第4話 猛吹雪の足音
数日後。辺境の空を、見たこともないほど分厚く、重い鉛色の雲が覆い尽くしていた。
「過去最大級の猛吹雪が来るぞ! 防壁の魔石の出力を上げろ!」
「食料と薪を今のうちに各部屋へ運び込め! 猛吹雪が始まれば、一歩も外に出られなくなるぞ!」
砦の外では、騎士たちが声を張り上げて嵐への備えに奔走していた。
魔獣たちも嵐の気配を察知して凶暴化する恐れがあるため、副団長であるクラウスは朝から防壁の指揮を執り、ずっと部屋を空けている。
一方で、ルシアは一人、暖炉の火が赤々と燃える静かな部屋に取り残されていた。
クラウスからは「絶対に部屋から出るな」と厳命されている。
三度の食事は世話係のメイドが運んでくるし、部屋の温度も魔法の魔石で常に一定に保たれていた。
まさに、至れり尽くせりの環境だ。
けれど、ルシアの胸の奥には、ぽっかりと空いたような虚無感があった。
(私は、ここで息をしているだけ……)
窓ガラス越しに、外で必死に働く騎士たちの姿が見える。
誰もが自分の役割を持ち、生きるために戦っている。それなのに、魔力を持たない無能な自分だけが、こうして安全な箱の中で保護されている。
大切にされているからではない。
私が壊れやすい「人形」だから、クラウス様が責任を感じて、管理しているだけなのだ。
「……っ」
ルシアは胸のあたりをきゅっと掴んだ。
冷たい水でマントを洗っていた時のほうが、手は痛かったけれど、心がこんなに苦しくなることはなかった。
何もできない自分が、ひどく無価値な存在に思えて仕方がなかった。
❇❇❇
その日の夕暮れ時。
いよいよ風の音が恐ろしい唸り声に変わり、窓ガラスがガタガタと激しく揺れ始めた頃だった。
「どうしよう、仔馬が一頭、厩舎から逃げ出してしまったらしいわ!」
夕食のスープを運んできたメイドが、青ざめた顔で仲間のメイドと立ち話をしているのが聞こえた。
「こんな吹雪の日に!? どうして逃げ出したり……」
「嵐の気配に怯えて、パニックになっちゃったみたい。でも、騎士様たちは防壁の守りで手が離せないし、これだけ風が強くなってきたら、探すのはもう無理だって……」
「そうよね。可哀想だけど、あの子はもう助からないわ……」
メイドたちの悲痛な会話が、扉の向こうへ遠ざかっていく。
ルシアは、はっと顔を上げた。
逃げ出した仔馬。寒さと恐怖の中で、たった一人で雪の中を彷徨っている、小さくて無力な命。
『魔力のない役立たずなお前でも、慰み者くらいにはなるだろう』
『どうせ数日もすれば、泣き言を言って逃げ帰るんだろう』
王都で家族に見捨てられ、この砦でも氷のような言葉を投げつけられた時の、あの絶望的な寒さが蘇る。
誰も探してくれない。誰も助けてくれない。
見捨てられた命は、ただ雪の中で冷たくなって、静かに消えていくしかないのだ。
(……あの子は、私と同じだわ)
ルシアは、ふらりと立ち上がった。
クラウスから贈られた深緑色のドレスの上に、部屋の隅にあった分厚い外套を羽織る。
『お前の仕事は、ここで大人しく、俺に守られていることだけだ』
クラウスの重く、切実な声が耳の奥で蘇る。
部屋から出れば、また彼を怒らせてしまうだろう。私という人形が勝手に傷つけば、彼の「罪悪感」をさらに煽ってしまうかもしれない。
それでも、ルシアは扉のノブに手をかけた。
(私のような無価値な命でも、あの子を一晩だけ温めることくらいは、できるかもしれない)
それは、クラウスへの反抗ではない。
