ことぶき荘、最強の『助っ人』たち
空はもはや「天」としての体を成していませんでした。
視界を埋め尽くすのは、赤黒く脈動する岩塊の地表。そこから漏れ出す邪悪な紫の放電が大気をチリチリと焼き、呼吸をするたびに肺の奥が熱を帯びる。世界中の人々が数時間後に訪れる「物理的な終わり」を悟り、祈りすら忘れて呆然と天を仰いでいました。
しかし、東京都中野区。築数十年の古アパート「ことぶき荘」の屋上だけは、まるで別次元から切り出されたかのように涼やかな風が吹き抜けていました。
善吉は、愛用の布団叩きを腰に差し、使い古した軍手をキュッとはめていました。
その背後で、パチパチと空間が爆ぜる音が響きます。
「……善吉。そのボロ屋から離れたらどうだ。ここが衝突の『真下』になる。いくらお前でも、概念ごと消されるぞ」
現れたのは一人の男神でした。
仕立てのいいスーツを着崩し、気怠げに煙草をくゆらせているが、その瞳には銀河の運行を司る底知れぬ深淵が宿っています。この世界のシステムを管理する、いわば現地の責任者「男神」でした。
善吉は振り返りもせず、手すりに積もった赤い灰を指でなぞりました。
「おや、管理人仲間のお出ましですな。どうです、そちらの『地球』という物件の汚れ具合は。随分と酷いことになっておりますが」
「笑えん冗談だ。宇宙の理の外側から、掃除不能な『ゴミ』が降ってきてるんだよ。俺の権能じゃ、あれの軌道は一ミリも動かせない。……この星は今日で廃棄だ」
神が吐き出した煙が赤い空に溶けていきます。全知全能のはずの神ですら、異次元から飛来した「宇宙の粗大ゴミ」の前では、ただの無力な観客に成り下がっていました。
「情けないこと言ってんじゃないわよ、このヘタレ!」
空間を力任せに引き裂くような怒号。
鮮やかな着物を肩脱ぎにし、背中に巨大な龍の刺青を背負った美女が降り立ちました。その背後には幾千もの銀河が渦巻いています。次元の壁を越えてやってきた、かつて善吉の魂を「ろくでなし神」から奪い返そうとした、荒ぶる「姉神」でした。
「善吉!久しぶりじゃない。あんた、こんな掃き溜めみたいな所で管理人なんかやらされてたの?」
「カカカ、これは姉御さん。相変わらずお美しい。まあ、ボロはボロなりに愛着が湧くものでしてな。……ところで、お二人とも『手伝い』に来てくださったんですかな?」
善吉が問いかけた瞬間、二神は顔を見合わせ苦い表情を浮かべました。
「善吉、まさか『あれ』を本気でどうにかするつもりか?」
男神が、空を埋め尽くす直径12キロの絶望を指差しました。
「掃除に『本気』も何もありません。汚れたから払う。ただそれだけですわい。……ですが、いかんせんこの布団叩きでは少々リーチが足りませんでな」
善吉が情けなさそうに振ってみせたのは100円ショップで買ったプラスチック製の布団叩き。対する相手は並行宇宙の憎悪が凝縮された終末の岩塊。
「……いいわ。男神、アンタ分かってるわね?」
姉神が不敵に笑い、善吉の布団叩きに指をかけました。
「あたしたちが直接あのゴミに触れれば、次元干渉の法則でこの宇宙ごと弾け飛ぶ。だけど、『この世界の住人』が『自分の持ち物』を振るうっていうなら、それはただの私生活の範囲内、正当防衛よ」
男神は溜息をつき、眼鏡の奥の瞳を光らせました。
「……なるほど。私は管理責任者として彼に『清掃用具のアップグレード』を許可し、姉さんは『たまたま通りすがりにエネルギーを寄付した』。そういう理屈ですね」
「そうよ!「ろくでなし神」のせいで善吉は今、どこの神の帳簿にも載ってない、宙ぶらりんで自由な魂なんだから。あたしたちの力を流し込む『接続端子』としては、これ以上ない最高の中継点なのよ!」
