールの本社ビルがある場所は、通称ヨケルギウス摩天楼と呼ばれ、残像領域の顔の一つとして名を轟かせていた。本社機能の集中は、トータルコストの削減に繋がる。複数企業が拠出しあえば、それなりの質を備えた私兵を雇うことも出来る。武装した人間が区画内を巡回することで、犯罪率は低下、住みやすい環境には優秀な人材も集まりやすくなる。一つの判断が多岐に渡る合理性を生む。優秀な経営者は企業連盟の役員に引き上げられ、政争に勝ってその会長職に就く。
千年の歴史を持つ企業連盟にとって、ドッヂウォールカンパニーは新参者だ。文明が水源を中心に同心円を描くようにして発展するように、オフィス街も最古参の企業群を中心に発展してきた。新参者の居場所は、大抵外界に最も近い場所と決まっている。ドッヂウォールオフィスは、ヨケルギウス摩天楼の最も目立つ場所に存在するが、その立地は企業連盟オフィス街の中心部からは随分と遠くにあった。
とはいえ、ドッヂウォールカンパニーは巨大な企業である。他の企業と比べても引けを取らない自社ビルの高層には、会議室が設えてあるし、私兵を雇うほどの余力もある。他の企業と同じように、ドッヂウォールも重大な意思決定機関として会議を行う。そのために作られた大会議室は、その企業規模に比べ、また集まった役員の数に比べても手狭に思われた。円卓を囲むような形ではない。ずらりと並ぶ出席者に向き合う形で、一人の男が座っている──教室だ。さながら男は出席を取る教師のように、集まった顔ぶれににらみを利かせる。
「集まってもらったのは他でもない。定例会ではないのだが、いくつか重要な問題が浮上した。君たちにこれを共有し、問題解決の意識もまた、共有してもらいたい。『速度に勝るものは無し』の社是に則り、迅速な解決と速やかな意思決定のため、この会議を招集したものである」
飾られた聖ヨケルギウスの肖像画に聖印を切り、教師役の男が口を開いた。
つまらないことを、つまらないとも思わずに言ってのける。ある種の恐怖とも取れる感情を持って、参加者の一人であるヨケルヒルト・ドッヂウォールは父の──ドッヂウォール社長の発言を聞き流しながら窓の外を眺めていた。
「まずは企業連盟の崩壊と、その後の動向についてだ。状況の報告を」
「前会長バルーナスは失脚、亡命先として、レジスタンスと接触を図ったとのこと。解体後の企業連盟所属企業については、主導権を握るべくいくつかの企業トップが政敵の粛清を含めた手段を講じているそうです」
「アンチ・ヨケルギウス・システムはどうなっている?」
「『影の禁忌』の隠匿及び今回の使用に対し、懸念する声明を発表しました。前会長に向けたものでしたので、再度改めて」
「我らドッヂウォールカンパニーの守護聖人たる聖ヨケルギウスの教えを冒涜するアンチ・ヨケルギウス・システムを持った『影の禁忌』を、聖ヨケルギウスを信奉するドッヂウォールカンパニーが社として許しておいてもよろしいのですか?!」
「あれは聖ヨケルギウスと彼に委託された全ての回避壁に対する冒涜だ。もっと厳重に、新体制になった今こそ禁止に向けた議論を発議すべきでは」
「誰が新たな主となろうとも、前会長の路線を継続する必要は無い。再度封印を行えばドッヂウォールはそれを支持する。これは一つ大きな貸しとなりましょう」
「バルーナスは」
ヨケルヒルトが口を開いた途端、思う様意見を並べ立てていた役員たちが押し黙った。誰もが聞き耳を立てている。
「バルーナスは禁忌のコントロールを完全に手放しておりませんわ。最後の禁忌が発動されていない以上、アンチ・ヨケルギウス・システムは彼が握ったまま。それにハイドラ大隊は最早企業連盟の力を──禁忌を凌駕した。ならば大隊を利用し、禁忌を完全に破壊してしまう方が”速い”。そう理解すべきでしてよ」
彼女に向けられた視線は、その姿勢がドッヂウォール令嬢への形式的な服従ではないこと、そして彼女の言葉が持つ影響力を雄弁に物語っていた。それはドッヂウォール社長とて例外ではない。ヨケルヒルトの弁を受け、社長が議論に蓋をする。
「支援したバルーナスが返り咲けば、彼への貸しは大きい。破壊できずとも封印は確実に通す。悪くない賭けだ」
社長の決定は場に沈黙を与えるには十分な効力を持っていた。役員たちは無言で、あるいはなるほどと唸りながら拍手を浴びせる。こうして議題が終われば、すかさず次の議題に進んでいくのが弊社の流儀だ。
「”ハード・ダガー”は?」
「今だ足取りが掴めず……かなり硬質な相手でして」
「《名追い人》のオルネンも掴めないと言っておりましたわ。彼の言葉を信じるならば、今はまだその時では無いのでしょう」
「ヨケティアに記された七十二の避魔は?」
「確認出来たのはヨケタロトとヨケラビアの二柱です。既に抱えているヨケルンガルドとヨケルベロス、それにヨケルコアトルらをあわせて五柱」
「この期間でまだそれだけしか」
「費用対効果も考えるべきです。人材確保、調査費。経費だけでも馬鹿になりません」
「”候補者”も選定の時期ですな。前任は既に全盛の力を失いつつある」
「それでもなお”速い”のだ。候補者は探しているが、誰も試練に打ち克てていない」
「後任が必要不可欠だと申しておるではありませんか。かつての四本腕を失って以来、ドッヂウォールの”犬”には優れたる人材が居ない」
「ヨケリスの獣は」
「未だ不明です。何分、”ハード・ダガー”が握る情報及び純結晶を、こちらが得る術が無いのが現状でして」
「純結晶があればヨケティアの解読も進むのですが」
「計画は進める。サブプランもだ。反応屋の、ランク十位以下をスカウトする。最上位ランカー達は超人だ。超人に政治は通用しない。我々ドッヂウォールには、交渉と妥協を知らない手駒は必要ない」
「それでしたら、条件に適合した男に心当たりがありますの。ランカーで、交渉材料もある」
「ほう。詳しく聞こうか」
「では。説明を。手短にお願いしますわ」
「はい。対象者、通称サクラ・ブレイクバーストスピード。反応ランカー。ダガー工房所属のライダーです。調査部の報告によれば、何故か篠崎生研に目を付けられているようで……部屋に制圧メガホンが派遣されていました」
「何をやったらそんなことになる?」
「大家に聞いたところ、これで二回目だそうです。なんでも代金を踏み倒し続けているとか」
