第3話 すれ違う視線
俺は、とんでもない過ちを犯した。
執務室の机に肘をつき、クラウスは深く、ひどく重い両手で顔を覆った。
王都の人間は腐っている。辺境で命を懸けて魔獣と戦う騎士たちを、ただの捨て駒としか思っていない。
数年前、王都の貴族の身勝手な命令のせいで、クラウスは多くの部下を失った。だから、王都から送られてきた公爵家の娘を見た時、あいつらのように傲慢で浅ましい女に違いないと決めつけていたのだ。
『どうせ数日もすれば、泣き言を言って逃げ帰るんだろう』
あの時の自分の言葉を思い出すたび、腹を刃物でえぐられるような自己嫌悪に吐き気がする。
彼女は、何も持っていなかったのだ。
帰る場所も、自分を守るための魔力も、そして、誰かに助けを求めるという当たり前の感情すらも。
王都の屋敷で「無能」と虐げられ、心を殺すことでしか生き延びられなかった孤独な娘。それを、俺はさらに氷点下の冷水の中に突き落とした。
血まみれになって倒れていたルシアの手を思い出すと、今でも胸が締め付けられて息ができなくなる。
「……くそっ」
クラウスは低く唸り、執務室の椅子から立ち上がった。
ルシアの凍傷は治ったが、彼女はまだクラウスの私室にいる。「どこにも行くな」と命じた俺の言葉を、彼女はただの『命令』として絶対に従っているのだ。
クラウスは、執務室の隅に置いてあった大きな木箱を抱え上げた。
街の商人に急いで取り寄せさせた、女性用の衣服だ。ルシアは王都から追放された時、あのペラペラの薄い上着と、ボロボロになったドレスしか持っていなかった。
箱の中には、肌触りの良い柔らかなウールのショールや、上質な生地のドレスが入っている。
王都の令嬢が好むような、目が痛くなるほどの派手な原色や過剰なフリルは避けた。選んだのは、落ち着いた深緑色のドレスだ。
派手さはないが、どこか静謐で美しい彼女の雰囲気に、その深緑色がとてもよく似合うと思ったからだ。
クラウスは木箱を抱え、自分の私室へと急いだ。
❇❇❇
ガチャリと扉を開けると、ルシアは窓際の椅子に座り、雪景色をただぼんやりと眺めていた。
物音に気づいてこちらを振り向いた彼女の瞳には、やはり何の感情も浮かんでいない。
「クラウス様、おかえりなさいませ」
ルシアはすぐに立ち上がり、完璧な角度で頭を下げた。
その隙のない従順さが、クラウスの胸をまたチクリと刺す。
「ああ。……これを開けてみろ」
クラウスはテーブルの上に木箱を置き、ルシアを促した。
少しでも喜ぶ顔が見たくて、俺は不器用なほど期待に胸を膨らませていた。気の利いた言葉一つ言えない男だが、これを見れば、少しは俺の気持ちが伝わるかもしれない。
ルシアはおずおずと箱に近づき、そっと蓋を開けた。
「これは……」
中に入っていた深緑色のドレスと、暖かそうな冬着の数々を見て、ルシアは小さく息を呑んだ。
クラウスは、彼女がぱっと顔を輝かせて「綺麗」と笑ってくれるのを待った。あの若い騎士・マルクに向けたような、あの儚くも美しい笑顔を。
しかし、ルシアは箱の中身を確認すると、スッと感情を消してクラウスに向き直った。
「ありがとうございます、クラウス様。私のような者に、こんなに立派なお仕着せを用意していただいて……。これからは、もっとお仕事に励みますね」
「……は?」
クラウスは眉間を寄せた。
「お仕着せだと?」
「はい。こんなに上質で、汚れの目立たない深緑色のお洋服まで。きっと、砦で働くための制服なのですよね。大切に着させていただきます」
ルシアは本気でそう思っていた。
王都で「無能」として扱われていた彼女にとって、誰かが自分に服を与える理由など、労働のため以外にあり得ないのだ。
ましてや、自分の手を傷つけた罪悪感から面倒を見ている(とルシアは思い込んでいる)クラウスが、純粋な『贈り物』をくれるなどと、微塵も想像していない。
