第三章:切り裂きジャックのその理想
怖い物を恐怖と思えればそれは矛盾になるというのを知っているだろうか?
例えばジェットコースター。
怖いと思う人間がいるかも知れないがあれは恐怖というよりは絶叫である。
例えば幽霊
怖いと思う人間がいるかも知れないが
あれは恐怖というより異質。
例えば虫
怖いと思う人間がいるかも知れないがあれは恐怖というより奇怪。
怖いという概念は身を知れぬ恐怖だからこそ怖いのだ。
それは順当と言ってしまえばそれまでだが、その恐怖に絶対などはありはしない。
触れれば怖いなどもしかりである。
そういう事と思うがこそ、それは恐怖の対象となり、破滅し、懇願し、撃滅する。
並列などは元々アリはしないのだ。
恐怖という存在は恐怖と感じる前が恐怖なのである。
誰もその真意を分かっていないが。
「外に出て、空を見上げたら、落ちちゃったみたいな感じ?」
「意味が分からん」
ここは城崎病院の一室である。
そう地下に勝己の死体があるあの病院だ。
それこそ何の因果があってこんな所にコイツが居るのかと言えば、コイツが屋上から落ちたせいである。
沙希は舌をちょこっと出して控えめに自分の頭を叩いた。
沙羅双樹に希望と書いて沙希である。
砂塵で希望と書くのかも知れないが。それは今は使われないしな。
今度勝己に聞いてみよう。
ともかく、勝己のもう独りの性質。
表である人格の沙希は屋上から足を滑らした。
それ故に両脚骨折して、内蔵破滅という重度の危険なというか死ぬ直前まで行った。
意識が普通の状態なら死んでただろうが、というか自殺者は地面に落ちる前に死ぬのだが、沙希の場合、意識が不安定な位置にあったから助かったのだと医師はいう。
勝己が覚醒したせいなのか、それともただの天然か。
どちらと聞かれたら天然と即答出来るが無駄に拗ねるのでいうのは止めておいた。
「所でだ」
「何?」
「お前学校どうした?」
「へへ」
何がへへだ。どうにもこうにもコイツはインドアの引きこもり野郎だ。
つうかその変わりに両足骨折してたら本当に無駄骨じゃねぇか。
「うまい事言うね」
「誰も言ってねぇよ」
「じゃあ独り言だよ」
「じゃあって何だよ」
「それは、だから、その、ゆえに、そんな、たぶん、その、これは、という、それとも、そして、それに、どれがいい?」
「接続詞並べて何が楽しいんだ」
「接続詞じゃないのもあるけどね」
「最大級の嫌味だな」
「最高級の慈しみだよ」
「嫌味な奴」
「可愛い奴」
まぁこういう奴である。
屋上から足を滑らせて危うく死にかけるというのは、コイツにしてはやりかねん。
西側に設置されたこのの病室は、白から朱に代わり始めていて、沙希の顔に陰りをつけ初めているのだが、これがまた何とも絵になるのだから不思議である。
「そう言えばどうするの?」
「何が?」
「しゅ〜うふく〜し」
のんびりとした口調で沙希はそういうと、爪を操り始める。
「何で無駄に伸ばしてるのか聞きたいんだがな。まぁ仕事は行くよ」
「そうですか」
「そうですね」
「死なない程度に頑張って貰いたいのですが、訊かないよねそれじゃ」
「仕方がない。仕事だしな」
「嫌味な奴」
「可愛い奴」
こればかりは仕方がない。
仕事という名目ではあるが、修復師である僕の仕事だ。
勝己がいないのが少々残念と言えば残念だが、規則的に現れてくれるだけマシというものであろうか?
