第5話 雪に埋もれた真実
砦の医務室は、息が詰まるほどの緊迫感に包まれていた。
「……なんとか、峠は越えました。ですが、もともと栄養状態が良くないお体で、あれほどの猛吹雪をまともに受けてしまったのです。いつ目を覚ますかは、私にもわかりません」
徹夜で治癒魔法をかけ続けた老治癒術師が、深い疲労を滲ませて息を吐いた。
ベッドの上では、ルシアが死人のように青白い顔で眠っている。微かな胸の上下だけが、彼女が辛うじてこの世界に留まっている証だった。
「……ありがとう。あとは、俺が見る」
クラウスは掠れた声で礼を言い、治癒術師を下がらせた。
医務室に二人きりになると、クラウスはベッドの脇に力なく膝をつき、ルシアの冷たい手を両手でそっと包み込んだ。
彼女の手は、以前のような血まみれの傷だらけではない。俺が用意した高価な薬のおかげで、傷跡だけを残して綺麗に塞がっている。
だというのに、あの猛吹雪の中で仔馬を庇う彼女を見つけた時、彼女は『自分には価値がないから』と、迷うことなくその命を投げ出そうとした。
(俺は、彼女の傷を治した気になっていただけだった)
クラウスは、ルシアの手に額を押し当て、静かに目を閉じた。
冷たい井戸水から彼女を遠ざけ、立派な部屋を与え、美しいドレスを着せた。
嫉妬に狂って彼女を組み敷き、「俺のそばにいろ」と怒鳴りつけた。
それが彼女を守ることだと、愛することだと信じて疑わなかった。
だが、ルシアにとっては、そんなものは愛情でも何でもなかったのだ。
『私の命で……あの子が助かるなら……。クラウス様の……罪悪感も、少しは……軽くなり、ますか……?』
雪の中で彼女が残した言葉が、何度も頭の中で木霊する。
彼女は、俺の過保護を「可哀想な人形を壊してしまった罪悪感」だと受け取っていた。俺が怒れば怒るほど、彼女は「持ち主の機嫌を損ねてしまった」と怯え、心を殺して従順な人形を演じていただけだったのだ。
「俺が……お前を、あんな雪の中に追いやったんだ……」
静かな部屋に、懺悔の声が溶けていく。
彼女を鳥籠に閉じ込めて、何もさせずに生かしておくこと。それは、王都の暗い部屋で彼女を「無能」と呼んで放置していた奴らと、本質的には何も変わらなかったのだ。
俺は彼女の心を、ちっとも見ていなかった。
(……もう、絶対に間違えない)
クラウスは顔を上げ、眠り続けるルシアの透明な横顔を見つめた。
その氷色の瞳には、かつての身勝手な独占欲は消え去り、ただ一つの静かで固い決意だけが宿っていた。
彼女が自分のことを「無価値な人形」だと思っているのなら、俺がその呪いを解く。
焦らず、怯えさせず、何年かかってもいい。彼女が心から笑ってくれるその日まで、俺は俺のすべてを懸けて、彼女を一人の「人間」として愛し抜く。
❇❇❇
それから三日三晩、クラウスは一睡もせずにルシアの手を握り続けた。
窓の外の猛吹雪がようやく収まり、雲の隙間から柔らかな冬の日差しが差し込み始めた朝。
ベッドの上で、ルシアの長い睫毛が微かに震えた。
「……ん……」
「ルシア!」
クラウスが弾かれたように身を乗り出すと、ルシアはゆっくりと重い瞼を開けた。
ぼんやりとした視界に、ひどく憔悴したクラウスの顔が映る。
(……私、死ななかったのね)
ルシアは、ぼんやりと天井を見つめた。
身体は鉛のように重いが、凍りつくような寒さは消え去り、暖かく柔らかい毛布に包まれている。どうやら、またクラウスに助けられてしまったらしい。
ルシアはゆっくりと視線を動かし、クラウスを見た。
また、彼を怒らせてしまった。せっかく彼が「怪我をさせた罪悪感」を償おうと綺麗な部屋を与えてくれたのに、勝手に抜け出して、こんな無様な姿を晒してしまった。
きっと今度こそ、怒鳴りつけられて王都へ送り返されるだろう。
「クラウス様……。申し訳、ありま……」
いつものように、空っぽの謝罪を口にしようとした瞬間。
「喋らなくていい。何も謝るな」
クラウスの声は、ルシアが予想していたような怒鳴り声ではなかった。
ひどく穏やかで、震えるほど優しい、聞いたことのない声だった。
ルシアが驚いて目を丸くしていると、クラウスはベッドの脇に片膝をつき、ルシアと視線の高さを合わせた。上から見下ろすのではなく、彼女と同じ高さで、真っ直ぐにその透明な瞳を見つめる。