「なるほど。素晴らしい人材だ。金にがめつく、取引を反故にするとは!」
「ならば避ければ良いだけのことでしてよ、常務。聖ヨケルギウスに曰く、避けぬものは穢れを受ける。聖句のままに」
「篠崎ならば交渉が通じるかもしれんな。男の身柄を確保し、安全の保証と引き換えに子飼いにすることが出来れば速い」
「あの篠崎に単身喧嘩を売るような男ですよ! 我々の思惑通りに動くとは思えないですね」
「だ、そうだ。ヨケルヒルト。お前はどう考える?」
問いかけには、間をおいた。静寂を作り、視線を集める。全てが”早い”ことが速いわけではない。急がば回れというように、時にはあえて遅くあることも必要だ。その後の展開がスピーディ(速い)に広がるように。
たっぷりと三度呼吸し、ヨケルヒルトは口を開く。
「人間が六つの面を持つサイコロだとすれば……ドッヂウォールの犬には二つの面しか必要ないのですわ。従順、そして勤労。その為なら出目を操作することもやぶさかではありません。私に策がありますの」
「では聞こうか。対象者サクラをいかに御するか。それさえ決まれば──」
ドッヂウォール社長の言葉を遮ったのは反対意見ではなく破裂音に似た衝撃だった。その音が会議室のドアが勢いよく開けられ、壁に叩きつけられたものであることに気づけたのは、その場に居た中でもわずかだっただろう。ヨケルヒルトはその一人だ。彼女の席からはドアが丸見えだった。
息も絶え絶えになりながら駆け込んできたのはドッヂウォールの社員だった。よほど急いできたのだろう。ぜえぜえと肩で息をしていた彼だったが、室内に響くような声を絞り出して報告してくる。
「会議の最中にすみません! ヨケルヒルト様、その、お客様がおいでです」
「客だと? 今は重要な議題の途中だ。しばらくお待ちいただくよう伝えろ」
「ですが、オルネンと言う方へお誕生会の案内を持ってきたとのことで。至急取次ぎをと……」
「オルネンに? 何故その名を……」
「ここに来てまた厄介事が増えるのか!」
オルネンの名が出るや否や、会議室は色めき立った。一方、名を呼んだ本人は重役がうろたえる様をぽかんと眺めていた。その名を知らされていないのだろう。
「馬鹿な。部外者が知っているはずが無い。レディ。これは一体どういうことですかな?」
常務の声には不信がにじんでいたが、ヨケルヒルトは動じない。誰にでも限界はある。全く遅い常務には、速いヨケルヒルトの思考を理解出来ないこともあるだろう。それは罪ではなく、ただ仕方のないことだ。
「不要な憶測は遅いものですわ。答えは簡単、百聞は一見にしかず。会えばすぐに分かりましてよ」
ざわめきが収まったのは、彼女の言葉だけが理由ではない。無意識に浮かべていた凄絶な笑みに、ヨケルヒルトは気づかなかった。
◆◇◆
秩序には法が必要である。従い生きる民にとっても、綱渡りするギャングにとっても、それは生活を保護し安定させる寄る辺となって作用する。法に庇護される者も、あるいは法を食い物にする者も、法無き地で生きていくことは等しく難しい。
国家の枠組みを持たない残像領域にも、秩序はある。厳密に言えば秩序そのものが法であり支配者であり、人はみな一定の自由と引き換えに一定の不自由を強制されていた。その中で司法として秩序を司るものこそ、今は崩壊してしまった企業連盟だ。
先日、とある商品のCMに出ていたタレントが企業連盟の不興を買い、裁判にかけられて懲役刑になった。罪状は情報漏洩。作中で彼が使った言葉が、さる企業の機密情報を不当に流布するものだった、というのが検察側の主張である。言いがかりに過ぎないことは誰もが知っていた──訴えた企業と商品を出す企業は同じだったのだ。だが、判決は彼の望まぬ形で下された。巨大な存在は巨大な力を持っている。企業連盟の持つ力は、個人の正義や道徳をはるかに上回っていた。
もっとも、その力は瞬く間に崩壊した。企業連盟の瓦解後も街の秩序が保たれていることからするに、企業連盟は秩序を管理してはいるが、秩序そのものではなかったらしい。大多数の人間は誤った認識を持って暮らしていた。物事を正しく認識することに意味は無い。正しさが何時失われるのか、誰にも分からない。
「正しさとはなんでしょうか」
サクラはとあるバーに居た。とある、とぼかす意味は無い。行きつけのバーは一箇所しかなく、彼の目的地は常にそこだった。静かで、硬質な時間が流れている。
サクラが常連以外と会話するのは珍しいことだった。そもそも、彼は社交的ではない。今回の件も、サクラ側からコンタクトを取ったものではなかった。呼び出されて来てみれば、探偵はバーにいて、テーブルには一杯の酒が用意されていた(速い)。悪い気分ではない。相手は折り紙つきの交渉術を持っているようだ。
「何でそんなことを聞くんだい……」
酒を貰っている手前、呆れ顔とまでは我慢したものの、苦笑が混じることを抑えられなかった。隣に座るのは探偵のオルノー・ドッコーニ。サクラを呼び出した張本人であり、今回のクライアントだ。
職業柄と言ってはなんだが、サクラよりもよほど法治や正義の立場にある男だ。一介のハイドラ乗りが探偵に正しさを説くなど、釈迦に説法、聖ヨケルギウスに回避増にもほどがあるだろう。
「私は、正しくなんてない道を歩んできました。人がどんな目で私を見ようと、私自身はそう信じて生き続けてきた」
「常に正しいと思える人間なんて居ないさ。居たらそいつは間違っている。ただの皮肉でしかないが」
「私はその道から降りたい。その為ならどんな手段でも使う。例えそれが、探偵としての道に背くことになったとしても」
語勢の強まりに並々ならぬものを感じ、ちらと横目で見やる。室内でも着込んだままのコートの上からでも分かるほどの震え。握り締めたグラスに注がれたサムライ・ロックが荒波のように揺れていた。先に依頼した際には見せなかった、探偵としてではない、オルノー個人としての姿だ。
視線に気づいたのだろうか。オルノーは振り向き、そして黙って(それも素早く)頭を下げた。しばらく後、震えが止まる。
「お願いがあります。ミスター・サクラ・ブレイクバーストスピード。ドッヂウォールに縁があるあなたにだからこそ、この依頼は意味がある」
