第一章:死体の訳
これが死体であると言われたら何人の人間がその虚偽を信じるだろう?
事実、目の前の死体は確かに死んでいるのだから虚偽も真実も無いのだけれど、それはただ単純に霊安室という特別な空間に居るから脳がそう判断しただけであって、コイツはもしかしたら死んでいないかも知れないとは考えた事は無いだろか?
はたまた死体ではなくドッキリであると考えた事は無いだろうか?
何故、今になってこんな事を思っているのかと言えば、それは僕にとってこの場所は何故か嘘っぽいというか、偽物の感じがして居たたまれなくなっているからだろうと僕は推測する。
だからこそ今、目の前にいる死体が死体だと思えないのはその性だろうと僕は考える。
薄緑の非常口を示す看板が怪しく十畳あるかないかの部屋を照らし、僕の右隣には大層大きな仏壇がこの部屋の一畳をまるまるぶんどっていた。 そして、その部屋の中央には顔も知らない見知らぬ人間の死体が長テーブルのような堅いベットの上に眠らされている。
僕は何となしにその死体を見つめながらコンクリートの壁に背中を付けてもたれている。
コイツは本当に死んでいるのだろうか? と本気で思う。
例えばドッキリ企画だとか、例えば間違えて眠っているだけだとか……
そんな風に考えるが非現実的過ぎて欠伸が出た。 そんな事を考えるならば当たらない二億円の使い道考えている方が幾らかマシだと思う。
――閑話休題
コイツは死んでいるのである。
それは変えようもない事実であり、脳がそう判断しているのだからそうであるのだ。
――しかし。
脳という曖昧かつ単純な器官は時間と場所とお金さえ揃えばいくらでも騙せるのでは無いのだろうか? もし仮定の話だとして、二年前に死んだ祖母によく似た人を連れて来たとして、僕の家族に見せたならば、家の家族はそれを見て何て思うだろうか?
クローン等と思うかも知れないし、はたまたソックリさんだと見破るかも知れない。時間によっちゃ幽霊という存在に見えるのでは無いのだろうか? 脳という存在はそれ程までに曖昧で単純なのだ。
だからもし死体が動き。喋り。笑ったのならば脳はそれを死体と呼ぶのだろうか?
死んだ肉体と書いて死体である。
心臓が止まっているのにも関わらず行動する死体はそれは死体というのだろうか?
それは一般的には幽霊と呼ぶ存在では無いのだろうか?
はたまた脳死している人間が動き出したならばそれは死体と呼べるのだろうか?
科学的というならば確かに有り得ない事だが、止まった心臓を機械心臓に移植した場合、それはもう死んでいると呼べるのでは無いだろうか?
全てを機械に組み合わせて、組み込まれた人間はそれこそ生きた死体では無いのだろうか?
やはり前例は見た事無いが――
場所は城崎病院地下の霊安室である。
周りはコンクリートで囲まれて換気良好などというには些か空気が腐敗し、沈澱しているように思う。
部屋の中央には先程述べた顔も知らない他人が其処に寝転がっていて、勝己はその隣に設置されてあるパイプ椅子を反対に座りながら死体を眺めていた。
「初めまして勝己」
揶揄するかのように静かな霊安室にいつもより二倍はトーンの低い沙希の声がこだまする。
前回も述べたと思うが、沙希は勝己で勝己は沙希だ。
それは“そういう事”である。
そういう事でしか理解する術が無いのだ。
無駄に二重人格と考えたとしても、その答えは半分当たりで、半分ハズレであり。
勝己は規則的に現れるのだ。
いや、沙希が規則的なのかも知れない。
基礎体は沙希であるが、意識的に強いのは勝己である。だから勝己が出てきた時には沙希は何も知らなくて、沙希の記憶は勝己にはあるのだ。
言うなれば体は沙希で頭は勝己である。
だけど沙希だってデメリットばかりじゃない。肉体の権限は主に沙希にあり、勝己が沙希の体を使うとなると、凄い勝己が消耗するのだ。
歩くにも杖を使わなければならなくて、階段を上る事さえ彼は息切れしながら上らなくてはならないのだ。
彼曰わく心の拒否反応らしいが……
未だに信じてない僕が居る。
まあ何がそうなって、彼女の体に彼が入ったのかは分からないし、誰がどうやって彼女の中に彼を詰め込んだのかすら理解できない。
ただ、彼は沙希の中に居て沙希は勝己の中にいるのだと理解するほか無いのだ。
――精神的矛盾。
実務的矛盾と言ってもいい。