どうせ空っぽな自分の命なら、見捨てられた小さな命を救うために使いたいという、悲しいほどの自己犠牲だった。
ギィ、と重い音を立てて扉を開ける。
廊下には誰もいなかった。皆、嵐への備えで忙しく立ち回っているのだろう。
ルシアは誰にも見つからないように、そっと砦の裏口へと向かった。
分厚い木の扉を押し開けると、あの時と同じ、いや、それ以上に凶暴な冷気が、ルシアの細い身体を容赦なく叩きつけた。
「うっ……」
息をするのも苦しいほどの風圧。
一歩踏み出しただけで、足首までずぼりと雪に埋まってしまう。
治ったばかりの顔や手に、氷の粒のような雪がビシビシと打ち付けられ、あっという間に感覚を奪っていく。
それでもルシアは、真っ白に染まった視界の中を、仔馬の姿を探して一歩、また一歩と歩き出した。
(待っていてね。今、助けに行くから)
自分がこの後、どれほど恐ろしい目に遭うかも知らないまま。
ルシアの小さな足跡は、吹き荒れる猛吹雪によって、刻一刻と白く塗り潰されていった。
砦の防壁を補強し、異常をきたした魔獣たちの気配を警戒し続けること数時間。
すっかり夜の闇に包まれた頃、クラウスはようやく執務から解放され、急ぎ足で自室へと向かっていた。
(ルシアは怖がっていないだろうか)
外は、数メートル先も見えないほどの猛吹雪だ。風が砦の石壁を打ち据える音が、獣の咆哮のように響いている。
魔力を持たない彼女は、きっと広いベッドの上で一人、嵐の音に怯えて震えているに違いない。
早く戻って、あの小さな身体を抱きしめて安心させてやりたい。その一心で、クラウスは扉のノブに手をかけた。
「ルシア、遅くなってすまない。もう大丈夫だ――」
ガチャリと扉を開け、クラウスは息を呑んで立ち尽くした。
暖炉の火は赤々と燃え、部屋は十分に暖かい。
だが、ベッドの上にも、窓際の椅子にも、ルシアの姿はなかった。
いつもなら、扉が開く音を聞きつけて「おかえりなさいませ」と空っぽの微笑みを浮かべて立っているはずの彼女が、どこにもいないのだ。
「ルシア? どこにいる」
クラウスは足早に部屋の中を探し回った。
衣装棚の裏、隣の洗面室。しかし、どこを探しても彼女の姿はない。それどころか、部屋の隅にあったはずの分厚い外套が消えていた。
ドクン、と嫌な音を立てて心臓が跳ねる。
背筋をぞっとするような悪寒が駆け上がった。
「おい! 誰かいるか!」
クラウスが怒鳴り声とともに廊下へ飛び出すと、見回りをしていた若い騎士とメイドたちがびくっと肩を震わせて振り返った。
「ふ、副団長! どうされましたか?」
「ルシアを知らないか!? 部屋にいないんだ! 俺は絶対に部屋から出るなと言っておいたはずなのに!」
血相を変えたクラウスの剣幕に、メイドの一人がハッとして顔を青ざめさせた。
「お、お嬢様なら……夕方、私たちが扉の前で立ち話をしてしまった直後から、姿が見えません……」
「立ち話だと? 何の話をした!」
「その……嵐に怯えて厩舎から逃げ出してしまった、仔馬の話を……。誰も助けに行けないから、あの子はもう雪の中で死んでしまうだろうって……っ」
メイドの言葉を聞いた瞬間、クラウスの頭の中で何かが激しく弾け飛んだ。
『私のような無能な厄介者が……』
『私はクラウス様のものですから、お好きなようになさってください』
ルシアの空っぽな瞳と、すべてを諦めきった声が脳裏に蘇る。
彼女は、自分が愛されて守られているなどとは欠片も思っていない。