「ドッヂウォールからはお誘いも受けている。連中、よほど俺に興味があるらしいな。それで、どうすればいい……」
篠崎生研への度重なる代金未払い、その肩代わりをしてやるから今すぐ本社に顔を出せ。ドッヂウォールから届いたメモにはそう書き殴られていた。あまり気乗りはしていなかったが、そういうことならやぶさかではない。オルノーに果たすべき使命があるように、サクラにもそれはある。脳裏に焼きついた光景だけが魂を突き動かす。それが今だということだ。
「感謝します。では、これを」
頭を上げたオルノーは、懐から小さな包みを取り出した。よく見ればそれは封筒で、それもかなり派手な装飾が施されている。赤と緑、差し色の白。果たし状にしてはいささか賑やかすぎる。
「これは?」
「バースデーカードです」
バースデーカードを貰うような人生を送ってこなかったサクラだったが、しかしそれが今この瞬間に似つかわしくないことくらいは理解できた。疑問を述べるでもなく、ため息混じりに頭を振る。
「案内なら内容証明で出せばいい」
「いえ。宛名の人物──《名追い人》のオルネンは、表向きには存在しないことになっています。逆探知を覚悟の上、探偵能力で探ってやっと見つけました」
探偵能力。そういえば前もそんなことを言っていたな、とサクラは思い返した。探偵の持つ特殊な能力のことだろうとは思っていたが、逆探知が出来るとは初耳だった。わざわざ説明するからには、相当に使う相手ということか。
「普通に送ったところで、破り捨てられるか、宛所に尋ねあたり無しになるでしょう。ですからこれは、話の分かる方に届けなければならない。無事届けば彼は誘いに乗るでしょう。ミスター・サクラ・ブレイクバーストスピード。あなたなら」
「サクラでいいさ、ミスター・オルノー。一々長い。そして遅い」
「ではミスター・サクラ。あなたならそれが出来る。ドッヂウォールに見初められたあなたが本社へ足を運べば、連中は必ず食いつくはずです」
「まるでエサだな」
「すみません。ですが、手段を選ぶつもりは無いのです。それにあなたならば、ドッヂウォール令嬢も──」
テーブルにグラスを打ちつけ、オルノーの言葉を遮る。ドッヂウォール令嬢の情報は不用だった。下手な情報は邪魔になる。不要な感情は衝動を鈍らせる。
「一つ聞かせてくれないか、ミスター・オルノー。あんたとオルネン。一体どんな関係なんだい……」
「父です。オルネン・ドッコーニは私の父であり、探偵協会を捨て、私を捨て、そして私から全てを奪った。最強最悪の、闇探偵です。私は、父から全てを取り戻さねばなりません」
オルノーの声には怒りがあった。因縁、確執、怨恨。そのどれもが適さない。ダガー工房の名品、ブーステッド・マンの刃を髣髴とさせる、燃えるように鋭く、硬質な怒り。
一方で、サクラは己の中に不思議と高まる感情があることを認識していた。黒い真珠のような怒りではない。泥水のように濁り、硬質なバーボンのように澄んだ、脳裏に焼きついた光景に近づきつつあるという期待。オルノーとは対照的に、歓喜を感じている。
「改めてお願いします。ミスター・サクラ。手を貸していただきたい。オルネンを倒し、悪夢を終わらせ……夢から覚めるために」
「利害の一致だ。気に病むことは無い」
グラスに残った氷が溶け、音を立てた。まるで小さな祝福の鐘のように。
◆◇◆
秘書を名乗る男に案内されたドッヂウォールの一室について、剥げ落ちたクロスから覗くエポキシ樹脂のくすんだ色に馴染み深い安アパート暮らしのサクラが抱いたのは、眩しいという単純な感想だった。入り口がある側の壁には聖ヨケルギウスと思しき肖像画がかけられており(動かないのでよく見えなかった)、それ以外の三方には絶え間なく情報が流れ続けている。音こそ無いものの、ちょっとした私刑には重宝そうなつくりだ。
「ご足労いただいて感謝しておりますわ。サクラ・ブレイクバーストスピード。ようこそ、弊社自慢の応接室へ」
部屋の中心部には商談用と思しき高そうな机と、それを挟むように焼きたてのパンのように柔らかなソファが置かれており、声の主は既に腰掛け足など組んで寛いでいる。この机は差であり壁だ。主と客、富と貧、上と下──上座と下座でもある。ビジネスマナーに沿えばサクラの側は上座だが、彼は下にいる感覚を味わっていた。
「居心地が凄い」
まるで吐き捨てるような口調だったことに気づき、訂正する。一手目から下手を打っては苦労の甲斐がない。
「目まぐるしさがたまらないな」
「投影型大画面広告のサンプルでしてよ。壁中に映すことで、来客者の購買意欲を煽る」
「抜け目無いことだ。それに手っ取り早いことは嫌いじゃない」
対面する声の主からは自己紹介を受けていた。名をヨケルヒルトと言い、その若さながらドッヂウォールの役員を勤め上げている。胸を強調するようなデザインの、レースをふんだんにあしらった見える真っ赤なドレスに、緑がかった金色の髪。それらが一挙手一投足のたびに揺れ動き、彼女の所作を彩っていた。肉体的な年齢は金をかければいくらでも変更が可能とはいえ、言葉の持つ芯の強さは年老いた人間のそれではない。
守ることを知らない挑戦者は、常に新しいおもちゃを求める幼児のようでもある。
「単刀直入に言おう。オルネンとやらに面会したい。俺ではなく、俺の友人が。取り次いでもらえないか……」
「オルネンの『小部屋』までは案内できましてよ。ですが、彼の部屋の前には番犬がおりますの。そこから先、私には手出しが出来ませんわ」
快諾といっていいだろう。ヨケルヒルトの返事はサクラの予想を上回る速さ。交渉も何も無い。あるいは、先にテーブルの上にコインを乗せてみせたのだろうか。そうであればかなりの食わせ物だ。
「無論、リキティよりも強いんですのよ。あなたが殺した……」
「知ってて呼んだのかい……」
「臆病な常務は私を止めましたわ。でも、彼は私の決断を止る速度を持っていない」
秘書の運んできた茶色い熱湯(ヨケンジペコと言ったか)を啜り、口の中で転がす。答え方次第ではこのまま主導権を握られ続けるだろう。彼女の表情は変わらない。顔に動きがなければ、ヨケルヒルトの本心を読み取ることは難しい。焼け付いた脳が認識を拒んでいた──まるで見てはいけないと自制しているかのようだった。
