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最終話 甘すぎる罰と、野花が咲く日

長く厳しかった冬が終わり、辺境の砦にもようやく雪解けの季節が訪れていた。

 固い土から小さな緑が顔を出し、吹き付ける風にもかすかな春の匂いが混じり始めている。

「ルシア、今日は少し風が強い。これを持っていけ」

 砦の中庭へ洗濯物を干しに行こうとしたルシアに、クラウスが自分の大きなショールをすっぽりと被せた。

「ふふ、ありがとうございます。でもクラウス様、私はもうすっかり元気ですし、いくらなんでも過保護すぎませんか?」

 ルシアがショールから顔を覗かせて笑うと、クラウスは少しだけ気まずそうに目を逸らした。

 あの日から、クラウスは「ルシアを鳥籠に閉じ込めない」という約束は守っているものの、彼女が少しでも砦の手伝いをしようとすると、すぐにこうして飛んでくるのだ。

「いいんだ。俺がそうしたいだけだから。……それに、その紅を引いたお前が可愛すぎて、他の奴らに見せたくない」

 耳を赤くして真面目な顔で言うクラウスに、ルシアの頬もほんのりと熱くなる。

 落ち着いたテラコッタ色の紅は、今ではすっかりルシアのお気に入りになっていた。それを塗るたびに、自分がクラウスに愛されているのだと実感できるからだ。

 二人がそんな穏やかな時間を過ごしていた、その時。

「副団長! 王都から、公爵家の使者を名乗る馬車が到着しました!」

 見張りの騎士が、慌てた様子で中庭に駆け込んできた。

 その言葉を聞いた瞬間、クラウスの纏う空気が一変した。春の陽だまりのような温かさが消え失せ、かつての「氷の副団長」の、人を射殺すような冷たい気配が場を支配する。

「……公爵家の使者だと?」

「はい。ルシアお嬢様を迎えに来た、と……」

 ルシアは息を呑んだ。

 公爵家。自分を「魔力を持たない無能な厄介者」として、この辺境に捨てた実家。

 今更、なぜ自分を迎えになんて来るのだろうか。

「ルシア、お前は部屋に戻っていろ。俺が追い返す」

 クラウスがルシアの肩を庇うように抱き寄せた。だが、ルシアは小さく首を振った。

「いいえ。私も行きます」

「ルシア?」

「いつまでもクラウス様の後ろに隠れているわけにはいきません。私自身の過去ですから……ちゃんと、自分の目で確かめたいんです」

 かつての、何でも諦めていた「空っぽの人形」の目ではない。

 ルシアの透明な瞳には、クラウスに愛されているという確かな自信と、静かな強さが宿っていた。

 クラウスはそんな彼女を眩しそうに見つめると、小さくため息をつき、「俺のそばから離れるなよ」と彼女の手を強く握った。


❇❇❇


 応接室に通されたのは、公爵家に仕える高慢な初老の執事だった。

 彼は辺境の質素な応接室を鼻で笑うように見回した後、入ってきたルシアを見て、わざとらしく眉をひそめた。

「おや、ルシア様。このようなむさ苦しい辺境の砦で、さぞ惨めな思いをされていたことでしょう。……公爵様は、魔力のない無能なあなたでも、やはり血の繋がった娘だからと哀れに思われましてね」

 執事は、クラウスの存在など眼中にないという態度で、尊大に言い放った。

「あなたを王都へ呼び戻し、年老いた子爵様の後妻として嫁がせるよう手配なさいました。子爵様は資産家ですから、あなたのような者には過分な処遇でしょう。さあ、すぐに荷物をまとめなさい」

