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闇に願う月の魔法

 月のない闇夜でした。

 石造りの大きなお屋敷は、夜露に濡れて冷たく夜に溶け込んでいました。

 皆が眠りにつき、時が止まったかのような静けさの中、カチリと小さな音が響きます。その音に驚いた黒猫が、背中を丸めて飛びのきました。


「ごめんね、驚かしてしまったわね」


 囁くような少女の声に、黒猫は抗議の声を上げると、足早に立ち去ります。その鳴き声にお屋敷の中を気にしながら、少女はそっとガラス戸を閉めました。

 吐く息が白く闇に浮かびます。

 少女はそれを気にした様子もなく、バルコニーにひっそりと置かれた鉢の前にしゃがみ込みました。


「こんばんは。今日は随分と遅くなってしまったわ」


 少女は、まるで人間に話しかけるように、鉢植えの花に話しかけます。

 当然、それに対する返答はありません。それでも少女は、そのまま話し続けました。


「今日はね、裏庭でお義母さまのお部屋のカーテンを洗ったのよ。とても大きくて、時間がかかってしまったの」


 その言葉は、もはや感情を失ってしまったかのように、淡々としていました。

 夜露でしっとりとした葉を指で撫でますが、その指はかさついており、ところどころで引っかかってしまいました。

 手を広げ、その事実に気づいた少女は、悲し気に顔を歪めます。

 少し前まで、その手は白く滑らかでした。

 今は歪んでいる顔だって、本当は笑顔が似合う少女だったのです。

 優しい家族に、たくさんの使用人、同年代のお友達もたくさんいました。

 少女は、皆に愛され、幸せに包まれた少女でした。ですが、全ては一年前、少女の日常は、突然壊れてしまったのです。

 ある日、領地に現れた占い師の言葉によって、幸せだった少女の生活は音を立てて崩れていきました。


『奥様は、まもなくお亡くなりになるでしょう』


 誰もがその言葉を信じませんでした。なによりも、そう言われた当人が占い師の言葉を信じず、笑い飛ばしたのです。

 すると、占い師はスーッと静かに腕を上げ、長く伸びた歪な爪を少女に向けました。


『全てはこの娘が元凶だ。信じなければ、それで良い。だが、いずれ後悔することになる』


 恐ろしい声で放たれた言葉は、少女に衝撃を与えました。

 恐怖のあまり、父の腕に縋りつく少女を、父親は守るように力強く抱きしめました。

 ですが、ほどなくしてそれは、現実のものとなってしまったのです。

 あの日、少女をしっかりと抱きしめた手で、父は彼女を突き放しました。

 それ以来、少女の地獄が始まったのです。

 日の当たる広い煌びやかな部屋は、中庭に面した小さく狭いメイド部屋に変わりました。

 ひらひらの華やかなドレスは、質素なワンピースに。

 家庭教師は全員去り、習い事や買い物、お茶会で忙しかった日々は、慣れない掃除や草取りなど、こき使われる生活に変わってしまったのです。

 父は、妻を失ったショックから立ち直れず、弟に家督を譲り、別邸に閉じこもってしまいました。領地の屋敷を任された叔父は、残された少女を奴隷のように扱います。

 絶望が少女を包みます。そんな時、少女が思い出したのが、亡くなった母の言葉でした。


『新月の夜、願いごとをするの。それから千の夜を経て、願いは叶うのよ』


 それは、あの占い師が不吉な言葉を発したその夜、母が教えてくれた言葉でした。

 己の存在が母を死に追いやるのだと、その言葉が恐ろしくて震えていた夜に、母がそう慰めたのです。