「そう硬くならなくても結構ですわ。言っても信じないでしょうけども。ドッヂウォールはともかく、私はあなたを敵と思っておりませんの」
その言葉は許しであり、底知れぬ闇だ。ドッヂウォール令嬢を傷つけ、ドッヂウォールの試験を台無しにし、ドッヂウォールの犬を殺した。与えた損害を物ともしない寛容さの一方で、ヨケルヒルトは忠実なる部下の死すら気に留めていない。企業は全体を円滑に動作させるための繊細さと、歯車のことを考えない傲慢さを備え持ち、利があれば敵対者すら取り込んで回り続ける。彼女はまさにドッヂウォールそのものだ。
速度とは違う、また別の緊張感が全身にまとわりついて離れなかった。自己流の社交性しか身に着けてこなかったサクラにとって、味わったことのない悪寒。
サクラはヨケンジペコで喉に詰まった悪態を流し込むと、
「何を企んでいる」
「あなたにはイエスしかありませんわ。私の答えがなんであろうともね」
「分かった。それで行く。後は任せる」
ヨケルヒルトの眉がピクリと動いた。認識できたのは、怪訝そうな顔。
「……なんで即答したんですの?」
「これは聞いた話だが、成功者は常に肯定することで幸運を呼び込む」
「誰の本?」
「御社の社長の自伝だが」
顔は見えずとも嘆息が聞こえた。伝わる速度は言葉より速い──呆れている。それも、かなり。
「すぐに忘れなさい。雇われライターの書いた文章など無価値でしてよ」
「感銘を受けたんだ。枕元に飾ってある」
「捨てなさい」
捨てろと言われても戻る部屋も無い。長らく潜伏していた安アパートは、先日ついに大家に追い出されてしまった。頻繁に訪ねてくるロボが迷惑だと言っていたが、サクラにロボの知り合いは居ない。ヨケルヒルトの態度を見るに、リキティを殺されたドッヂウォールが腹いせに手を回したものではなかったようだ。疑いが一つ晴れた。
「握っている情報を明らかにしないのはフェアではありませんわね。あなた、その目で大丈夫でして?」
「番犬が””速い””なら見える。遅いなら敵じゃない」
サクラの言葉は正解のようで、かみ殺すのに失敗したのだろう。ヨケルヒルトのくぐもった笑い声が聞こえた。
リキティとの会話が筒抜けだった以上、隠す意味は薄い。動かないものへの認識が極端に弱いことは既に知られている。これ以上知られて困るカードもないだろう。オルノーとの約束を守るため、まずはヨケルヒルトの不興を買わないことが重要だった。
「随分と自信がおありですのね、サクラ・ブレイクバーストスピード……前の名前で呼んだほうがよろしかったかしら?」
オルノーの警告どおり、サクラの過去は全て掴まれている。試験場に放り込まれた時、サクラは確かに別の名前だった。それでも、既に過去だ。過去は遅い。過去に追いつかれるわけにはいかなかった。
「サクラ・ブレイクバーストスピード。しがない反応屋だ。今も昔も」
今度は明確に、ヨケルヒルトの口元が歪んだ──笑ったのだ。その笑みには見覚えがある。楽しそうな、心の底から驚きを楽しむ、驚喜に歪んだ屈託の無い笑顔。
サクラは脳裏に焼きついた光景に突き動かされて生きてきた。その焼きついた光景が、目の前に存在する。散りゆく桜を掴み取ることは難しい。それでも、サクラは掴み取った。ヨケルヒルト。サクラが追い続けた、ドッヂウォール令嬢の正体。
初めて同じ舞台に立てた。ここから先は、あのダンスパーティーの続きだ。
「結構よ。では付いてきなさい。サクラ・ブレイクバーストスピード」
促し、彼女は席を立った。『小部屋』への案内のつもりだろうか。ダンスに誘うかのように差し出された手を断ると、サクラも腰を上げる。願いは聞き届けられた。鬼が出るか蛇が出るか。彼女の言葉が全て嘘で、向かった先がドッヂウォール警備室だったとしても、恨む気にはなれなかった。
この部屋に来てからというもの、無駄なことは一つも無かった。それが『速度に勝るものは無し』の社是ゆえなのか、ヨケルヒルトの強い意思の速度なのか、それとも聖ヨケルギウスの加護なのか。あの探偵ならば見抜けたのかもしれないが、サクラには判別が付かなかった。
◆◇◆
ドッヂウォール本社には無駄なものが存在しない。必要なものが必要なところにあり、円滑を妨げるものは徹底的に排されている。設計者はとりわけ湾曲なるものを嫌っていたらしく、すべてが直線で彩られた内装は、陳腐な正確さで組み立てられていた。不要なものといえば、ところどころに散りばめられた聖ヨケルギウスの絵画だけだ。
ドッヂウォール応接室を出、道なりに進む。先導するヨケルヒルトの案内がなくとも辿り着けそうなほどシンプルな作りだが、一人で歩く気はしなかった。サクラはリキティを殺している。ここは敵地だ。
「来てるんでしょう? オルネンの命を狙う、あなたのお友達が」
意味の無いことは嫌いだというヨケルヒルトの意向で、サクラはすぐさまオルノーを呼び出した。取引は済んでいると説明したが、職業柄だろうか。疑り深いオルノーは半信半疑のようで、時折気配など探りながらサクラの隣を歩いている。
「この先に、まずは番犬が控えておりますわ」
歩き疲れるほどのこともなく、目的地に到達した。エレベータを降りた先、エントランスを抜けると、正面には分厚いドアが待ち構えている。拍子抜けするほど簡単に辿り着いたものの、本来この階層はドッヂウォールでも一部の人間しか立ち入れない警戒値の警備が敷かれているという。
説明によれば、この奥に例の『小部屋』があるらしい。ヨケルヒルトが右隣に備え付けられたパネルを操作すると、鋼鉄製の、身の丈よりも大きな、ハイドラの装甲めいた扉が開いた。不気味なほど静かで、滑らかな動き。扉と呼応するように、オルノーの緊張が伝わってくる。
「番犬はこの先で待っておりますの。オルネンの『小部屋』はさらにその奥、最深部」
「番犬ってのは、何の番をしているんだい……」
サクラの問いに、ヨケルヒルトは例の嬉しそうな顔で向き直り、
「鋭い質問は手早くて好きですわ。番犬は何を守っているのか。侵入者からオルネンを守っているのか、それとも──」
「あの男からドッヂウォールを守っているのか」
ヨケルヒルトの言葉を継ぐように、あるいは遮るようにして、オルノー。話を奪われたヨケルヒルトは、小さくため息をつくと、本題を続けた。
