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第6話 溶ける氷壁と、熱を帯びた懺悔

厩舎で子供のように泣きじゃくった後。

 クラウスの部屋に戻ったルシアは、ベッドの端に座り、真っ赤になった目元を温かいタオルでそっと押さえていた。

「……落ち着いたか?」

「はい……。その、クラウス様のお召し物を、涙と鼻水で汚してしまって……本当に、申し訳ありません……っ」

 恥ずかしさで耳の先まで真っ赤に染めながら俯くルシアに、クラウスはくすりと低く笑った。

「気にするな。お前が泣いてくれるなら、こんな服、何百着だって汚していい」

 クラウスはルシアの隣ではなく、彼女の顔がよく見える向かい側の椅子に腰掛けていた。

 以前のように「逃がさない」とばかりに覆い被さってくるような威圧感はない。ルシアが怖がらないように、彼女のペースに合わせて静かに待っていてくれる、とても穏やかな距離感だった。

「……ルシア。今日は、お前にきちんと話しておかなければならないことがある」

 クラウスは姿勢を正し、膝の上で大きな両手を組んだ。

 その顔から柔らかな微笑みが消え、砦を統べる副団長としての、そして一人の男としての真摯な表情に変わる。

「俺が最初、なぜあんなにもお前を憎み、氷点下の井戸水で水仕事などという理不尽な命令を下したのか。……その理由だ」

「理由、ですか……?」

 ルシアはタオルを膝に置き、静かにクラウスの目を見つめ返した。

「数年前のことだ。この辺境の砦は、今よりもずっと魔獣の襲撃が激しかった。当時の俺の上司だった騎士団長は、王都から赴任してきた高位貴族の男だった」

 クラウスの氷色の瞳の奥に、暗い過去の痛みがよぎる。

「そいつは、魔獣の群れが砦に迫った時、辺境生まれの騎士たちを『捨て駒』にして、自分だけ真っ先に王都へ逃げ帰ったんだ。結果として砦は守り抜いたが……俺は、家族のように思っていた多くの部下や仲間を失った」

 初めて聞くクラウスの過去に、ルシアは小さく息を呑んだ。

 あの若いマルクのような、優しくて勇敢な騎士たちが、王都の貴族の身勝手な命令で命を散らしていった光景。それがどれほど凄惨で、残された者たちにとって絶望的なものだったか、想像するだけで胸が痛んだ。

「王都の貴族は、魔力を持たない者や辺境の人間を、ただの道具としか思っていない。……だから俺は、公爵家から送られてきたお前を見た時、あいつらと同じ傲慢で腐った人間だと決めつけていたんだ」

 クラウスは苦しげに顔を歪め、強く拳を握りしめた。

「身勝手な逆恨みだ。何も知らない、魔力も持たないか弱いお前に対して、俺は自分の過去の怒りをぶつけた。……最低の卑怯者だ。どんなに謝っても、許されることじゃない」

 懺悔するクラウスの大きな背中が、ひどく小さく、脆く見えた。

 ルシアは、自分の膝の上でぎゅっと手を握りしめた。

 王都で「無能」と蔑まれてきた自分。そして、王都の貴族に仲間を殺され、心を凍らせていたクラウス。

(クラウス様も……ずっと、痛かったのだわ)

 誰も助けてくれない寒さと孤独の中で、彼もまた、たった一人で血を流しながら戦い続けていたのだ。

 あの氷のように冷たかった視線は、彼が自分自身の心を守るための、分厚い鎧だった。

 ルシアはゆっくりとベッドから立ち上がると、うなだれるクラウスの前に歩み寄り、そっと膝をついた。

「……ルシア?」

「クラウス様。お顔を、上げてください」

 ルシアは、クラウスの固く握りしめられた大きな拳を、自分の両手でそっと包み込んだ。

 傷だらけで、マメがいくつもできた、無骨な騎士の手。

 かつては強引に腕を掴まれ、恐ろしいと思っていたその手が、今はひどく温かく、愛おしく感じられた。

「私は、怒っていません。……むしろ、教えてくださって嬉しいです。クラウス様が何を抱えていらしたのか、やっと知ることができましたから」

「……俺を、憎んでいないのか? あんなにも、お前を痛めつけたのに」

「痛かったのは、クラウス様も同じですよね」

 ルシアは、ふわりと柔らかく微笑んだ。

 空っぽの作り笑いでも、諦めの笑みでもない。春の木漏れ日のように暖かな、心からの微笑み。

「それに、クラウス様は私を助けてくださいました。猛吹雪の中で、ご自分の上着を脱いでまで、私を温めてくださった。……あんなに温かい思いをしたのは、生まれて初めてだったんです」