「お願いします。私をここから救い出してください」


 全てが変わり果て、笑うことが無くなった少女は、新月の夜に願いました。

 新月の願いが叶うのは、千の夜を経てから……長い、長い時が必要です。

 過酷な毎日に、少女の心は磨り減る一方でした。

 強く、強く願う少女は、毎晩のようにバルコニーに出て空を見上げます。

 そして、母が好きだった花に話しかけるのです。そんな生活を送って、もう五百日が過ぎようとしていました。

 そんなある日、少女にまたしても辛い宣告を受けてしまいました。

 少女は、叔父に結婚話を突き付けられてしまったのです。

 相手は、父よりも年上の豪商で、顔を見たこともない人物です。

 自分に箔をつけたいがために、名家の娘であれば誰でも構わないという男でした。

 少女にとって、願いが叶うまでの千日は、あまりにも長かったのです。


「ねえ、わたくし、来週にはこのお屋敷を出るのよ。もう、あなたとこうしてお話することも、できなくなってしまうわ」


 蕾のままの花に、そっと触れます。

 花も、母が亡くなったことが悲しかったのか、あれ以来開くことがありませんでした。

 ふくっと膨らんだ蕾のまま、硬く閉じているのです。それはまるで、少女の心のようでした。


「ごめんなさいね。あなたを連れていくことはできないの」


 そう小さく零し、力なく立ち上がった少女は、寒々しい部屋に戻っていきました。


 新月の願いごとは、千の夜を経て、叶えられます。

 月は願いを聞き入れ、一日、一日と、その身を膨らませ、やがて真ん丸になります。そして、願いをその身に閉じ込めるように、今度は段々と萎んで、また新月を迎えるのです。それを繰り返すことで、より願いは叶えられると、人々に信じられてきました。

 ですが、少女の願いが叶うまでには、もう半分の日数が足りません。

 結婚してしまっては、願うことすら、難しいかもしれません。

 もう、少女には、諦めることしかできませんでした。



 次の夜は満月でした。

 少女は、一日の仕事をやっと終えると、重い足を引きずるように部屋に戻ってきました。いつものようにバルコニーに続く窓を開けた少女は、目に飛び込んできた光景に驚きました。

 ずっと咲くことのなかった花が、開いていたのです。

 幾重にも重なった大きな白い花びらが、満月の灯りの下で、すべて開いていました。


「これは……一体、どういうことかしら?」

『願いは、千の夜を経て叶うのだ』


 どこからともなく柔らかな声が聞こえ、少女は辺りを見渡します。ですが、辺りは闇に包まれたまま。人の気配など感じません。

 気のせいだろうかと、再び花を見やると、まるで少女を見つめるように花が上を向いているではありませんか。


「もしかして……今の声は、あなた?」

『今宵で千の夜。願いは叶うのだ』


 また、声が響きました。それは耳に直接入り込むというより、少女の周りの空気が震えるように音となり、声に包まれるような不思議なものでした。

 花はまるでその声に合わせるように、花びら一枚一枚が、ほんのりと発光し、ふるふる揺れています。


「千の夜……? いいえ、違うわ。千の夜はまだ遠いの。わたくしの願いは叶わなかった」


 少女の大きな瞳から、涙がスーッと流れ、ポトリと落ちました。その滴を受け止めたのは、白い花びらです。涙の重みでクンッと沈んだ花でしたが、滴をその身に取り込むように、ぶわりと膨らむと一層輝きました。するとどうでしょう。その光は空高くまで立ち昇り、眩しいまでの光を放ったのです。その光は満月の明るさをも凌ぐほどでした。