「ここを突破するには、番犬──サクラメント・ブリンガー・Sの監視を突破。更に侵入者を追いかけて『小部屋』へ向かわせないよう、SBSを足止めし続けることが必要となりますわ。あるいは──」
遅さを嫌うヨケルヒルトが言いよどむことは無いと思っていたが、そうでもないらしい。それとも、単に演出のためか。彼女は嘲るようにサクラを見つめている。たっぷりと一呼吸置いて、口を開く。
「あるいはSBSに勝利して番犬の座を奪い、ドッヂウォールの、いえ、私の手駒になってもよろしくてよ」
「何を企んでいる……」
「バルーナスの復権と、戦後処理後の正当なる失脚を。ドッヂウォールは企業連盟及び残党による支配体制を望んでおりませんの。まずはバルーナスを支援して連盟を建て直し、謀反同然に連盟を乗っ取った連中を更迭。古い考えを一掃し、禁忌を封じていただきたいと考えているのですわ。そのためには駒が要る──ドッヂウォールとしてではなく、私個人が自由に動かせる、強力な駒が。無論、収入は保証OK」
何のよどみもなく、真剣な面持ちで。ヨケルヒルトが矢継ぎ早(速い)に退路を塞ぐ。
「悪いが俺はバルーナスの信用を得ている」
「蹴って」
「何故」
「必要だからよ」
「それは誰が」
「勿論あなたが」
「俺が……」
「ええ。何故ならそれは、あなたがそう望んでいるから。こちらを蹴れば、あなたは望みを果たせない。そちらの殿方はオルネンに会えず、ここで警備に拘束されることになる」
「なるほど、筋は通っている。確かに俺には必要なことだ」
「頭痛のする会話は止めていただきたいですな」
特に問題も無く会話を終えようとすると、隣のオルノーがうなっていた。何故か半眼で、頭を抱えている。
「確かに交換条件と見れば分からない話ではありません。ですが、ドッヂウォールの手駒になろうとも、強行突破しようとも、どちらにしても番犬のサクラメント・ブリンガー・Sとやらは倒さねばならない。違いますか?」
「理解の早い方は好きですわ。SBSはオルネンを守っている。一方で、SBSはドッヂウォールを守っている。SBSにとっての最優先事項は後者……私を狙う悪党と、オルネンを狙う悪党が結託したこの瞬間こそ、SBSの選択肢を一つ確実に潰せる最高のチャンスだ、ということまでご理解いただければの話ですけど」
「どうも信用できませんね。そのサクラメントが真っ先に私を始末し、ミスター・サクラと対峙する可能性を否定できない。奴を倒そうとしているのは私だ。仮にSBSが敗れようと、私を殺した後で咎をすべて着せれば、あなたは何も困らない」
「案ずるより生むが易し。易し、つまり速い。そもそも私がその気なら、ここで引き返そうがどうしようが何らかの手段で殺される懸念は解消されないのではありませんの?」
結局、オルノーはヨケルヒルトの言葉に折れたようだった。疑い始めればきりが無い。誰もが誰もを裏切るのなら、進むも引くもリスクの高さは変わらない。違うのはリターンの量だけだ。
◆◇◆
境界を乗り越えることは、儀礼的な意味を持つ。かつてそれは死生観と結び付いていた。『小部屋』に続く番犬の間、その扉を抜けると、そんな迷信も理解できた。視界にあるのは、聖堂を思わせる継ぎ目のない真っ白な壁と、床と、天井。そして、色彩の忘れられた円柱に生じた、一つの違和感。
白を基調とした、聖職者を思わせるケープに身を包み、違和感はそこに立っていた。長い髪と目元だけが黒い。意外なことに番犬は女だった。機能性の度外視は自信の表れだろうか。はったりを利かせるには優秀な身なりだが、それの瞳に宿る圧は、流線型のサングラスでも隠しきれていない。
「侵入者か……」
分かりきった事を口にすることは遅い。しかし、サクラメント・ブリンガー・Sのそれは圧倒的に速かった(速いことこの上ない)。状況の確認よりも先に、左足を半歩引いた。言葉よりも早く、番犬は戦闘態勢を取る。はじめに言葉ありきと謳った信仰は遅すぎる。言葉が生まれ、はじまりは既に過去のものとなる。
それでも、SBSが僅かに動揺したのをサクラは見逃さなかった。侵入者を具してきたのが最優先事項たるヨケルヒルトだったことは、SBSにとっても想定外だったのだろう。となると、ヨケルヒルトの説明も真実味を帯びてくる──そう信じ込ませるため、一芝居打った可能性を、サクラは疑わなかった。疑い始めればきりは無い。迷いはすべてが遅い行為だ。ヨケルヒルトの真意がどこにあろうと、番犬を倒すしか道はない。
「先に行きなさい。番犬──SBSなら、心配ありませんわ。あなたを止めることはない」
言葉なく頷き、オルノーが飛び出した。番犬の間合いを避ける(ヨケルギウスの加護か?)ように、部屋の縁を潜り抜ける。オルネン・ドッコーニの『小部屋』へ続く扉はサクラらの対極、番犬の背後にある。数秒の疾走の後、開け放った扉にオルノーが駆け込むのを、番犬は目で追いかけることすらしなかった。
「SBS。常に正しい私の番犬」
愉快そうに、背後のヨケルヒルトが笑う。思惑通りに事が運ぶことが楽しいのか、それとも、どう転ぶかわからない博打が楽しいのか──それこそきりが無い。鉄火場に投げ入れられたサイコロに許されているのは、精々お望みの出目を出すことだけだった。
「あなたは使命がオルネンの死守ではないことを知っている。サクラメント・ブリンガー・セントヨケルギウス。聖ヨケルギウスの聖蹟を運ぶもの。その身が優先すべきはこのヨケルヒルトの奪還だと」
ヨケルヒルトは小さくウインクし、
「この暴漢からのね」
「だ、そうだ。お嬢様は俺をダンスパートナーに選んだ……」
SBSは一見、武器の類を携帯していない。わざわざ長いケープなど着込んでいるのだから、銃の一つも隠し持っていてもおかしくはないが。人対人の戦闘にとって、銃は万能の武器だ。番犬との距離は十歩強。もし相手が銃を持つならば、飛び込むにしても、避けるにしても──隠し持ったダガーを投擲するにしても──先んじての銃撃が可能な距離だ。そのプレッシャーをかけながら、こちらの動きは全て封じて優位を得られる。が、仮に持っていたとしても、引き金を引くとは考えにくかった。サクラのすぐ後ろ、入り口の扉にもたれかかっているヨケルヒルトも射線に入っている。万が一のリスクも恐れるからこその番犬だ。