自分は「無価値」で、いつ見捨てられてもおかしくない存在だと思い込んでいる。だから、同じように見捨てられた仔馬の話を聞いて、どうせ無価値な自分の命を使い捨てようとしたのだ。
「……っ、ああっ!!」
クラウスの口から、獣のような悲鳴が漏れた。
自分が作った過保護な鳥籠は、彼女の身体を休ませることはできても、彼女の心の底にある『死への諦観』を何一つ救えていなかったのだ。
「副団長!? どこへ行くんですか!」
制止する部下の声を振り切り、クラウスは狂ったように砦の裏口へと駆け出した。
❇❇❇
裏口の扉を蹴り開けると、暴風雪がうなりを上げてクラウスの身体を叩きつけた。
吹き溜まりの雪はすでに腰の高さまで達している。
「ルシア!! ルシアーーッ!!」
喉が裂けそうなほどの声で叫ぶが、猛烈な風の音にかき消されて、自分の耳にすら届かない。
クラウスは自身のありったけの魔力を解放した。
氷色の瞳が魔力で鋭く発光し、彼の周囲の雪が爆発したように吹き飛ぶ。魔力で視界を強制的に確保し、雪の表面に残るわずかな魔力の乱れや足跡の痕跡を、血眼になって探した。
魔力を持たないルシアが、この猛吹雪の中で生きていられる時間は、長くて数十分だ。
体温は急速に奪われ、やがて眠るように意識を失う。
(嫌だ。嫌だ……っ! 俺を置いていかないでくれ!)
クラウスは雪をかき分け、幾度もつまずきながら、暗闇の雪原をあてもなく進んだ。
俺がどれだけ彼女の心を壊したとしても、彼女を失うことだけは絶対に耐えられない。
憎まれてもいい。二度と笑ってくれなくてもいい。だから、どうか生きていてくれ。
「ルシア!! 頼む、返事をしてくれ!!」
氷の副団長と恐れられた男の顔は、涙と雪でぐしゃぐしゃに濡れていた。
無様で、滑稽で、哀れなほどに、彼はただ一人の少女にすがりついていた。
その時。
クラウスの魔力探知が、雪だまりの奥、砦から少し離れた小さな岩陰に、わずかな生命の反応を捉えた。
「……!」
クラウスは息を呑み、弾かれたようにその岩陰へと駆け出した。
そこにあった光景を見て、彼の心臓は文字通り、止まりそうになった。
雪が吹き溜まった、小さな岩陰。
そこに丸くなっていたのは、探していた仔馬と――それをかばうように覆い被さっている、ルシアの小さな背中だった。
「ルシア……っ!」
クラウスは雪に足を取られて転びそうになりながら、岩陰へと転がり込んだ。
ルシアは、自分が着ていた分厚い外套を脱ぎ、震える仔馬の身体にぐるぐると巻きつけていた。
そして自分は、あの深緑色のドレス一枚の姿になり、仔馬を風から守るようにきつく抱きしめている。
魔力を持たない人間が、この猛吹雪の中で上着を脱げばどうなるか。
ルシアの身体はすでに雪に半分埋もれ、氷のように真っ白になっていた。まつ毛には霜が降り、唇は紫を通り越して青ざめている。
「ルシア! おい、目を開けろ!!」
クラウスは震える手でルシアを抱き起こした。
仔馬はクラウスの気配に驚いていなないたが、外套に包まれていたおかげでまだ命の火は消えていなかった。
しかし、ルシアの身体は恐ろしいほどに冷たく、ピクリとも動かなかった。
「嘘だろ……なんで、なんでこんな真似を……っ」
クラウスは自分の黒狼の毛皮を脱ぎ捨て、ルシアの身体を何重にも包み込んだ。
そして、自分の体温と魔力のすべてを注ぎ込むように、彼女を強く胸に抱きしめる。
「ルシア、頼むから目を開けてくれ! 俺を置いていかないでくれ!!」
吹雪の音に負けないほどの悲痛な叫び声。
クラウスの目から溢れ出した涙が、ルシアの冷たい頬にポロポロと落ちていく。