「ルシア。お前が助けた仔馬は、かすり傷一つなく元気だ。今朝から、親馬と一緒に厩舎で干し草を食べている」
「……あ……」
「お前が外套をかけてやらなければ、あいつは確実に死んでいた。あいつの命を繋いだのは、間違いなくお前だ」
クラウスの言葉に、ルシアの胸の奥がトクリと鳴った。
彼がそんなふうに、私のしたことを認めてくれるなんて思わなかったからだ。勝手な真似をするなと、怒られるとばかり思っていた。
「でも、俺は……あの雪の中でお前を見つけた時、仔馬のことなんてどうでもいいと思ってしまった。お前が死んでしまうことのほうが、何万倍も恐ろしかった」
クラウスは、包帯の巻かれたルシアの手を両手で包み込み、自分の額にそっと当てた。
まるで、神聖な祈りを捧げるかのように。
「お前は、自分を無価値な人形だと言ったな。俺への罪悪感を軽くするために死ぬと。……本当に、すまなかった。俺がお前の心を追い詰めて、そんなふうに思わせていたんだ」
「クラウス、様……?」
ひどく痛切な謝罪に、ルシアは戸惑った。
クラウスの大きな手が、小刻みに震えているのが伝わってくる。
「俺は、お前を人形だなんて思ったことは一度もない。お前は、誰よりも優しくて、芯が強くて、俺にはもったいないくらい美しい……たった一人の大切な女性だ」
「……え?」
ルシアは息を呑んだ。
大切な女性。その言葉の意味が、うまく理解できない。
「鳥籠に閉じ込めて悪かった。もう、何も無理強いはしない。お前が俺を怖がるなら、近づかない。……だから、お願いだ。もう二度と、自分の命を投げ出すような真似だけはしないでくれ。お前がいないと、俺は生きていけないんだ」
それは、命令でも、罪悪感からの同情でもない。
一人の不器用な男が、プライドをすべて捨てて差し出した、純粋で真っ直ぐな「心」だった。
あの日を境に、クラウスの態度は劇的に変わった。
ルシアが医務室からクラウスの私室に戻ってきても、彼はもう「部屋から出るな」とは言わなかった。
部屋の鍵は常に開け放たれ、食事を運んでくるメイドたちとも、ルシアが自由に言葉を交わすことを許した。
そして何より、クラウス自身がルシアに接する距離感が、以前とはまったく違っていた。
「……入ってもいいか?」
コンコン、と控えめなノックの後、扉の向こうから声がする。
「はい、クラウス様」
「邪魔するぞ」
クラウスは部屋に入ってくると、以前のように無遠慮にベッドに腰掛けることはせず、ルシアから少し離れた椅子に静かに座った。
「体調はどうだ? どこか痛むところはないか」
「はい。おかげさまで、もうすっかり良くなりました。……あの、クラウス様」
「ん?」
「お仕事でお疲れでしょうに、毎日様子を見に来ていただかなくても大丈夫ですよ。私なら、もう一人でも……」
ルシアがいつものように空っぽの微笑みを作って言いかけると、クラウスは少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「俺が、お前の顔を見たいだけなんだ。……だが、俺がここにいると息が詰まるなら、すぐに出ていく。嫌なら嫌だと、言ってくれないか」
ルシアは目を丸くした。
嫌なら嫌だと言え。それは、王都の屋敷でも、この砦に来てからも、誰一人としてルシアに与えてくれなかった『選択肢』だった。
無能な人形であるルシアに、拒否権などあるはずがない。
持ち主が望めば従い、機嫌を損ねないように笑うのが私の存在意義だったのに。
「……嫌では、ありません」
ルシアが戸惑いながら小さく首を振ると、クラウスはホッと安堵したように息を吐き、少しだけ嬉しそうに目元を和ませた。
強引に腕を掴むことも、無理やり抱きしめることもしない。
まるで、少しでも大きな音を立てれば逃げてしまう小鳥を扱うように、クラウスはただ静かに、ルシアの意志を尊重しようとしていた。
そのひどく不器用で、真摯な優しさが、ルシアの心を静かにかき乱し始めていた。
❇❇❇
数日後。
すっかり体力を回復したルシアは、深緑色のドレスの上に分厚い上着を羽織り、メイドの案内で砦の厩舎へと足を運んでいた。
「お嬢様、足元が滑るので気をつけてくださいね」
「ありがとうございます。あの……本当に、私が厩舎に入ってもいいのでしょうか」