本来、力の序列は「姉神>>邪神・ろくでなし>男神>善吉」です。
しかし、神が直接手を出せない「不干渉のルール」という壁を、善吉というイレギュラーな存在が橋渡しすることで突破しようというのです。
二人の神が善吉の布団叩きに手を添えました。
その瞬間、宇宙の始まりから終わりまでの「秩序」を束ねた白銀の輝きが、安っぽいプラスチックの棒に収束していきました。
「ふむ……少し重くなりましたが、これなら届きそうですな」
眩い光を宿した布団叩き。それは今や、一振りが銀河の質量にも匹敵する「概念の極致」となっていました。
「……それにしても、善吉」
男神が、煙草を足元で踏み消しながら言いました。
「あれの正体は分かっているのか。ありゃあただの岩塊じゃない。捨てられた『終わった世界』の憎悪が凝縮されたものだ。触れれば魂ごと腐り落ちるぞ」
善吉はサンダルの踵をトントンと地面に打ち付け、納得したように頷きました。
「なるほど。道理で妙な臭いがすると思いましたわい。掃除をサボった部屋特有の、あの鼻につく嫌な臭いですな」
姉神が豪快に笑い、善吉の背中をバチコーンと叩きました。
「いいわねぇ!並行宇宙の憎悪だろうが何だろうが、あんたにかかれば『頑固な汚れ』と同じってわけね!ほら、男神!アンタもそんな気取ってないで、善吉の足場くらい作りなさい!」
「言われなくてもやるさ」
男神が指を鳴らすと、ことぶき荘の屋上の周囲に黄金の幾何学紋章が展開されました。それは地球の全重力を一点に集約し、善吉を標的へと射出するための「神の踏み台」です。
「さて。では、ひとっ走り行ってきますかな」
善吉が、ふわりと膝を曲げました。
その瞬間、ことぶき荘の建物を揺らさぬよう配慮された、極めて静かで、かつ破壊的な衝撃波が走りました。
善吉の体は音速を、光速を、そして因果律を置き去りにして、天へと跳ね上がりました。
「行ったわね」
姉神が、満足げに空を仰ぎ見ました。
「ええ。……面白いですね、あいつ。神が匙を投げた終末を『雑事』だと言い切りましたよ」
二柱の神が見守る中、白銀の光の筋が、空を覆う赤黒い絶望へと真っ向から突き刺さっていきました。
@@@@@
成層圏を越え、真空の淵。
善吉の目の前には、あまりにも巨大な「世界の終わり」が壁のように立ちはだかっていました。
隕石の表面からは、数千、数万の怨念の叫びが紫の放電となって襲いかかります。
「おやおや、随分と埃っぽい」
宇宙空間のただ中、善吉は見えない地面へ深く腰を落とし、盤石の構えを見せました。
手にした白銀の布団叩きを野球のバットのように軽く構える。
神々の力を全開で受け止めている善吉の肉体は、すでに二十歳の輝きを通り越し、白く発光する準神の如き威厳を放っていました。
「どれ……少し、お行儀を教えて差し上げましょう」
隕石の核にある、邪悪な意思が咆哮しました。
「死ね、消えろ、終わらせろ」――そんな世界への呪詛。
衝突まで、あと数分。地球では人々が最後の瞬間を待ち、目をつむっていました。
しかし、その絶望の頂点において。
善吉は、ただ優しく、そして迷いのない手つきで、銀河の理を宿した布団叩きを振り下ろしました。
その動作は、九十五年の人生で幾千回、幾万回と繰り返してきた「家事」そのものでした。
「――せいやっ!」
パァンッ!!!
真空であるはずの宇宙に、あり得ないほどの「乾いた音」が鳴り響きました。
それは、どこまでも懐かしく、どこまでも正しい、平和な日本の昼下がりの音。
その瞬間、12キロの絶望に、取り返しのつかない「ひび」が入りました。
神の力を借りた善吉の一撃は、隕石を「破壊」したのではなく、その存在を構成していた「憎悪《汚れ》」を、文字通り払い落としたのです。