どれくらいそうしていただろうか。
クラウスの魔力と必死の呼びかけに反応したのか、ルシアのまつ毛が微かに震え、薄く目が開いた。
「……あ……」
「ルシア! わかるか、俺だ!」
焦点の合わない、虚ろな瞳。
ルシアは自分の顔を覗き込むクラウスを見て、ひび割れた唇をかすかに動かした。
「クラウス、様……。ごめんなさい……私、また……勝手に……」
「喋るな! 今すぐ砦に戻る。お前は絶対に助けるから!」
「……仔馬は……無事、ですか……?」
自分の命が消えかかっているというのに、ルシアは掠れた声で仔馬の心配をした。
「無事だ! お前が外套をかけてやったから、生きている! だからお前も……!」
「よかった……。あの、子は……私と違って……生きていれば、きっと……クラウス様の、お役に立てますから……」
ルシアの言葉に、クラウスは息を呑んだ。
心臓を、太い杭で串刺しにされたような痛みが走る。
「何を……何を言っているんだ。お前だって、生きていれば……」
「私は、無能で……役立たずの、人形ですから……」
ルシアは、安心したようにふわりと微笑んだ。
それは、クラウスに服を贈られた時のような作り物の笑顔ではない。すべてを諦め、自分の命を『価値のある命』のために使い切れたという、純粋で悲しい安堵の微笑みだった。
「私の命で……あの子が助かるなら……。クラウス様の……罪悪感も、少しは……軽くなり、ますか……?」
「……っ!」
ドクン、と。
クラウスの頭の中で、張り詰めていた何かが決定的に壊れる音がした。
罪悪感。
彼女は、俺の狂ったような執着と過保護を、すべて『彼女の手を傷つけたことへの罪悪感』だと思い込んでいたのだ。
そして、どうせ価値のない自分なら、少しでも俺の役に立つために、死んで罪悪感を軽くしてやろうと。
(俺が……俺が、こいつをここまで追い詰めたんだ……っ!)
「違う! 違うんだ、ルシア……っ!」
クラウスは、声にならない嗚咽を漏らしながら、ルシアの冷え切った身体を痛いくらいに抱きしめた。
「罪悪感なんかじゃない! お前がいないと、俺が生きていけないんだ! お前を愛しているんだ……! だから、死ぬなんて言うな……っ! 頼むから、俺のそばにいてくれぇぇっ!!」
猛吹雪の中で、氷の副団長と恐れられた男の、血を吐くような慟哭が響き渡った。
自分の罪の深さと、どんなに愛を叫んでも届かない絶望。
クラウスはただ子供のように泣きじゃくりながら、ルシアの顔に自分の頬をすり寄せ、ありったけの魔力で彼女を温め続けた。
クラウスの涙がぽたぽたと落ちる中、ルシアの意識は再び深い闇の中へと沈んでいった。
❇❇❇
「副団長!! こちらです!!」
どれほどの時間が経ったのか。
クラウスの放った強大な魔力の余波を辿って、砦の騎士たちが松明を掲げて吹雪の中を捜索にやってきた。
「ルシアが……息をしていない。早く、治癒術師を……っ」
クラウスはルシアを腕に抱いたまま、幽鬼のような虚ろな顔で呟いた。
その声のあまりの悲痛さに、駆けつけた騎士たちも言葉を失う。
彼らはすぐに仔馬を保護し、クラウスを囲むようにして砦へと急いだ。
クラウスの腕の中で、ルシアはただ白く、静かに目を閉じている。その顔は、まるで本当に精巧な硝子細工の人形のように、一切の生気を感じさせなかった。
(俺は……なんて取り返しのつかないことを……)
砦の明かりが近づいてくる中、クラウスはただひたすらに、心の中でルシアへの懺悔を繰り返していた。