 つまり、不要な厄介者として捨てた娘が、まだ生きていて政略結婚の駒として使えるとわかったから、適当な老人の元へ売り飛ばそうという魂胆だ。

 あまりの身勝手さに、ルシアは静かに怒りを感じた。

 かつての自分なら、これも「役に立つための運命」だと諦めて従っていたかもしれない。でも、今は違う。

「お断りします」

 ルシアがはっきりと告げると、執事は信じられないものを見るように目を剥いた。

「なっ……! 無能なあなたが、公爵様のご慈悲に逆らうと言うのですか!?」

「ご慈悲ではありません。私は公爵家から追放された身です。今更、都合よく駒として扱われるいわれはありませんわ」

 ルシアの毅然とした言葉に、執事は顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げようとした。

 だが、彼が言葉を発するよりも早く。

「――おい」

 地を這うような、恐ろしく冷たい声が応接室に響いた。

 クラウスだった。

 彼はルシアの手を引いて自分の背中に隠すと、殺気すら混じった氷色の瞳で執事を見下ろした。

 数多の魔獣を屠ってきた本物の騎士の威圧感に、執事はヒッ、と短い悲鳴を上げて後ずさる。

「ルシアは、誰の駒にもならない。彼女は俺の婚約者だ」

「こ、婚約者……!? 辺境の騎士風情が、公爵家の娘をたぶらかしたというのですか!」

 執事が震える声で言い返すと、クラウスは鼻で笑った。

「辺境の騎士風情だと? どうやら王都の貴族は、情報収集もまともにできないらしいな」

 クラウスは懐から一通の書状を取り出し、執事の足元に投げ捨てた。

 それには、王家の紋章が刻まれた蝋封シーリングが施されている。

「先日の猛吹雪の際、俺たちが大規模な魔獣の群れを食い止めた功績により、国王陛下から直々に『辺境伯』の地位を賜った。つまり、今の俺はお前たちの主である公爵と、対等の権力を持っているということだ」

「な……辺境伯、ですと……!?」

 執事の顔から、さぁっと血の気が引いていく。

「それに、ルシアはもう公爵家の人間ではない。俺が正式に王家へ身元引受の申請を出し、受理されている。……二度と、俺の妻に気安く話しかけるな。次その汚い口を開いたら、王都へは生きて帰さないと思え」

 クラウスの絶対的な宣告。

 執事はガタガタと震え上がり、もはや返す言葉もなく、逃げるように応接室から転がり出て行った。


❇❇❇


執事が逃げるように馬車で走り去った後、応接室には静寂が戻った。

 ルシアは目をぱちくりと瞬かせ、目の前に立つ大きな背中を見つめた。

 辺境伯。そして、妻。

 突然の情報に頭が追いつかないでいると、クラウスが慌てたように振り返った。

「す、すまない! 勝手に妻だなんて言って」

 さっきまでの絶対的な威圧感はどこへやら。クラウスは耳まで真っ赤にして、まるで叱られた大型犬のようにしゅんと肩を落としていた。

「辺境伯の件も、正式な叙爵の知らせが届いてから、一番にお前に話そうと思っていたんだ。だが……あいつがお前を侮辱したのがあまりにも腹立たしくて、つい口走ってしまった」

「ふふっ……」

 そのひどく不器用で、自分を一番に守ろうとしてくれる姿が愛おしくて、ルシアは思わず吹き出した。

「クラウス様は、本当に心配性で不器用ですね」

「ルシア……怒ってないか?」

「怒るわけがありません。私をあんなにも堂々と守ってくださって……とても、かっこよかったです」

 ルシアがテラコッタの唇をほころばせて笑うと、クラウスはホッと安堵の息を吐き、彼女の小さな手をそっと自分の手で包み込んだ。

「少し、外を歩かないか」


❇❇❇


 二人で中庭に出ると、冷たかった風はすっかり柔らかくなっていた。

 厚く積もっていた雪は溶け、黒い土が顔を出している。

 その足元の雪解け水の間から、小さくて可憐な、白い野花がひっそりと咲いているのを見つけた。

 厳しい冬の寒さと猛吹雪を耐え抜き、ようやく咲いたその花は、まるでルシアのようだった。

 クラウスはその野花の前で立ち止まると、ルシアに向き直り、静かに片膝をついた。

 それは主君に向けるものではなく、彼がただ一人の愛する女性に向ける、最上級の敬意と誓いの礼だった。

「ルシア」

「はい、クラウス様」

 クラウスはルシアの手を取り、その手の甲にそっと、羽が触れるような優しいキスをした。

「俺は不器用で、最初は取り返しのつかないほどお前を傷つけた。……でも、これからの生涯をかけて、お前を誰よりも幸せにすると誓う」

 見上げられた氷色の瞳には、もう過去の痛みも、身勝手な執着もない。

 春の陽だまりのように暖かく、真っ直ぐな愛情だけがそこにあった。

「俺の、本当の妻になってほしい。王都の誰にも文句は言わせない。この辺境で……俺と一緒に生きてくれないか」

 ルシアの目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 かつては心を殺し、すべてを諦めて、人形のように生きるしかなかった。

 でも今は違う。私には、こんなにも大切にしてくれる人がいて、帰る場所がある。

「はい……喜んで」

 ルシアは涙を拭い、クラウスが選んでくれた紅を引いた唇で、心からの笑顔を咲かせた。

「私をずっと、クラウス様の隣に置いてください」

 その言葉を聞いた瞬間、クラウスは弾かれたように立ち上がり、ルシアを力強く、けれど世界で一番大切な宝物を扱うように優しく抱きしめた。

 ルシアも背伸びをして、彼の広い背中にそっと腕を回す。

 氷のように冷たかった副団長と、心を閉ざしていた無能令嬢。

 二人の間にあった分厚い氷の壁は、完全に溶け去り――辺境の砦に、誰よりも甘くて暖かな、遅い春が訪れたのだった。




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