プロローグ
後方の魔導師
プロローグ
王立魔導院の中庭には、いつも乾いた風が吹いていた。
石畳の隙間から伸びる雑草の葉を揺らし、回廊の柱に取り付けられた古い風鈴を微かに鳴らす。その音色は、幾百年もの間、この学び舎を巣立っていった魔導師たちの耳にも届いていたはずだった。
シルヴィア・アーレンスは石造りの回廊に腰掛け、手の中の封筒を何度も見返していた。差出人の欄には軍務省の紋章が刻まれ、宛先には自分の名前が丁寧な字で記されている。開封する前から、中身の見当はついていた。配属通知だ。
卒業を間近に控えたこの時期、同期の多くが同じような封筒を受け取っていた。中庭のあちこちで、歓声を上げる者、肩を落とす者、様々な反応が見られる。花形とされる後方司令部勤務を射止めた者は誇らしげに胸を張り、逆に激戦区への配属を知らされた者は、顔を青ざめさせていた。
シルヴィアは、まだ封を切る勇気が出ずにいた。
「また溜息? シルヴィア、らしくないわね」
声を掛けてきたのは、同期のマリー・ローゼンタールだった。癖のある赤毛を無造作に束ね、腕には講義資料の束を抱えている。彼女もまた、軍務省からの通知を受け取っていた一人だった。
「分かってはいたの。でも、いざ字で見ると実感が湧くというか……」
「分かるわ。私も、昨夜は封筒を枕元に置いたまま、一睡もできなかったもの」
マリーはそう言って、苦笑いを浮かべた。二人は入学初日からの付き合いで、専攻こそ異なるものの、互いに切磋琢磨してきた仲だった。
「どこ行き?」
マリーに促され、シルヴィアはようやく震える指で封を切った。中から出てきた一枚の紙に、簡潔な文字でこう記されていた。
「グラーツ盆地。第七前線、通称『灰城砦』って書いてある」
マリーは眉を少し上げた。「結構な激戦区じゃない。噂で聞いたことある。クロヴィア連邦との国境付近で、毒ガス攻撃が頻発してるって」
「ええ、知ってる」
シルヴィアは封筒を膝の上に置いたまま、しばらく黙っていた。頭の中には、講義で習った東部戦線の戦況報告が蘇っていた。灰城砦は、両国の国境が最も接近する要衝であり、そのために最も苛烈な攻防が繰り返される場所でもあった。
王立魔導院は、かつて「魔導師の最高学府」として栄華を誇った場所だ。校舎の壁には、数千年前の英雄的な魔導師たちの肖像画が今も飾られている。炎を纏って敵城を落とした大魔導師。氷の嵐を操って艦隊を沈めた海の魔女。雷光を宿した剣で竜すら斬り伏せたという伝説の騎士魔導師。どの肖像画の人物も、戦場の中心で輝いていた。入学したばかりの頃、シルヴィアはその肖像画の前に何度も足を止め、いつか自分もあのような英雄になれるのだろうかと、淡い夢を抱いたものだった。
しかし、今の魔導院が教えるのは、そうした「戦う魔法」ではない。カリキュラムの大半は、治癒魔法、浄化魔法、農業支援魔法、建築補助魔法――つまり、戦場の裏側を支えるための技術に占められていた。入学初年度に配られた教本の表紙には、かつての攻撃魔法の数々が、まるで歴史資料のように整理されて記載されているだけだった。
変化の理由は、入学初日に教授が語った言葉として、今もシルヴィアの記憶に残っている。白髪の老教授は、杖を片手に教壇に立ち、静かな、しかし重みのある声でこう語った。
「諸君、魔法とは本来、世界の理を操る偉大な力だ。しかし、火薬の発明以来、戦争の形そのものが変わってしまった。一発の銃弾が、熟練の身体強化魔導師を一瞬で倒す。一門の大砲が、どれほど強固な防御魔法の盾も粉砕する。魔法使いが剣を手に敵陣へ突撃する時代は、もう二度と戻らない」
当時十八歳だったシルヴィアには、その言葉の重みがまだ実感として分かっていなかった。彼女が本当の意味でそれを理解したのは、入学して三年目、戦場帰りの魔導師たちの講演を聞いたときだった。
壇上に立っていたのは、片腕を失った中年の男だった。かつて「風の戦士」として最前線で戦ったという彼は、淡々とした口調でこう語った。
「俺は、自分の風魔法で敵弾を逸らせると信じていた。愚かだったよ。機関銃の掃射速度の前では、どんな防御魔法も気休めにしかならない。仲間が次々と倒れる中、俺にできたのは、せめて彼らの傷口から入り込もうとする感染症を、風の力で遠ざけることだけだった」
彼はそこで一度言葉を切り、会場を見渡した。その視線は、まるで一人一人の学生の心の奥底を覗き込むようだった。
「諸君は、派手な戦功を夢見てここに来たかもしれない。だが、覚えておいてくれ。今の戦場で魔導師に求められているのは、英雄になることじゃない。生き残る兵士を、一人でも多く増やすことだ。それは決して、恥ずべき仕事じゃない」
講演が終わった後、会場は長い沈黙に包まれた。シルヴィアの隣に座っていた学生の中には、涙を堪えきれずに俯く者もいた。その日を境に、彼女の中で、進むべき道が静かに定まっていった。
その言葉が、シルヴィアの進路を決めた。彼女は「戦場衛生魔導技師」の専攻を選び、風魔法を極める道へと進んだ。毒ガスから兵士を守る浄化結界の研究に没頭し、座学でも実技でも常に首席を争う成績を収めてきた。夜遅くまで図書館に籠り、古今の風魔法理論を読み漁った日々。結界の持続時間を一秒でも延ばすため、何度も詠唱の構成を練り直した訓練場での日々。それらすべてが、今、この一枚の配属通知へと繋がっていた。
