~プロローグ~
男がいた。鈍色の空にうっすらと朱色が差し込む世界で、黒い瞳が光を放つかのごとく爛々と輝いていた。線が細いが精悍な顔つきをした頭髪を短く刈り込んだ男だ。無邪気な笑みを浮かべて細い腕で私を抱きかかえてくる。
「捨てられたのか」
別に捨てられたわけなどではない。そもそも私の世界には初めから私しかいないのだから。男の腕の中でもがき脱出を試みるが放してくれそうな気配さえない。そこで私はその顔をにらみつけてやることにした。
「私にかまうな」
今度はその細い腕に牙でもたててやろうか、引っ掻いてやろうかと暴れているとややあって男の力が緩んだ。ようやく解放された。腕に触れられていた箇所が暖かい。これが他者のぬくもりというやつであろうか。心臓が早鐘を打っている。見も知らぬ人間にいきなり抱きすくめられるなど初めてのことであったからもしかしたら私は当惑してしまっているのかもしれない。どんな反応をすればよかったのだろう。男もバツの悪そうな顔をしてしまっている。
「あー…俺なんか嫌われちゃったなぁ」
ガックリと音がなりそうなくらいに激しく肩を落とした男の顔は本気で傷ついた様子だった。
「なによ、情けない顔して」
「ま、いいけどね!お前いつもここにいるだろ。明日も来るよ!」
「―――は」
急にはつらつとした笑みで手を振り踵を返す男に私は言葉を失った。
しとしとと、霧のような軽い雨が降る夕暮れの道端だった。それが、彼と私の最初の出会いであった。一人と一匹の運命の歯車がかみ合った瞬間であった。