「違う!」
クラウスは思わず声を荒らげてしまった。
ビクッとルシアの肩が跳ね、怯えたように一歩後ずさる。それを見て、クラウスは慌てて自分の口元を覆い、荒くなった呼吸を整えた。
「……すまない、怒ったわけじゃない。だが、それは仕事着なんかじゃない。お前のために俺が選んだ、ただの贈り物だ。だから、そんなふうに受け取らないでくれ……」
すがるようなクラウスの声に、ルシアは困惑したように目を瞬かせた。
「私のため……ですか? でも、私はクラウス様に何もお返しできるものがありません。こんな高価なものをいただく理由が……」
「理由なんてない! 俺がお前に着てほしかっただけだ。ただ、それだけなんだ……っ」
クラウスはルシアの手を引き寄せ、両手で強く握りしめた。
どうして伝わらない。どうしてこんなにも、お前と俺の言葉はすれ違ってしまうんだ。
必死に愛を伝えようとするクラウスを見つめながら、ルシアの透明な瞳は、ただ静かに凪いでいた。
(クラウス様は、本当に優しい方……)
ルシアは心の中で、静かにそう結論づけた。
自分が怪我をさせた手前、ボロボロの服を着せておくのは彼の騎士としての誇りが許さないのだ。だから、こんなに必死になって「贈り物だ」と言い聞かせようとしている。可哀想に、不器用な方だわ。
「……わかりました。クラウス様がそこまでおっしゃるなら、ありがたく頂戴いたします。私のために、深緑の素敵なお色を選んでくださって、本当に嬉しいです」
ルシアは、クラウスを安心させるために、空っぽの微笑みを浮かべて見せた。
それは完璧な令嬢の笑顔だったが、そこには「喜び」も「心」も、欠片も存在していなかった。
その作り物の笑顔を向けられた瞬間、クラウスは絶望的な無力感に襲われ、ただルシアの手を強く握りしめることしかできなかった。
ルシアが深緑色のドレスに袖を通した姿は、息を呑むほど美しかった。
ペラペラの薄い上着を着て、中庭で震えていた時の青白い肌とは違う。
暖かい部屋で栄養のあるスープを飲み、少しだけ血色の良くなった白い頬。銀色の髪が、深緑の上質な生地にとてもよく映えていた。
まるで、雪解けの森にひっそりと咲く、名もなき野花のような静謐な美しさ。
その姿を見るたび、クラウスの胸の奥で、どうしようもないほどの愛おしさと、真っ黒な独占欲が渦を巻いた。
(……誰にも見せたくない)
本気でそう思った。
砦のむさ苦しい男たちになんて、絶対に彼女を見せたくない。このまま俺の部屋の奥深くに隠して、俺の手の中だけで生きていってほしい。
それがどれほど身勝手で、異常な執着かはわかっている。だが、あの雪の中で冷え切った彼女の体を抱き上げた日から、クラウスの理性は完全に狂ってしまっていた。
だが、クラウスの想いとは裏腹に、ルシアの心は分厚い氷の壁に覆われたままだった。
ある日の午後。
執務室で書類仕事に追われていたクラウスは、少し早めに自分の部屋へと戻る廊下を歩いていた。
「あ……マルク様」
廊下の角を曲がろうとした時、ルシアの静かな声が聞こえた。
クラウスは思わず足を止める。
壁の向こう側で、ルシアが空になったスープの食器を持ったマルクと立ち話をしているようだった。
ルシアには「部屋から出るな」と命じていたが、どうやらマルクが食器を下げるついでに、扉の隙間から声をかけたらしい。
「ルシアお嬢さん、そのドレス、すごく似合ってますね! 深緑色、お嬢さんの雰囲気にぴったりです」
マルクの無邪気な声が響く。
「ありがとうございます。クラウス様が、私のような者のために用意してくださったお仕着せなのです」
「えっ、お仕着せ? 副団長がですか? いやいや、そんなわけ……」
マルクが何かを言いかけた時、ルシアがふさりと銀色の睫毛を伏せ、小さく笑う気配がした。