「もちろんです! あの仔馬も、命の恩人に会いたがっていますよ」
厩舎の重い木の扉を開けると、ふわりと干し草の匂いと、動物たちの温かい体温が伝わってきた。
一番奥の区画に、一頭の親馬と、それに寄り添うようにして草を食む小さな仔馬の姿があった。
「あ……」
ルシアが思わず声を漏らすと、仔馬の世話をしていた大きな背中が振り返った。
非番だったのか、ラフな服装で馬用のブラシを持ったクラウスだった。
「ルシア? もう外を歩いても平気なのか」
「ク、クラウス様。申し訳ありません、勝手に……」
「謝るなと言っただろう。ここは砦の中だ。お前はどこへ行ったって自由なんだ」
クラウスはブラシを置くと、ルシアの歩幅に合わせてゆっくりと近づいてきた。
そして、彼女の手を取る代わりに、仔馬の背中を優しく叩いてルシアの方へと促した。
ブルル、と鼻を鳴らしながら、仔馬がルシアに近寄ってくる。
あの吹雪の夜、雪の中で凍死寸前だった小さな命。それが今、ルシアの目の前で、温かい息を吐きながら彼女の手に鼻先をすり寄せている。
「……あたたかい……」
ルシアがそっと仔馬の額を撫でると、仔馬は嬉しそうに目を細め、ルシアのドレスの袖を甘えるように食んだ。
「お前が助けた命だ。あの夜、お前が自分の上着をかけてやらなければ、こいつは今ここにいない」
クラウスが、隣で静かに語りかける。
その声には、ルシアを所有物として見下すような響きは微塵もなかった。ただ、一人の勇敢で優しい女性に対する、深い敬意だけが滲んでいた。
「私なんて、何も……。ただ、この子があの時の私と同じように思えて、放っておけなかっただけで……」
「そうだな。誰も助けてくれない寒さと孤独を、お前は誰よりも知っていたからだ」
クラウスの大きな手が、ためらいがちに空を彷徨い――やがて、ルシアの銀色の髪にそっと、本当に羽が触れるような優しさで触れた。
「だが、お前はもう一人じゃない。誰も助けに来ないような場所に、お前を一人で置いたりしない」
「……」
「もしお前が、王都の屋敷以外の、もっと暖かくて穏やかな場所に行きたいと望むなら。俺は砦の総力を挙げて、お前の安全な暮らしを保証する。……お前は自由だ」
ルシアは、仔馬を撫でていた手を止めた。
ドクン、ドクンと、自分の心臓が大きく波打つのを感じる。
(私が……自由?)
ルシアはゆっくりと顔を上げ、クラウスを見つめた。
氷色だった彼の瞳は、今は春の陽だまりのように暖かく、そしてひどく寂しそうに揺れていた。
「俺は、お前を傷つけた。その傷が消えないこともわかっている。だから、お前がここから離れたいと望むなら、もう俺の身勝手な執着で引き留めたりはしない」
クラウスは、まるで自分の心臓を差し出すような、痛切な声で言った。
「だが、もし……もしお前が、まだこの砦にいてもいいと思ってくれるのなら」
クラウスはルシアの前に片膝をつき、彼女の手を両手でそっと包み込んだ。
それは、忠誠を誓う騎士の礼だった。
「俺のそばにいてほしい。人形としてではなく、誰よりも大切な……俺が一生を懸けて守り抜く女性として」
その瞬間。
ルシアの胸の奥で、何年も前からカチコチに凍りついていた分厚い氷の壁に、ピシリ、と明確なヒビが入る音がした。
自分が生きていてもいいのだと。
役に立たなくても、ただここにいるだけで、大切にしたいと望んでくれる人がいるのだと。
「クラウス、様……」
ルシアの凪いでいた透明な瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
王都でどれだけ虐げられても、冷たい井戸水で手がひび割れても、決して泣かなかった彼女が。
「私……私なんかが……ここに、いてもいいのでしょうか……っ」
ポロポロと溢れ出す涙を止めることができず、ルシアは両手で顔を覆ってしゃくり上げた。
それは、感情を殺していた人形が、初めて「自分の居場所がほしい」と願った、人間としての産声だった。
クラウスは息を呑み、そして、壊れ物を抱きしめるように、泣きじゃくるルシアの細い身体をそっと腕の中に包み込んだ。
今度は無理やりではない。ルシアもまた、彼の広い胸に顔を埋め、子供のように泣き続けた。
厩舎の小さな窓から差し込む冬の光が、二人の雪解けを静かに祝福するように照らしていた。