それでも――いざ配属通知を手にすると、胸の奥に言いようのない不安が広がるのを感じずにはいられなかった。理論と実践の間には、きっと想像もつかない隔たりがあるはずだ。
「ねえ、マリーはどこ?」
「私も同じ、灰城砦」
マリーの答えに、シルヴィアは思わず顔を上げた。
「本当に?」
「ええ。一緒に行けるなら、少し心強いわね」
マリーはそう言って、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。シルヴィアは、その笑顔に少しだけ救われる思いがした。同じ道を歩む仲間がいるという事実が、これほど心強いものだとは、彼女はこれまで考えたこともなかった。
* * *
出発の朝、シルヴィアの実家には小さな見送りの輪ができていた。父は退役軍人で、かつては剣術と身体強化魔法を組み合わせた近接戦闘の専門家だったという。今は田舎で小さな鍛冶屋を営んでいる。母は心配そうな顔を隠そうともせず、何度も荷物の中身を確認していた。
「薬は入れたわね? 着替えは? それと、これ、お守り代わりに」
母は、小さな布袋を手渡してきた。中には、故郷の神社で授かったという小さな護符が入っていた。
「ありがとう、母さん」
「父さん、ちゃんと食べてよね。私がいない間、適当な食事ばかりしないで」
シルヴィアが振り返ると、父は寡黙な表情で頷いた。
「お前こそ、な。……シルヴィア、戦場は俺が知ってる頃とは、もう全然違う場所になってる。剣も、魔法も、もう主役じゃない。鉄と火薬が全部を決める時代だ」
父の声には、どこか諦めにも似た響きがあった。かつて彼自身も、若き日に戦場で剣を振るった経験がある。その記憶の中の戦場と、娘がこれから向かう戦場との間には、埋めがたい違いがあることを、彼自身誰よりも理解していた。
「でもな」と彼は続けた。「主役じゃなくても、必要とされる力はある。お前の風魔法が、誰かの命を守る。それは、昔も今も変わらない真実だ。胸を張って行ってこい」
父の瞳に宿る確かな光に、シルヴィアは背筋が伸びる思いがした。
シルヴィアは頷き、荷物を背負って家を出た。馬車で駅まで向かい、そこから蒸気機関車に乗り換える。グラーツ盆地までは三日の道のりだった。
車窓から見える風景は、次第に様変わりしていった。のどかな農村地帯から、やがて軍需工場の煙突が立ち並ぶ工業地帯へ。そして国境に近づくにつれ、戦争の爪痕が目に入るようになった。砲撃で崩れた橋、焼け落ちた村落、避難民を乗せた荷馬車の列。
「これが、戦争なのね」
隣の座席でマリーが呟いた。彼女もまた、言葉少なになっていた。窓の外を流れる光景は、二人がこれまで教本や講義でしか知らなかった「戦争」という言葉に、初めて現実の重みを与えるものだった。
列車が終着駅に着くと、そこからは軍用トラックに乗り換えての移動になった。荷台に揺られながら、シルヴィアは次第に強くなっていく緊張を抑えきれずにいた。灰城砦までの道中、何度も検問所を通過し、そのたびに兵士たちの緊張した表情を目にした。遠くからは、くぐもった砲声が、絶え間なく風に乗って運ばれてくる。
夕暮れ時、ついに灰城砦が見えてきた。地平線に浮かび上がるのは、コンクリートと鋼鉄で固められた巨大な要塞だった。無数の塹壕が蛇のように大地を這い、上空には対空砲の銃身が不気味に光っている。遠くでは、くぐもった砲声が絶え間なく響いていた。トラックが要塞の正門に近づくにつれ、シルヴィアの胸の鼓動は、否応なく速まっていった。
「ようこそ、灰城砦へ」
出迎えたのは、第三工兵大隊のヴォルフ・ライネッケ少佐だった。精悍な顔つきに、戦場の疲労を滲ませた壮年の軍人だ。その佇まいには、長年戦場で指揮を執ってきた者だけが持つ、独特の威厳が漂っていた。
「アーレンス技師、ローゼンタール技師だな。長旅、ご苦労だった」
「はい、よろしくお願いします」
シルヴィアは緊張しながら敬礼した。ライネッケ少佐は二人を見渡し、ふっと表情を緩めた。
「魔導院から来た新人は、だいたい最初は顔が強張っている。無理もない。だが、ここでは誰もが同じだ。前線の兵士も、後方の技師も、みんなこの砦を守るために戦っている。君たちの風魔法は、きっとこの砦の多くの命を救うことになる」
少佐の言葉に、シルヴィアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「案内する。まずは詰所へ。それから、他の魔導班のメンバーにも紹介しよう。土魔法のダリウス曹長、水魔法のイングリット中尉、それと料理担当のベルンハルト伍長――みんな、良い仲間だ」
歩き出す少佐の後に続きながら、シルヴィアは灰色の空を見上げた。かすかに漂う硝煙の匂い。遠くで響く砲声。コンクリートの壁に反響する靴音。この場所で、自分はこれから何を守り、何を失うことになるのだろう。王立魔導院で学んだ理論の数々が、果たしてこの過酷な現実の中で、どれほどの意味を持つのだろうか。
――それでも、やるしかない。
彼女は拳を握りしめ、要塞の門をくぐった。これが、シルヴィア・アーレンスの、戦場での日々の始まりだった。




