渡辺公平とチョコレートケーキ #2
会計を済ませてファミレスの外に出ると、雨が降り出していた。自宅のマンションまで五分ほどだが、冷え込んできているので濡れて帰るのは嫌だった。
意識を緩めて、死者感知モードに切り替える。辺りを見回すと、数名の死者がじっと私を見ていた。大抵は見ているだけで害はない。有害なものもいるが、よほど強力でない限り、私には害を成さない。
この死者感知モードは非常に便利で、私に害意がある何かがいる(または在る)場合、私よりもそちらを見るのだ。はっきり指差して、警告してくれる場合もある。
今は、死者たちがそわそわしているように感じた。霊感が近い人物が近くにいると、そういう反応を示すことがある。
私はファミレスの隣のコンビニに入った。雑誌のコーナーで立ち読みをしている、薄汚れたグレーのスウェットの上下を着た女性が一人。肩まである髪はぼさぼさで、淡い茶色だった。それをレジから嫌そうに見つめる太ったおばちゃんの店員が一人いる。
──ダンナ、ダンナ。
入ってすぐのところにあるビニール傘を手にとった瞬間、死者に話しかけられた。パーマでチリチリにした頭をタオルで巻き、顎ヒゲを生やし、職人風の白い作業着を血で赤く染めている。
私がいったん業界を抜ける前から付き合いがある、ナカニシという幽霊だ。この界隈をずっと漂っている。
──どうかした?
私は頭の中で話しかけた。ナカニシは、すっとスウェットの女性を指差した。私が見ると、ばっちり女性と目が合った。よく見ると、女性、というよりは女の子だ。十代半ばぐらいに見える。にしても、薄汚れすぎではないか。肌はガサガサで、唇が荒れている。
女の子は、私を見て、私の手に持っている物を見て、私を見て、雑誌で顔を隠した。
──照れちまって、カーイーっすねえ。
ナカニシが言った。そういうんじゃないだろう。
──知り合いじゃないと思うんだけど、何か知ってる?
私はナカニシに聞いた。
──ダンナとオオダンナが話してる間からずっといるってことぐれえしか、ワカンネっす。あ、でも、危険じゃねえっす。
オオダンナ、は前原さんだ。
──ありがとう。充分助かるよ。
──ちす。
話しかけてみようかと思ったが、あの感じだとすぐ逃げてしまいそうだ。そして、何か企みがあるようにはまったく見えない。
悩んでも仕方がない。ビニール傘を買い、外に出た。少し歩くと、グレーのスウェットが追ってくるのが分かった。
害意がないというナカニシの言葉は本当だろう。誰かに連絡を取っている風もない。それから、雨足が強くなっているが、傘を差す様子がない。
私は自宅のマンションではなく、その近くの結構な広さのある公園に足を向けた。
石張りの入り口から芝生を突っ切り、屋根のある休憩スペースに向かう。自販機もあるので夏場にはガラの悪い連中が溜まっていることもあるが、今は違う。
公園内には、揃いの雨合羽を着せた犬を散歩させている人が見えた。他には生きている人間は誰もいない。グレーのスウェットは、少し離れたところから私に付いてきている。
コンクリートで作られた休憩スペースに入ると、私は振り向いて、ベンチに腰掛けた。
フードを被ったグレーのスウェットの女の子と目が合う。私は笑顔を作って見せた。女の子はずぶ濡れになっている。今気づいたが、足元はサンダルだ。
女の子は気まずそうに目を逸らした。また私を見る。諦めたのか、ふらふらと近づいてきた。
「あ、あのっ」
私の目の前に立ち、女の子は言った。緊張した声は、透き通った高音だ。身長は一五〇センチ代の半ばぐらいだろうか。視線は、私というよりは、私が持っているファミレスの箱を見ているな、と思った瞬間、ぐぎゅー、と音がした。女の子の腹の虫だ。
「あ、えっと」
女の子は真っ赤になって、それきり黙った。しばらく見詰め合った。私の方から目を逸らした。十代の女の子のまっすぐな目は、正直ツラい。
「ケーキ食う?」
私は箱を差し出して言った。
「いっ、いただきます」
正直な子だ。 ほとんどひったくられるようにしてケーキの箱が消えた。女の子は私の隣に座って箱を開き、顔を輝かせた。本当にお腹が空いていたようだ。
今、ここで食べるぐらいお腹が空いているってのはどういうことなんだ?
女の子はチョコレートケーキを手で掴み、最初の一口を食べた。そして、うぐぐ、と呻いた。ほっぺたをむにむに揉んでいる。痛いらしい。もう一口食べると、今度はむせて、胸を叩き始めた。
私は立ち上がると、自販機であたたか~いミルクティーを買った。ベンチに戻ると、プルタブを起こして女の子に渡した。この程度のことだが、女の子が本当に感激しているのが分かった。涙ぐんでいる。
ミルクティーを渡したときに触れた指先は、とても冷たかった。
ここは上着を貸すべきか。でも、臭いと言われないか。少し考えたが、最終的にはまあいいかと思ってチョアコートを女の子の肩にかけた。今度は女の子の目から涙がこぼれた。なぜか、私も泣きそうになった。
「ごっ、ごちそうさまでした」
チョコケーキを食べ終えると、女の子は私に向かってぺこりと頭を下げた。
「うん」
私はとりあえずうなずいた。女の子は、ミルクティーを大事そうに少しずつ飲んでいる。
いろいろと事情はありそうだが、私の方からあれこれ聞くのは誤りだ。
「あのっ」
沈黙に耐えられなくなったらしい。私はそれを見越していた。大人はずるいんだぜ。
「うん」
私は視線を合わさずに返事をした。
「あの……大丈夫、ですか?」
女の子が言う。それは私のセリフだ。私は驚いて女の子を見た。なんでこの子はぼろぼろ泣いているんだろう。
私はすぐに答えることができなかった。阿呆みたいに、女の子をじっと見詰めた。
そして分かった。この子はただの人間じゃない。発するオーラみたいなものが違う。エンパスの類だろうか。
「大丈夫じゃないよ。全然、大丈夫じゃない」
私は目を逸らして言った。ここは正直に答えるべきだろう。でも、顔は笑顔にしておいた。
「じゃあ、私からも質問するよ」
女の子は答えなかった。ずっとぼろぼろ泣いている。
「きみは大丈夫なの?」
私が言うと、女の子は私にしがみついて声を上げて泣き出した。もう、この子については謎ばっかりだ。
なぜ私を気にかけるのか知りたかったが、女の子は泣き止まず、もう会話にならなかった。この子は家には帰らない方が良さそうだ、というのは察した。警察を呼んで保護してもらおうか考えたが、私にも関わる事情がありそうだ。
とすると、別の人に保護をお願いした方がいい。
次で本日分は打ち止めです。