 ルシアの透明な瞳から、またポロリと一粒の涙がこぼれ落ち、クラウスの手に落ちた。

「私を人形ではなく、一人の人間として見てくださって……ありがとうございます」

 その真っ直ぐで純粋な許しの言葉に、クラウスは言葉を失った。

 自分のような血に塗れた大罪人を、この穢れを知らない少女は、ただ静かに包み込んで許そうとしている。

「……ルシア……っ」

 クラウスは堪えきれず、膝をついたルシアの身体を、壊れ物を扱うようにそっと、けれど確かな熱を込めて抱き寄せた。

「お前は、本当に……どうしようもなく、美しくて優しい人だ……」

 ルシアの肩に顔を埋め、クラウスは深く、甘い溜息をついた。

 今度はルシアも怯えることなく、彼の広い背中にそっと腕を回し、その温もりを静かに受け入れていた。



二人の心が通じ合ったあの日から、砦の中の空気は劇的に変わった。

 これまで「氷の副団長」として部下たちから恐れられていたクラウスが、ルシアの前でだけは、まるで別人のように甘く、過保護な男に成り果てていたのだ。

「ルシア、足元が滑る。俺の手につかまれ」

「あ、ありがとうございます……クラウス様。でも、砦の中の廊下ですから、そこまで警戒なさらなくても……」

「駄目だ。どこで転ぶかわからない。それに……俺が、お前に触れていたいんだ」

 真面目な顔で、堂々とそんなことを言う。

 ルシアが照れて俯くと、クラウスは満足そうに目を細め、彼女の小さな手を自分の大きな手でしっかりと包み込んだ。

 以前のような、痛みを感じるほどの強引な拘束ではない。

 ルシアの歩幅に合わせ、いつでも彼女を守れるように添えられた、ひどく温かくて優しいエスコートだった。

 すれ違う騎士たちやメイドたちが、驚きと微笑ましさが混ざったような顔で二人を見守っている。

 ルシアは恥ずかしくてたまらなかったが、繋がれた手から伝わる彼の体温が心地よくて、どうしても振り払うことができなかった。

❇❇❇

 その日、猛吹雪が完全に去った砦の広場に、王都から久しぶりに大きな商隊キャラバンが到着していた。

 食料や武器の補充に混じって、色鮮やかな布地や装飾品を扱う商人も来ているという。

「……何か、欲しいものはないか?」

 広場を歩きながら、クラウスがルシアの顔を覗き込んだ。

「俺は、むさ苦しい砦の生活しか知らないから……女がどんなものを喜ぶのか、よくわからないんだ。服でも、宝石でも、お前が気に入ったものを何でも買ってやりたい」

 王都で虐げられていたルシアにとって、「自分のために何かを買ってもらう」という経験は初めてだった。

 ずらりと並んだ商品を見るだけで目が回りそうになり、ルシアは遠慮がちに首を振った。

「お気持ちだけで十分です。クラウス様には、すでに素敵な深緑色のドレスをいただいていますし……私には、もったいないです」

「もったいなくなどない。お前には、世界中の美しいものをすべて与えてやりたいくらいだ」

 クラウスはため息をつきながら、ルシアの手を引いて一つの屋台の前で立ち止まった。

 そこは、南方の国から輸入された、珍しい化粧品や香水が並ぶ店だった。

「副団長様! こちらの令嬢に、贈りものですか?」

 愛想のいい商人が、色とりどりのルージュが入った小さな陶器の小瓶をいくつも並べて見せた。

 王都の令嬢たちが好むような、目が痛くなるほど鮮やかなピンクや、派手な真紅の紅。

 クラウスはそれらを一瞥すると、わずかに眉間を寄せた。

「……いや、そういう派手な色は、ルシアには似合わない」

 クラウスは真剣な顔で小瓶を吟味し始め、やがて一番端にあった一つの色を手に取った。

 それは、温かみのある赤茶色――テラコッタのような、落ち着いた色合いの紅だった。

「これだ。この色なら、お前の静かな雰囲気にも、その深緑のドレスにもよく似合う」

 クラウスはその小瓶を買い上げると、少し照れくさそうにルシアの手のひらに乗せた。

「……私に、お化粧を……?」

「ああ。王都から来た時、お前は何も持っていなかっただろう。お前はすっぴんでも十分に綺麗だが……俺が、お前をもっと美しくしてやりたいんだ」

 ルシアは、手のひらの上の小さな小瓶を見つめた。

 王都の屋敷では、美しい異母妹が毎日メイドたちに囲まれて化粧を施されるのを、部屋の隅から見ているだけだった。「無能な日陰者に化粧など必要ない」と笑われていたのだ。