その前に大量の証拠品から遺品、関連性から最近流行ってる薬まで調べ尽くさなきゃならないのが難点だが、勝己が出てくるまでに分かる所は分かっておきたい。
後は勝己の発想と知識だけが頼りである。
勝己は探偵などという天才ではない。
人より少しだけ違う見方が出来るというだけである。
そもそも探偵などという天才は小説の中にしかいないのだ。
一つの証拠だけで何通りも思考し、考え、有り得ない見解を出す。
その意見に否定はしないが賞賛もしない。
じゃあ警察のやっている事は無駄という事になるからだ。
地道に聞き込みをし、地べたを這いずり回り、意地でも追いかけ回すその時間があの有り得ない存在が居るだけで何百何千という時間が無駄だったという事になる。
まぁ実際探偵という本物はいないのだけどね。
「眉間に皺寄せて何考えてるのかな?」
「さぁ何考えてんだろうな」
「自分の事なのに分からないというのも不思議な話だと思うよ?」
「そういうな。人間自分の事分かってる奴何て少ないんだよ」
「ん? 自分探しする青年みたいな感じ?」
「また違うな。自分のものさしで自分を計ると確実に自分の価値を上げるって話さ。俺はあいつより上だとか下だとか、卑下する事なら誰だって出来るが……卑下した所で自分にはその価値もないと分からない人間が多すぎる」
「つまり、身分不相応って奴かな?」
「簡単にいうとな。まぁ人間ってそんなものさ」
「相変わらず悲観的だね。人間はもっといいものだと思うけどなぁ」
「そう思える人間は幸せだよ。いや、嫌味じゃなくてだな。本当に……」
そんな人間が何人居るだろうか?
人間がいいものと思える人間が。
エデンの果実を食べたのも人間である。
戦争を起こしたのも人間である。
森林を伐採し、海を汚し、動物を絶滅させているのも人間である。
地球上全てにおいて人間という種族が底辺だというのにも関わらず、武器というものを使い、一番増殖をした化け物。
はぁ……馬鹿が僕は。
「人間は決して天国にはいけないのだろうな」
「どうして?」
「生きてる事じたい罪だ。生きるという事は決していい事では無いのだ。特に人間は」
「だけど……貴方も人間じゃない」
「そうだな。人間だな」
沙希と別れ病室を出てしらみ潰しに現場を回った後、誰かにつけられている事が分かった。
ソイツはただ単に僕とすれ違った時に方向転換して後をつけてきた。
すると目的は何だろうかと先程から危惧しているのだが、僕は至って普通の一般人で、相手の行動など読める筈もなく、だからと言って付きまとわれるのも不気味と言えば不気味である。
そろそろ日も暮れようかという時にこれだから自分の不幸を恨む他ないが、それにしたってソイツはよくもまぁ一定の距離を置いて追いかけてくるなと感心すら覚える。
近づき過ぎず離れ過ぎず。
絶対に人間六人分開けて奴はついて来ていた。
逃避するにしてもこの距離じゃ追いつけられるし、かと言って逃げ回るのも趣味じゃない。
顔ぐらい見てみたい物だが……さてさてどうしたものかな。
後ろを振り返ればやはり逃げるのだろうか?
いや隠れるだけか?
じゃあ隠れられない所というとどこであろう?
この大きな大都市で隠れる場所が無い場所を探す方が難しい。
やはりどこか店に入るべきか?
いや、入ったとして奴は付いて来るのだろうか?
しかしだ。
顔を見てみたい気もする。
どんな奴が、何の目的があって僕を付け回すのか?
そもそも、付け回される事をした覚えなどさらさら無いのだが――
とするとやはり事件を調べ回っているからだろうか?
いや、それだと妙だ。
何の理由があるというのだろうか。
じゃあ関係者か?
関係者が何故僕を付け回す? そんな回りくどい事などせずに警察に行くだろう。
じゃあ何者だ?
何の理由があるというのだろうか?
一か八かかな?
大通りに面している寂れた喫茶店に入ると、マスターが一瞥をくれただけで何も他には喋らない愛想のない店だった。
店内に客が二人ほど居たが気にも止めない様子で、新聞を読んでいる。
僕は一番端のソファー掛けのテーブルに座ると、コーヒーを頼んでそこで待つ。
入ってくるだろうか?
やはり外で待つだろうか?
そうこうしてる内に、店内のベルが小さく鳴った。
ソイツは迷わずこちらに来ると目の前に腰を下ろした。
奇怪な奴だった。
首に黒い首輪を巻いて、手首には鎖の千切れた手錠。腰まである髪は血液を連想させるような赤い髪をしていて、どことなく薄い笑みを浮かべている。
服はパンクバンドを連想させる千切れた服を何枚も着込んでいたが、スカートはめちゃくちゃ短かった。
肩にはギターケースなのかベースなのか分からないケースを担いでいて、そのケースには無数のステッカーが沢山貼ってあった。
彼女は笑いながらコーヒーを頼むと、音楽を奏でるようなアルト声で――
「始めましてこんばんは。切り裂きと申します」
愛想笑いでそう言った。