そうあるべき必然とでも言うかもしれない。
死んだ筈の彼は単純に彼女の中に居て、彼女は死んだ筈の兄を心という存在に住まわせている。
心という存在は非現実的な解釈でしかないと思うけど、それは考え方の違いなだけで現実的な解釈なのかもしれない。
いや。この世に現実的という言葉の存在がある事自体おかしい話だと思えない人間=僕が非現実的対象なのかも知れないな。
勝己は死体に被せらされた布を半分だけめくると、人間と言うにはあまりにもかけ離れた人間が虚ろを捉えてそこに横たわっていた。
認識、見識など問題ではないくらい、鼻がへしゃげ、曲がり、眼球の瞳孔は片目だけ無くなっている。
顔には不可解な傷が無数に走っていた。よほど強い力で鈍器を振り落とされたのだと思う。
じゃなきゃそれは人の力では到底有り得ないぐらいの破壊だった。
よほどの憎しみがあったのか、それとも恨みつらみの類かは知らないが、相手の逆鱗に触れたのだろう、じゃなきゃここまで壊滅的に壊しはしないだろ。
勝己は目を細めて死体を見ると訝しげな顔をして睨むように僕を見た。
「……勝己変わったな」
無理も無いのかも知れない。
前回の方が些かマシであったと僕だって思う。まだ前回の方が顔も潰れて無くて、顔もちゃんと認識出来たし、表情だってまだ読み取れた。
今回のは少しというか確実に認識というレベルを越えている。これが自分だと言われる勝己にしては少しツラい物があるのだろう。
「沙希……頭悪くなったのかな?」
「そこで呟く事じゃないと思うんだが?」
寧ろ、妹の頭を疑う兄というのはどうなんだろうか? そもそも、コイツは死んでるって事を理解しているのだろうか。この死体は沙希が判別したからであって元の肉体は二年前に消滅している筈なのだが?
「まぁ状況はどうであれ、今回の僕はコイツになった訳だ」
「そうなる」
白い布を死者にまた被せた勝己は、後ろの背もたれに持たれながら両腕を組み、ん〜と唸った。
「何か考え事か?」
「考え事というか……まあ言うなれば客観的観測だな」
勝己はそう言ってまたん〜と唸った。
またおかしな事を言う。
客観的観測なんて他人から見ればそれこそ客観的では無いのだろうか? 当事者と被害者ならばその見解が必要かも知れないが当事者ではない勝己にとって、それは客観的であって主観的などという弁論かつ比喩にはならないと思うんだが……
「君はつくづく阿呆だね」
「何でだよ」
「客観的観測の意味でも考えているのか? そんな事子供でも分かる見解だと思うんだけど?」
勝己はそう言って足をぐぅと伸ばすと体を反らす。
豊潤とは言えない沙希の胸がぐぅと突き出される形となって勝己はゆっくりとその反りを元に戻した。
「例えばだ。人間という一生命体は客観的観測など出来ないのだよ」
「それはまた大胆な仮定だな」
「仮定? これはちゃんと心理学に基づいての事さ。嘘だと思うんなら調べてみるといい。例えばそうだな、無能な警察だ。警察というのはまず客観的推測もしくは客観的観測をしないで動機から入る。次に被害者の人間関係、被害者と犯罪者の関係や殺人までの動機、で最後に物的証拠と犯罪に衝動的関係、でやはり動機こんな所だ」
両手を上げて勝己は肩を少しだけ上げると暇そうに欠伸をする。
「所詮は仮定の話だろ? そう上手く心理学が人間に追い付ける筈は無いじゃないか。たかたが百五十年の歴史ぐらいでそんな簡単に人間が分かってたまるか」
心理学。宗教学。法経医学。
ありとあらゆる奇妙な学問だけを頭に入れる我が友はにやりと笑むと、舌を少しだけ出して唇を舐めた。
それがまた沙希の顔であるのだから何とも妖艶な仕草である。
「じゃあ君は、いま目の前にある死体はどうやって殺されたんだと思うんだ?」
目で死体を指した勝己はそのまま目線を上に上げて僕の方を見てくる。
「そりゃあ鈍器か何かで殴られたんだろ」
「何故?」
「憎しみとか恨みとかその辺だろ?」
「その理由は?」
「理由はだから……」
憎しみとか恨みとか――
「それが動機だろ、動機と言わなくて何て言うんだ?」
「それは誘導尋問じゃないか、君が理由などと言わなければ……」
はたして本当にそうだろうか?
もし、他人に被害者の死因を訊かれた場合、外傷を調べれば済むが、加害者の場合はどうだろうか?
相手が何故殺したのかという動機から入らないだろうか?