サクラは考える。無表情の番犬からは、逡巡した気配すら感じられなかった。となれば、戦闘スタイルは徒手空拳だろう。ドッヂウォールの番犬だ。速さの他はすべてが不要と考えているに違いない──あの長いケープも、長い髪も、およそ至近距離での取っ組み合いには全く向かない格好だが、それを差し引いても勝てるつもりでいる。あるいは、敵に触れられることすら想定していない。
「よろしいのですね?」
最後通牒にも似た言葉の後、SBSはケープを脱ぎ捨てた。ふわりと音なく宙に舞う。中に着込んでいたのは、黒地に赤と白のラインの入った、ツナギにも似た戦闘服だ。艷やかな合皮にも似た、空気抵抗の少なそうな素材で出来ている。服と一体化した作りの靴は、コーデ属性にそぐわぬ仰々しい金属光沢を放っていた。何らかの仕掛けがあるのだろう。
「その格好、余裕の表れだと思っていた」
「格好? これは私服だ」
漂うケープを指し、淡々と続ける。
「ドッヂウォールの社則は私服就業を認めている」
はじめに言葉ありきと謳った信仰が、既に過去のものとなっていたことに舌打ちしつつ、サクラは右側へ身を投げた。左腕がきしむ。受け身に失敗した。転がりながら距離を取る。言葉など聞いている場合ではなかった。言葉は音速に縛られる。だが、番犬もそうとは限らない。
先手はSBSに奪われた。先の先、構える間も無く、圧倒的に速い。追撃が来ればそれで終わりだ。転がった反動を利用し、死を覚悟しながら飛び跳ねるように上体を起こす。向き直った先、先程サクラが立っていた箇所にSBSは居た。手にしたケープ(私服)をヨケルヒルトの肩にかけている。落下する前に掴み、加速し、一瞬であの距離を詰めた。SBSにとっては挨拶代わりか、それ以下の単なる移動に過ぎなかったのだろう。殺気も何も感じられない。否、それを悔やむ暇すらなかった。転ばせられ、頭を踏み砕かれ、それで終わる。そうならずに済んだのは、唯の幸福な偶然に過ぎない。
「こちらを。お召し物に埃など被ってしまわぬよう……」
「あら、気が利くわね。ありがとう。でも、遠慮しなくても結構よ」
「”無力化”します。私は主命を受諾するのみ」
宣言だ。誰に聞かせるつもりもない、指差し確認のような宣言は、一方的に、そして確実に事態の進行を伝えている。SBSはサクラの方を向き、つま先を床に打ちつけている。そのコツコツという規則的な音は、秒読みする時計を思わせた。同時に、SBSの無駄の無さを思い知る。この部屋に来て以降、SBSは不要な言葉を一語も口にしていない。それほどまでに徹底している。
初速からトップスピードを出せる人間──疑わしいほどに速い──を相手に、サクラの持つ手札はそれほど多くなかった。背筋に冷たいものが走るのを感じながら、サクラも身構える。左腕を前に出し、右半身を半歩引いて、重心を低く落とす。受けるではなく捌く姿勢。意識していれば反応できない速度ではない。見えない速度でもない──自分は反応ランカーだ。鼓舞するように、そう言い聞かせる。
二度目は目視できた。人間の構造を無視した加速。爆発的としか言いようのない推進力で、新たな一撃が飛んでくる。
というより、本当に飛んできた。左拳を突き出しながら、超速度での突進。先刻のようにバランスを崩す事はしたくなかった。動きを最小限に抑えるため、上体をひねって直撃を避ける。だが、SBSは一枚上手だった。重心を下げた事があだとなり、すれ違いざまに放たれた肘の追撃を、やむなく左腕で受けてしのぐ。直撃は避けたものの衝撃は殺しきれず、先ほどよりも大きな異音を立てて腕が軋む。こうなる事を見越していたのだろう。相手の部位を破壊し、確実にダメージを蓄積させていく、典型的なヒットアンドアウェイ。速度を生かした分かりやすいスタイルだ。分かりやすさと完成度の高さは比例する。シンプルである分、大きな穴のない、いかにも番犬めいた堅実な戦術。
通り抜けて行った先、SBSのいるであろう背後に神経を集中させた。交差の後、すぐに振り返る。SBSは床に両足を擦らせながらスピードを殺し、反動を使ってくるりと向き直って立っている。人間には人間を超えられない。人外に変容せぬままに人間を超えるならば、やり方は一つしかない。SBSはイカサマをしている──恐らくは外部装置か、生体改造か。可能性はいくつもある。重力制御の技術を会得した魔法使いかもしれない。ただ、両足に見えた金属はブースターか何かなのだとサクラは推測していた。
「そんな隠し玉を隠していたのかい……」
「隠してあるから隠し玉だろう」
ダメージを受け、動作が鈍る腕をさすりながら尋ねると、意外にもSBSは言葉を返してきた。SBSがサクラを個として認識したのは、これが初めてのように思われた。彼女の声は苛立ちを隠していない。仕留めきれると踏んだ相手が、踏みとどまったことへの。同時に、傲慢さも伝わった。だからといって自分が負けるわけがない、ただ無駄な時間(無論遅い)がかかってしまった、といった、実力と経験に裏打ちされた不遜。
「それに、お互い様だ」
SBSの、サングラスの奥に潜む瞳に、鋭い光を感じた。目線は読める──あえて読ませているのだ。サクラの左腕の動作は確実に悪化している。気づいていないわけがないという、圧。左腕は義肢だ。
「ドッヂウォールの番犬は、勝つために存在する」
「番犬も野良犬も同じさ。噛み付く相手が違うだけで」
「それが決定的な違いだ。お前と、私の」
三度目には余裕があった。というより、生み出した。来ると分かっていた。サクラがまだ死んでいないのだから、SBSは必ず動く。無加速のまま最高速に突入するSBSには弱点がある。無加速のまま最高速に突入するということは、人間の反射神経を超えて肉体が動く。SBSのブースターは、彼女の肉体にそれを強制する。
読めていれば対策もある。SBSのブースターが彼女を音速の彼方へと飛ばす直前、SBSに見せ付けるように仰々しく、サクラは右手で右から左へと宙空をなでる。なで終えると即座に回避行動を取り、次への布石を打つ。右腕の反動を使い、左半身をやや後ろに引き、拳を握った。細かな粒子が舞う中に、意思すら置き去りにした速度でSBSが突撃する。致命的なミスに気づいたのか、SBSは片足のブースターが悲鳴を上げるほどの出力で逆噴射させてブレーキをかけるが、既に遅かった(あろうことか遅い)。SBSが悪態をつくのと、そのサングラスを粒子が破壊したのは、ほぼ同時だった。SBSのシナプスがどれほどの速度まで感知出来るかは分からないが、真に致命的なミス、中途半端に減速をかけ、肉体の制御が己の意思から外れたことを後悔するまで、コンマ一秒もかからないだろう。