 それなのに、不器用なこの騎士様は、私を「一人の美しい女性」として扱い、私に一番似合う色を真剣に選んでくれた。

「クラウス様……」

 ルシアの胸の奥が、甘く、きゅうっと締め付けられる。

「……少し、塗ってみてもいいですか?」

 ルシアが上目遣いで尋ねると、クラウスはハッとしたように息を呑み、無言で深く頷いた。

 ルシアは指先にほんの少しだけテラコッタの紅を取ると、自分の唇にそっと乗せた。

 元々色白で、少し青白かった彼女の唇に、ふわりと温かい血色が宿る。深緑色のドレスと、銀色の髪。そこに、大人の女性らしい落ち着いた赤茶色のアクセントが加わったことで、彼女の隠されていた美しさが、息を呑むほどに花開いた。

「どう……でしょうか。変では、ありませんか……?」

 ルシアが不安そうに首を傾げると、クラウスは完全に言葉を失い、ただじっと彼女を見つめていた。

 その氷色の瞳には、隠しきれない熱情と、どうしようもないほどの愛おしさが渦巻いている。

「……駄目だ」

「えっ……」

 クラウスは低い声で唸ると、ルシアの肩を抱き寄せ、自分の大きな外套で彼女の姿を隠すように覆い隠した。

「クラウス様!?」

「……似合いすぎる。そんなに綺麗な姿を、他の奴らに見せたくない……っ」

 さっきまで「エスコートする」と意気込んでいた大男が、耳まで真っ赤にして嫉妬を露わにしている。

 そのあまりの不器用さと可愛らしさに、ルシアは目を丸くした後――ふきだしそうになるのを堪えきれず、くすくすと声を上げて笑った。

「ふふっ……クラウス様って、本当に心配性なのですね」

 空っぽの微笑みではない。

 心の底から可笑しくて、嬉しくて、幸せがこぼれ落ちるような、本物の笑顔。

 クラウスは、ルシアのその笑顔を見た瞬間、雷に打たれたように立ち尽くした。

 ずっと見たかった。俺に向けてほしかった、彼女の本当の笑顔。

「ルシア……お前、今……」

「ありがとうございます、クラウス様。私、この色……とても好きです。大切にしますね」

 テラコッタの唇をほころばせて笑うルシアを前に、クラウスはもう限界だった。

 彼は周囲の目なんて一切気にせず、ルシアを力強く抱き寄せた。

 そして、愛おしくてたまらないというように、彼女の銀色の髪に何度も何度もキスをした。


その日の夜。

 外は冷たい風が吹いていたけれど、クラウスの部屋の中は暖炉の火でぽかぽかと暖かかった。

 ルシアは鏡台の前に座り、昼間に買ってもらった陶器の小瓶をそっと撫でていた。

 鏡の中の自分は、少しだけ血色が良くて、王都の暗い部屋にいた頃の「空っぽの人形」とは別人のように見える。

 テラコッタの落ち着いた色が、今の自分にはとてもしっくりきていた。

「……気に入ってくれたか?」

 背後から、低くて優しい声が降ってきた。

 振り返るよりも早く、クラウスの大きな腕がルシアの肩をそっと包み込む。

 彼はルシアの背後に立ち、鏡越しに彼女と視線を合わせた。

「はい。とても……私なんかに、もったいないくらいです」

「だから、もったいなくなんてないと言っただろう」

 クラウスは小さく笑って、ルシアの首筋にそっと顔を埋めた。

 彼の髪がくすぐったくて、ルシアは少しだけ肩をすくめる。

「お前が笑ってくれて、本当に嬉しかったんだ。……あのまま、二度と俺に心を開いてくれないんじゃないかって、ずっと怖かった」

 砦の騎士たちを束ねる屈強な男が、まるで迷子のように弱音を吐いている。

 その不器用さが愛おしくて、ルシアは自分の肩に回されたクラウスの大きな手に、そっと自分の手を重ねた。

「ごめんなさい。私、ずっと……クラウス様は、私を哀れんで優しくしてくれているのだと思っていました」

「馬鹿だな。俺はただ、お前を愛しているだけだ」

 クラウスはルシアの肩を抱いたまま、ゆっくりと自分の方へ振り向かせた。

 そして、テラコッタの紅がほんのりと残る彼女の唇に、親指でそっと触れる。

「もう二度と、お前を一人で泣かせたりしない。王都の奴らにも、絶対に指一本触れさせない。……俺がお前を、一生守る」

 その言葉には、過去の罪悪感も、哀れみもなかった。

 ただ一人の女性を愛し抜くという、純粋で真っ直ぐな誓いだけがこもっていた。

「……はい」

 ルシアは静かに微笑んで、クラウスの広い胸にそっと身を預けた。

 






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