 空を見上げ、神々しい光に見とれる少女の目の前で、突然光がパァンと弾けました。驚いて目を閉じた少女が、恐る恐る目を開けると、そこにはひとりの青年が立っていました。

 透き通るような肌に、真っ白で豊かな髪を持つ美貌の青年は、明るい緑の瞳で、じっと少女を見つめていました。


「今宵の満月が、千の夜であった。長かった。とても……長かった」

「千の夜? いいえ……わたくしの千の夜は、まだです」

「我の願いだ。我の願いが叶い、そなたを救える存在になった」


 青年がぎこちなく微笑み、少女に手を差し伸べます。


「我と、共に参るか」

「あの……あなたは……」


 その時、部屋の外がにわかに騒がしくなりました。


「今の光は、なに?」

「この部屋の外からではなかった?」

「あの娘の部屋か!」


 近づいて来る足音と、大きくなる声に、少女が身をすくめました。


「ここから出たいのであろう。そなたは、そう願った。そしてそれは、そなたの母の願いでもあった」


 その言葉に、少女が目を潤ませます。



 *



「あの子が幸せでありますように。あの子がひとりになりませんように。あの子の笑顔が絶えませんように……」


 病魔が徐々に身体を蝕み、時がもう長くないのだと少女の母が知った時、母はバルコニーで月に祈りました。


「きっと、あの子の父は、あの子を恨んでしまうわ。あの忌々しい占い師の言葉が脳裏に焼き付いて、離れないでしょう」


 雨の日も、雪の日も、月の出ていない日も、毎日毎日願いました。


「あの子をひとりにしたくないの。絶対、嫌なの……」


 やせ細っていく身体を起こし、毎晩月に祈ります。


 花は、それをずっと見ていました。そして、花もまた、それを願うようになったのです。


 母親が亡くなり、少女がベランダから鉢を持ち上げた瞬間、母親の願いは花に受け継がれました。


『この子を、ひとりにしてはいけない』

『この子に、幸せになってほしい』


 花は、毎日少女を見ていました。

 毎日、少女の話を聞いていました。

 少女の環境が変わっていくのを、見ていました。

 笑顔が消えていくことを、知っていました。

 涙をその葉に、受け続けました。

 触れるその手が、荒れていくことを感じていました。


 ヒトになりたい。

 この少女を、こんな監獄から連れ出せる存在になりたい。

 月よ――。

 どうか、我にその力を……。

 千の夜を、その思いを口にすることもできず、少女の涙を拭うこともできず、抱きしめることも叶わず、ただひたすら願い続けました。

 そうして、やっと千の夜を迎えたのです。


 やっと、少女より大きくなれました。

 以前は少女の足元で、じっと見上げることしかできなかったのです。

 やっと、声をかけることができました。

 以前は思うだけで、音として発することができなかったのです。

 やっと、微笑みかけることができました。

 やっと、手を差し伸べることができました。

 やっと、少女と同じ「ヒト」の身体を得ることが、できたのです。

 その笑みはとてもぎこちないものでしたが、精いっぱいの微笑みでした。

 差し出した手も、指が一本一本動くことが、とても不思議でした。その全ての先端まで、じんわりと力が巡り、気持ちが高揚しました。


「我が、そなたをここから連れ出そう。我と、そしてそなたの母が願った幸せを、そなたに捧げよう」


 ついに、少女の手が重ねられました。

 彼は、それを壊さないように、柔らかく包み込み、片方の腕で少女の腰をしっかりと抱えました。


「では、参ろうか」

「――はい」


 彼に寄り添うと、そこからは懐かしい花の香りがしました。それは、母が大切に育てていた、あの花の香りです。

 少女はその香りに包まれ、静かに目を閉じました。



 *

 


「何事だ! おい! なにをしている!」

「開けなさい!」


 忙しなくドアが叩かれます。

 焦れた叔父たちが、返事も待たずに強引にドアを開けました。ですが、そこには誰の姿もなく、大量の白い花びらが床一面に散っているだけでした。


「なんだ、これは! あの子は一体どこに行った!」

「どうしましょう。あの男からの援助金が入らないわ」


 部屋に乗り込んだ叔父とその妻は大慌てです。ですが、いくら探しても叫んでも、少女が戻ることはありませんでした。

 少女は花の世界に旅立ち、力を得てヒトの姿を手に入れた花の精と、幸せに暮らしました。




 おわり





 



 

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― 新着の感想 ―
[良い点] まるで動く絵本を見ているように情景が浮かびました。 [一言]  こんばんは、Mielさま。  絵本のような優しい文体で、とっても読みやすかったです!  かわいそうな女の子の望みはかなう…
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