──”獣の瞬間”だ。
瞬間、世界が静止したような錯覚がサクラを襲った。感覚が、全身が、脳が、肉体が。己を構成する、虚実すべての要素が、薄く剥ぎ取られ、くまなくバラバラになっていく感覚。時間と空間の僅かな隙間に潜り込み、浸透し、拡散し、実体を失った肉体は、法則の制約から解き放たれる。最高の速度、最高の一撃。吼えるほどの暇も無く、サクラの左拳がSBSの腹部を捕らえ、打ちのめす。SBSの””速度””が仇となる、極限まで効率化された、半身のばねを使ったカウンター。音すら超えた打撃の刹那、衝撃に耐えかねた左腕が火花を散らした。義肢が、腹部を支点に折れ曲がり、壊れた蝶番めいて後方へ飛んでいくSBSに呼応するかのように、鈍く、取り返しの付かない音を立て、そして静かになる。切り札を先に使うのは得策ではないが、ここで仕留められなければ敗北は遅かれ早かれやってくる必然となっていただろう。判断の速さは、それ自体がリスクヘッジとなる。
反動を受けたのは義肢だけではない。反作用で千切れそうなほど後ろに伸びきった義肢に引きずられ、サクラもまた転倒していた。左腕が硬質な音を立て、力なく転がる。随意に動くことをやめた義肢は金属本来の重みを主張していた。生体電池仕込みの義肢だ。激しい衝突の最中、爆発しないだけ幸運だった。念じ、信号を伝えると、ほんの僅かにだが、指先が動いた。辛うじて導線は繋がっているらしい。
先に起き上がったのはサクラだった。上体を起こし、深呼吸をする。余韻が肺に満ちる感覚。意識ははっきりとしていた。痛みは無い。義肢に痛覚は存在しない。
この勝負はSBSの宣言から始まった。終わりもまたそうであるべきだろう。腕をさすり、故障を確かめながら、サクラは言い放つ。
「俺の勝ちだ」
「さっきの粒子は何?」
と、ヨケルヒルトが宣言を平然と妨害してくる。あの一瞬の出来事をよく見逃さなかったものだ。洞察力、あるいは動体視力に──番犬の敗北にこれっぽちとも動じない図太さと、声に含まれる僅かな愉悦にも──感心し、背後のヨケルヒルトへとため息交じりに声だけで答える。
「塩だ。硬質ソルト……上物だ。いい塩はいい仕事をする。目潰しにはもったいなかったが」
「何でそんなものを?」
「一時期主食だった」
「やめなさいな、そんな生活」
「好きでやってたわけじゃない」
そもそも、そんな生活の原因を作ったのは口座を凍結したドッヂウォールのせいであり、その件に関してはドッヂウォールの調査班から報告が上がっているはずだ。にもかかわらず半眼で呆れたように嘆息したのは、ヨケルヒルトの本心だろうか。あるいは痛烈な皮肉かだ。可能性は無限にあるが、サクラにとって、今はどうでもよいことだった。
動かないことはないが、使い物にもならない左腕を抱え、立ち上がる。SBSは視界の遠く、部屋の片隅でくず折れていた。大きな動きは無かったが、体全体がかすかに上下しているため、絶息してはいないらしい。叩きつけられた際に生じたのだろう。継ぎ目一つなく塗り立てられた白い壁、そこに刻まれた幾何学的な亀裂が、どこまでも薄情にSBSを見下ろしている。
「ダガーを使わなかったのはどうしてかしら?」
「形の上ですら勝つことが必要だ……力の差を見せ付けるためには」
殺すだけなら誰にでも出来る。闇討ちで相手を殺すことは勝ちではないし、毒を盛って得られるものは勝利ではない。サクラに求められているのはそれではない。意識の違いだ。負けを認める相手が居てこそ、勝利は得られる。
SBSは間違いなく、その命ごと、サクラを排除しにかかった。一方、サクラにとってそれは、SBSの無力化であり、単純な命のやり取りではない。番犬を失ったヨケルヒルトの心変わりが無いとも限らない。
ちらと肩越しに見やる。ヨケルヒルトは態度を崩さぬまま、腕を組んだまま、例の笑みを浮かべていた。プランの変更は無いらしい。番犬の無力化、ドッヂウォールの試験を通過したサクラに、まるで心から労うかのような口調で、
「勝因は?」
「機械に頼った。自分のものではない速度は、自分では制御しきれない。当然の結果だ」
「老いには勝てんさ。ヨケルンガルドの守護があっても、歳は避けられん……」
SBSだ。壁にもたれかかって立ち上がろうとしているが、下半身に力がはいらないらしい。あのダメージで意識を手放さなかった精神力があっても、打たれた肉体が動作のすべてを痛苦で塗り潰しているのだろう。呼吸を整えようにもままならない様子で、砕けたサングラスを放り捨てる。腹をさすり、空いた腕を壁に押し付けながら、蚊の鳴くような声で続けた。
「主命を果たせず……申し訳ありません」
「いいえ。貴女は立派に役目を果たしたのよ、サクラメント・ブリンガー・S。これは試験、貴女を打ち負かす者と、その””速さ””を見極めるためのね」
「お嬢様……」
その言葉が引き金となった。感極まったような、震える声でつぶやくと、SBSは力を振り絞り、見てくれは悪いものの、最大限背筋を伸ばし、敬意を払いながら胸元でYの字に印を切った。旧避聖書にも記されているというが、彼らの聖ヨケルギウスへの祈りの仕草は、常に敬愛と誠実を示す行動の頂点に存在する。SBSに応えるように、ヨケルヒルトもまた、同じ動作を取った。いつもの不遜な薄ら笑いではなく、凛とした表情で、しばしの間目線を交わし続けた。
「面倒なものだ。速さを求めて生きてきた……その結果がこれだ。私は待つことしか出来なくなっていた。誰かが己に追いつき、追い越していくのを……」
番犬の言葉は既に遅かった。不要な言葉、不要な修辞、不要な相手との会話──あるいは独白。正しさが何時失われるのか、誰にも分からない。最速であり続ける理由を失い、正しさを失って自嘲と皮肉をこぼすSBSの瞳は、どこか安らぎを得たようにも見えた。
◆◇◆
『速度に勝るものは無し』は、言わずと知れたドッヂウォールの社是だ。