「私、王都ではずっと邪魔者でしたから……。この砦の皆様が、こうして普通にお話ししてくださるだけで、とても嬉しいんです。マルク様、いつもお気遣いありがとうございます」
それは、クラウスには絶対に見せない、心からの安堵がこもった柔らかい声だった。
ドクン、と。
クラウスの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
(どうして……俺の前では、あんな声を出さない)
俺の前では、いつも何かを諦めたような、空っぽの作り笑いしか見せないくせに。
俺がどれだけ高価な服を贈っても、つきっきりで食事の世話をしても、彼女はただ「申し訳ありません」「命令に従います」としか言わない。
それなのに、あの小僧には、あんなに柔らかい声を出すのか。
あんなに、心を許したような態度をとるのか。
どす黒い嫉妬が、クラウスの頭の中を真っ白に染め上げた。
気づいた時には、彼は壁の向こう側に踏み込んでいた。
「……何をしている」
地獄の底から響くような声に、マルクが「ひっ」と短い悲鳴を上げて飛び退く。
ルシアも驚いて肩を跳ねさせ、クラウスを見上げた。
「ク、クラウス様……お帰りなさいませ」
「俺は、部屋から出るなと言ったはずだ」
「申し訳ありません。マルク様が食器を下げに来てくださったので、ご挨拶を……」
ルシアが言い訳をするより早く、クラウスは彼女の細い腕を乱暴に掴んだ。
「痛っ……」
「副団長! お嬢さんは何も悪くありません、俺が勝手に話しかけただけで……!」
マルクが庇おうと前に出た瞬間、クラウスは殺気すら混じった氷色の目で部下を睨みつけた。
「失せろ」
「……っ!」
「二度とルシアに近づくな。次はないぞ」
その絶対的な威圧感に、マルクは顔を青ざめさせ、逃げるように廊下の奥へと走り去った。
静まり返った廊下に、クラウスとルシアの二人だけが残される。
クラウスはルシアの腕を掴んだまま、自分の部屋の扉を乱暴に開け、彼女を中へと引きずり込んだ。
❇❇❇
バンッ! と重い音を立てて扉が閉まる。
「クラウス様……あの、腕が、痛いです……」
ルシアが怯えたような声で小さく訴える。
ハッとして手を離すと、彼女の白い手首には、クラウスの指の跡がうっすらと赤く残っていた。
「……っ、すまない!」
クラウスは自分の手首を呪いたくなるほどの自己嫌悪に襲われ、一歩後ずさった。
まただ。また俺は、このか弱い娘を傷つけてしまった。大切にしたいのに、守りたいのに、自分のどす黒い感情がコントロールできない。
「いいえ……私が、命令を破って外に出たのがいけないのです。申し訳ありませんでした」
ルシアは痛む手首をかばうように胸の前に抱え、すっと目を伏せた。
そして、いつものように――すべてを諦めきった、あの『空っぽの微笑み』を浮かべる。
「次からは気をつけます。ですから、どうかお許しください」
その作り物の笑顔を見た瞬間、クラウスの中で何かがブツリと切れた。
「……違う」
クラウスは唸るように声を絞り出し、逃げようとするルシアの肩を掴んで、そのままベッドへと押し倒した。
「きゃっ……!?」
「違う……! 俺は、そんな顔が見たいんじゃない!」
ふかふかのベッドに沈み込むルシアの身体の上に、クラウスは覆い被さった。
ルシアは恐怖に目を見開き、ガタガタと小刻みに震えている。
「どうして……どうして俺には、笑ってくれないんだ」
怒りではなく、それは絶望に満ちた懇願だった。
クラウスはルシアの首元に顔を埋め、まるで駄々をこねる子供のように震える声で吐き出した。
「あんな小僧の前では、嬉しそうに笑っていただろう……! なのに、どうして俺の前では、いつもそんなに怯えているんだ。俺がこれだけお前を……お前を大事にしているのに、どうして伝わらないんだ!」
クラウスの悲痛な叫びを聞いて、ルシアは息を呑んだ。
(大事に、している……?)