「でも……」
「でも、けど、だけど――その接続詞からなる言葉は全て言い訳しかならないんだ。もしくは等は論外だ。仮定にしかならない」
皮肉っぽく勝己は笑うと楽しそうにしかし、楽しんでなんかいないような笑みを表情に張り付かせたまま、僕の目を見る。
僕はこの目が嫌いだ。
大嫌いという程でも無いが、この目は勝己の瞳によく似ている性だと僕は思う。そういう時は無性にコイツは沙希だと言いくるめなきゃならないから嫌なのだ。
「ただ――ちょっとだけ言い訳するならば、人間は人間でも動機不十分でありながら人を殺せる人間は沢山いる」
ふと思考が止まる。
何をいきなり言い出しているのか判らなくなったからだ。
「動機が無くて人を殺せる人間?」
勝己は小さく肯定して、組んでいる腕を解いく。
「百人中五人ぐらいかな? 多分」
「多分とはまた珍しいな」
皮肉を皮肉で返してやると右頬だけを上げてまた勝己は苦笑する。
「僕も完璧じゃないからね。普通の人間心理には興味はない。ただ、普通だからこそ、人間はおかしくなれるんだよ。考えてみた事はあるかい? 例えば普通という言葉。凡人という言語。全てが全て人間の異質をひとくくりに纏めた言葉だと君は気付いてるかな?」
「普通は普通以外何も無いだろ。それ以外になんの意味があるんだよ……」
勝己は呆れた――とでも言いたげに目を細める。
「じゃあ君が考えてる普通という言葉はどういう意味だ? 凡人とは? 普通っていうのは普通だから普通なのさ……」
いまいち理解出来ない。
理解というか……意味が理解できない。
勝己は何を言い、何を比喩しているのかが判らなくなってくる。
「判らないって顔をしてるな……例えばだ。人間というのは初めから最後まで異質か異端なんだ。普通なんて人間はいないのさ。どこか特化した人間。どこか劣化している人間が大半だ。だけどそんな基準を多数大勢がひしめいているから普通なんて言葉を作ったんだ。天才と異質を区別する為にな。なら普通って何だ? 人間の大半が占める普通の人間が殺人を犯すだろうか? 普通の人間が他人を区別するだろうか? 普通の人間があまねく簡単に他人を落とし入れるだろうか? 普通――普通、普通普通普通普通。人はそれを当たり前のように繰り返す。だが普通なんてものは異質から見れば異質で、天才から見れば無能の集まりなのさ」
長い長い演説を一気にまくし立てるかのように勝己はいうと溜め息を一つ吐いた。呆れたようなそんな感じだ。
「分かってる分かってるよ。何で異質がいるのに殺人を犯す人間がいるのかって事だろ? 君がいま訊きたいのは――」
たまにコイツは理由も無しに僕の心を予測する。予想といってもいい。勝己はたまに人の心を簡単に予想し、理解する。異質と普通を区別するのならばコイツの方が異質だと僕は思う。
いや、初めから異質なんだな――
「仮に人が人を殺すのには動機が必要だとさっき言ったけど、人間を殺すのに理由も動機も必要はないのさ。ただ呼吸をするように人を殺せる人間だっているのさ。憎しみ恨みという根本的な根がない人間は人を殺す理由という物すら最初から持っていないんだ。あるのは後付け。快楽とはまた違い“そうである事”何だよ。目が合ったから殺す。触れたから殺す。とりあえず殺す。暇だから殺す。そんな思考回路をしている人間がいないと思うかい? 何故そう言い切れる? 君の好きな前例が無いからか? それがいるのさ……普通である人間がね。隠してるだけだ。異質とはまた違う。異質とも天才ともつかない普通の人間がね」
勝己はニヤリとほくそ笑むと片手を上げて、眠そうに目を擦っている。
どうやらそろそろ限界のようだ。
もうすぐ沙希が帰ってくる予兆だ。
「じゃあ後頼むよ。僕はまた二日後に現れるから。それまで調査頼むよ。僕は些か疲れた」
勝己はゆっくりと背もたれに持たれるようにして、ズズズと重力に従いながら落ちていき、最後はゆっくりと背もたれに身を任せながら眠った。
溜め息を吐きたくなる。
何も分かった事などないし、ここに来た意味すら僕には無かったような気がする。長話しただけだ。 しかも相手は死んだ筈の人間で、その死体が目の前にあるのだから異質としか言えない。
「はあ……うんざりだ」
例えば一つの心、脳でもいい――に二人の人間がいるのならば、それは異質と言えるのだろうか?
例えばそれを隠しながら生きていた場合、それは他人から見れば普通の人間では無いのだろうか?
人知れず多重人格な人間がいたっておかしくは無い筈だ。
ただ他人がそれを気付かないだけであって、そいつ等は確かに存在しているのでは無いだろか?
前例はやはり……
いや、そんな人間は見た事は無いが。
――いや、それは嘘だな。
昔に会ってる。
雨の日に高校で……
どしゃ降りの雨の中で――
彼女は踊っていたのだ。
彼女は……魔法使いだと感情の無い顔でそう語った。