速さを失った者、サクラメント・ブリンガー・セントヨケルギウス。速さに取り憑かれた者、サクラ・ブレイクバーストスピード。速さを求める者、ヨケルヒルト・ヨケルギオーネ・ドッヂウォール。
物語は加速する。ただひたすら終焉に向かって。それが大団円なのか、それとも悪夢に終わるのか。転がる石に、己の先に待つものを知る術はない。
転がりだした物語は、どこまでも加速する。誰かが止めるまで。あるいは、誰かが止めようとも。
◆◇◆
あとでかきます
◆◇◆
エピローグ
世界を青空が覆ってから、四年が経った。企業連盟、ハイドラ、そしてハイドラライダーと、残像領域のすべては様変わりしていたが、それでも空の色ほどは変わらなかった。何が世界を覆っていても、そこにあるものは変わらない。
サクラ・ブレイクバーストスピードは、空と共に変化したものの中の一つだ。立場も、名前も、そして──速度も。
さびれた町だった。残像領域の辺境、要塞ほどの僻地ではないが、都市部ではない地。目抜き通りに並ぶカフェや飲食店がそこそこ混雑しているのは、この町が物流の拠点になっているためだろう。都市部と僻地をつなぐ中継点は、それなりに活気があった。
人が集まるということは、情報も集まるということだ。そうでなくても、サクラの得た情報は信頼できる情報筋からの情報だ。彼の言葉が信用できなければ、この世の何も信じられないだろう。かつての、五年前の自分のように。
「硬質だな」
目当ての男はバーにいた。まだ日は落ちていない。カウンターにいる男はやけに目を引いた。無造作に切られた黒い髪に、気力のない瞳。そして、背中に背負ったシャベル。既に出来上がっているのか、店の隅にあるレコードの調べに合わせて体を揺らしていた。
標的だ。確信し、サクラは隣に座る。人気もまばらな店内にあって、空席を避けて隣に座られたことが気になったのだろう。男からは硬質な、訝しげな目線を感じるが、素知らぬ顔でメニューを眺めてマスターを呼ぶ。
「マスター。ここはいい塩を使っていると聞いている。塩と水と、あと適当に見繕ってくれ。それから、彼にサムライロックを」
「奢ってもらう理由がない。悪いが人違いをしていないか?」
「ああ。ただ、知人に似ているんだ。もう四年は会ってない……少し懐かしくてね。サムライロックは彼の好物だ。受け取ってくれ。迷惑料代わりだ」
なおも怪訝そうにしていた男だったが、毒を盛るにしても、店の瓶に細工する暇などないと判断したのか。善意を拒絶する理由も浮かばなかったのだろう。サクラが水を飲もうとすると、受け取ったサムライロックを突き出してきた。
「乾杯かい……」
「ああ。今日の硬質な偶然に」
「硬質な偶然に」
グラスのぶつかる硬質な音が、男を記憶の中の彼とさらに混濁させる。彼の経営していたバーを思い出す。やりにくい仕事になるだろう。雰囲気が似ているということは、本質が似ているということだ。恐るべき攻撃戦果を叩き出した彼のように、目の前の男も相当の手練れに違いない。リキティを引退させた張本人と聞いている。韜晦しているように見えて、間違いなく実力者だ。
「それで、俺はどんな男に似ているのかな」
「奴も硬質だった。あんたのように……似ているよ。強いて言えば強さが似ている。得物は硬質ダガーだろう……」
「ああ。硬質ダガーは良い。何と言っても硬質だ。そいつとは美味い酒が飲めそうだな」
「悪いがそいつは無理だよ、ハード・ダガー」
ぴり、と緊張が走ったのが理解できた。雰囲気が変わる。場末の酒場で昼から飲んだくれている酔っ払いの眼光は、瞬時(速い)に、確かに鋭さを見せていた。
「友達を紹介しに来たわけじゃない。話を聞かせてもらいに来た──純ヨケニウム結晶について。ドッヂウォールは、それを探している」
「ドッヂウォールか……」
首から提げる奇妙な輝きのペンダントを弄び、語と記憶を一致させるかのように、男──ハード・ダガーは陰鬱な声で繰り返した。ああ、とサクラは頷き、
「サクラだ。あんたがやったリキティ──四本腕の後輩でね。奴と違って令嬢から直々に命令を受けてる。が、奴とは違う。まずは──話をと思ってね。喉を湿らせてもらった」
「それでどうする? 人質でも取るか? お前たちの好きなやり方だろう」
あからさまな敵意に対し、サクラは頭を振った。報告書は読んでいる。ハード・ダガーが言ったのはリキティのやり方で、サクラは同じ轍を踏むつもりは無かった。必要が無い。卑怯な手を使わなくても勝てる自信はある。
「正直なところ、あんたとはやりたくない。取引で済めば速いと思っている。そいつを渡してくれないか。あるいは、入手経路を教えてくれるだけでも良いが」
嘘だ。ドッヂウォールは純ヨケニウム結晶を探してはいるが、かの時代ほど存在を重要視していない。純ヨケニウム結晶に似た結晶の存在が明らかになり、研究はヨケナイ人の遺跡から近年発見された魔術書ヨケルノミコンとそれとを分析して新たな結晶を人工的に生み出す方向へシフトしていた。無論実物が手に入れば貴重なサンプルだが、リキティの時代ほど強行なやり方は取っていない。
それでも大幅な譲歩であることに違いは無かった。かつて強奪を試みた相手に対し、酒まで奢って情報を引き出そうとした。ハード・ダガーとの衝突は危険視され、長い間棚上げされて放置され続けてきた。
「これは渡せないし、教えられない。やるなら相手になる。俺は強い」
返された言葉は予想通りだった。強い拒絶と、力の行使。背筋が震え上がるのを感じた。長らく味わっていない、戦場での感覚。ドッヂウォールについてからというもの、相手した敵はサクラよりも到底”遅い”者ばかりだった。それを上塗りする期待に、全身が泡立つ。
「奇遇だな。俺は速い。お前は強い。どちらが勝つか試してみるかい……」
銃を向ける。意味は無い。ハード・ダガーもそれを理解している。彼は笑った。
「冗談だろう」
「ああ、冗談だ。だが、客は逃げるさ」
銃声が響く。カウンターに、椅子に、グラスに、ボトルに、店内を弾丸が駆け巡る。罵声と悲鳴、そして足音が遠ざかると、店内は無人になった。戦場には二人。サクラと、ハード・ダガー。
青空が訪れて四年後。
サクラは、晴れてハード・ダガーと対峙する。
ENTER THE BATTLEFIELD AND DIVE INTO THE MIST.
◆◇◆