ルシアには、彼が何を言っているのか全く理解できなかった。
腕に青あざができるほど強く掴み、無理やりベッドに押し倒して、他の人と話しただけでこれほどまでに激昂する。
それが「大事にしている」ということなのだろうか。
王都の屋敷で、異母妹が大切にしていた美しい硝子細工の人形を思い出す。
異母妹は、その人形を誰にも触らせず、箱の中に閉じ込めていた。そして、少しでも人形の服が汚れると、ヒステリックに泣き叫んだのだ。
(ああ……)
ルシアの凪いだ瞳が、ゆっくりと虚空を見つめた。
(クラウス様にとって、私はあの『お人形』と同じなのだわ)
自分のせいで壊れかけた、可哀想な人形。
だから、誰にも触らせたくない。自分が管理して、自分の目の届くところに置いておきたいだけだ。そこに、私という「人間」への愛情なんて、ひとつもない。
「……申し訳ありません、クラウス様」
ルシアは、自分に覆い被さって震える大きな背中に、そっと手を添えた。
抵抗もせず、ただ静かに、人形としての役割を全うするために。
「私はクラウス様のものです。クラウス様の望むように笑います。だから……どうか、そんなに悲しまないでください」
優しくて、残酷な言葉だった。
その言葉を聞いたクラウスは、絶望のあまりルシアの肩に顔を押し当てたまま、声にならない嗚咽を漏らした。
俺が過去に犯した罪が、彼女の心を殺してしまった。
どんなに愛を叫んでも、どんなに抱きしめても、ルシアの心はもう、俺には届かない場所で完全に凍りついているのだ。
夜の帳が下りた砦の部屋は、暖炉の火の爆ぜる音だけが静かに響いていた。
クラウスはベッドの上で、ルシアの細い身体を腕の中にすっぽりと閉じ込めるように抱きしめていた。
ルシアは抵抗しなかった。クラウスが腕に力を込めればその通りに身を寄せ、彼が髪を撫でればされるがままに目を閉じる。
まるで、持ち主の機嫌を損ねないようにじっと耐えている、精巧な硝子細工の人形のように。
「……痛くないか?」
クラウスが掠れた声で尋ねると、ルシアは彼の胸に顔を埋めたまま、小さく首を横に振った。
「はい。クラウス様は、とてもお優しいですから」
「……」
その言葉が、またクラウスの胸を鋭くえぐる。
優しいわけがない。俺は今日、嫉妬に狂って彼女の腕に痣を作ったのだ。それなのに、彼女は俺を責めるどころか、俺がこれ以上罪悪感を感じないように「優しい」と嘘をついて慰めようとしている。
(俺が、お前の心をこんな風に歪ませてしまったんだな)
クラウスは、ルシアの銀色の髪にそっと唇を落とした。
王都で虐げられ、傷ついていた彼女の心を、俺は決定的に壊してしまった。
彼女はもう、俺からのどんな愛情も『罪悪感からの同情』か『持ち主としての管理』としか受け取れないのだ。
絶望的なすれ違い。
普通なら、ここで身を引き、彼女を自由にしてやるのが本当の愛なのかもしれない。彼女を温かく迎え入れてくれる別の場所を探し、遠くから見守るべきなのだろう。
だが、クラウスにはそれができなかった。
(絶対に、誰にも渡さない)
クラウスは、腕の中の小さな身体をさらに強く抱き寄せた。
ルシアが小さく息を呑むのがわかったが、クラウスは腕の力を緩めなかった。
もし彼女が、俺以外の男に向かって心から笑いかけたら。
もし彼女が、俺の知らない場所で誰かに愛されて幸せになったら。
そんなことを想像しただけで、狂いそうなほどの嫉妬と焦燥感で頭がおかしくなりそうだった。
(俺が壊した心なら、俺が一生かけて直す。何年かかっても、何十年かかっても……お前が俺を愛してくれるまで、絶対に逃がさない)
それは、呪いのように重く、泥沼のように深い執着だった。
氷の副団長としての理性など、とうの昔に消え失せている。今のクラウスは、ただ一人の少女の心にしがみつく、みっともなく不器用な男でしかなかった。
「……ルシア」
「はい、クラウス様」
「ずっと俺のそばにいろ。お前が何と言おうと、俺はお前を手放さないからな」
クラウスの熱を帯びた囁きに、ルシアは何も答えなかった。
ただ、静かに目を閉じ、クラウスの腕の中で規則正しい寝息を立て始める。
窓の外では、また新しい雪が降り始めていた。
二人の間に横たわる冷たい氷壁が溶ける日は、まだ遠い。




